真夜中の蛍

藤夜

第1話 アイスクリーム

 病院の廊下は夜でも薄明るい。

 窓の外は真っ暗だ。まるで鏡のように私の姿を映すガラスは、他に誰も動くものの姿を映してはいない。

 私は今日も鍵を持って受付の椅子から立ち上がった。


 この病院は一階部分が外来、二階以上が入院病棟になっている。夜八時が来ると、院内の一階部分の鍵を閉めて回るのだ。

 病院受付の当直業務、それが私の仕事だ。


 一泊数千円。決して時給は高くない。

 だが、夕朝食と風呂付きの部屋が付いて、何事もなければ朝までぐっすり眠れる。


 療養病棟ばかりのこの病院は、救急患者が運び込まれることもなく、比較的のんびりしている。

 入院している患者達も高齢の方が多く、急変しても看取るだけで、ただ死までの苦しみが長引かない様な治療に抑えられている。

 当直業務でバタバタするのは、その変化が夜間に来た時くらいだ。


 私は地下への階段を降り、重い扉を押す。

 古い扉はギギギと軋みながら奥へと開き、真っ暗な部屋の中からカビ臭い空気が漏れ出て来た。


 電気をつけてボイラー室へ歩いて行き、ボイラーの電源を落とす。

 途中、数十年前に患者の誰かが首を吊ったという場所を通る時だけ少しゾッとした。

 毎回のことだが。


 再び階段を登って一階に着いた。エレベーターの電源を切り、各所の外部へ通じる扉の施錠を確認する。

 これで一仕事が終わりだ。

 後は当直室でのんびりテレビでも見る。電話がかかって来た時に応対すれば良い。


 ホッとして受付の事務所に戻るべく歩いていた私は、売店の横を通った時に一人の高齢の男性と出くわした。

 売店にはアイスクリームが売られており、業務用の大きな冷凍庫のケースが据え付けられている。

 パジャマ姿の男性はそのケースを覗き込んで、ガラス越しにアイスクリームを物色している様だった。


 こんな時間ではケースに鍵が掛けられていて、買うことは出来ない。第一、もう売店のおばちゃんもいない。

 しかし、あんまり真剣に選んでいる様に見えたので、買えないよ、とも言えずそのまま横を通り過ぎた。

 パジャマということは入院の患者だろう。明日買うつもりなのかも知れない。


 そのまま私は受付に行き、事務所の鍵を閉めて当直室にこもった。

 さあ、後は自由な時間が始まる。私はリモコンを取り、テレビをつけた。




 しばらくたって、当直室の電話が鳴った。私はテレビを消して電話をとる。

 その電話は病棟の看護師からのものだった。


 入院していた高齢男性の容態が急変したという。すぐに患者の家族に電話を繋いで欲しいとの事だった。

 言われた通りに電話を繋ぐ。家族はすぐに病院に来ると言って電話は切れた。


 さて、玄関の鍵を開けて、病棟に上がるエレベーターの電源をつけにいかねば。


 廊下のはしのエレベーターの電源をつけようとして、私の指が止まった。


 そういえば、先程アイスクリームを覗き込んでいた男性はどこに行ったのだろう。


 私はエレベーターの電源は切っていた。

 外への鍵は閉まっている。


 彼は何処から来て、何処へ去ったのだ?


 私は何を見たのだろう?




 不思議と怖さは感じなかった。


 あの男性は最後にアイスクリームが食べたかったのだろうか。


 バタバタと慌てたふうにやってきた家族を病棟に案内しながら、私はそのことを伝えることは出来なかった。



 彼がもう一度アイスクリームを食べる事ができるようにと、ただただそう思った。

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