8. さよならの形
サーシャの叫びに応じて、ティアナは背筋を伸ばすとダニエルの左手をつかんだ。
「ダニエル様、私と一緒に珠言を唱えてください! 私とブラウ、そしてダニエル様の魔力があれば、きっとうまくいきます!」
「だ、だけど。僕は…」
救いを求めるようなダニエルに向かって、ティアナは首を横に振った。
「迷わないで。サーシャ殿下は、ダニエル様に祈って欲しいのですよ」
ダニエルの体の震えが止まった。
とんだ大馬鹿だよ、僕は。サーシャは、自分のやるべき事がとっくに分かっているというのに。彼女の気高い背中に恥じることのないように、僕も強くあらねばならない。今の僕がサーシャに出来る事、それはただ一つだけ。
「わかったよ、ティアナ」
ダニエルの言葉に優しくうなずいたティアナは、前髪をかき上げると、幽体の群れの前で仁王立ちしているサーシャへと瑠璃色の瞳を向けた。徐々に金色の光を帯びていくティアナの瞳から、やがてまばゆい黄金色の光が発せられると、それはサーシャの全身を包んでいく。そして輝きがついに臨界に達したとき、ティアナの唇が朗々と言葉を発した。
「では、お伝えします。あなたが生きたことに」
溢れてくるもので視界が曇る中、ティアナに合わせてダニエルも唱和する。
「感謝、します」
さらに声のトーンを上げるティアナの左肩では、青い角鱗に光を反射させたブラウが、睨むように前方を見据えている。
「あなたが次の
「……温かな光を、つかめますように!」
瞬間、だん、とサーシャが幽体の群れへと跳躍した。輝く黄金色の光を身にまとったサーシャが幽体たちの間をすり抜けると、やや遅れて進路上にいた者たちの形が崩れ、きらきらと光る魂の
そして群れの大きさが縮小していくにつれて、サーシャの身体も足先から上半身の方へと、少しずつ形を失っていく。やがて幽体の最後の一体が天に昇るのを見届けた時には、ダニエルの目にはサーシャの顔と右手しか
「……サーシャっ!」
ダニエルの脇をすり抜けるサーシャの顔は、彼への感謝に満ちていた。言葉を失ったダニエルの目に、彼女の唇が小さく動き、一言だけ形をとるのが見えた。
さよなら。
そしてサーシャは、舞い続ける他の金色の粒子に溶け込むと、マストに導かれるように夜空を目指して還って行った。
膝を抱えて座り込んでいるダニエルと、うつむいたままのティアナの足元から、かすかな振動が響いてくる。そして、がん、という大きな音とともに、彼らのいる甲板ごと船がゆっくりと傾き始めた。のろのろと顔を上げたダニエルを、ブラウが怒ったように
「何やってんだよ、ダニエル! この船、もうすぐ沈むよ!」
はっと周囲を見回したダニエルは、頬を濡らして立ちすくんでいるティアナと目が合った。そうだ、僕にはまだ大切なものが残っている。ダニエルは立ち上がると、月明かりを頼りに目を凝らした。あった、船体の縁に吊り下げられている救命ボート。
「ティアナ、こっちに!」
ダニエルはよろめくティアナの手を引くと、斜面になった甲板にてこずりながらボートに駆け寄り、ティアナを先に乗り込ませた。そして自分も飛び乗ると、巻き上げられたロープを緩めるためにウインチのハンドルを動かそうとする。しかしそれは、幾年も風雨にさらされたように完全にさびついており、回転部分は基部とほとんど一体化していてびくともしない。
「え、どうして……」
焦るダニエルに、ようやく自分を取り戻したティアナがつぶやいた。
「ダニエル様。船の中を散策していた時に進水日が刻印されたプレートを見つけたのですが、それによると、この船が存在していたのはもう百二十年も前なのです。だから、船体もあのように」
ティアナが指をさして示したように、船の上のあらゆる構造物は今やその本来の姿を取り戻し、朽ちて壊れかけ無残な姿をさらしていた。ティアナは唇を噛んでうつむくと、ボートの床をじっと見つめる。
「黙っていて申し訳ありません。私とブラウは、サーシャ様が幽体であることは最初からわかっていました。それなのに、ダニエル様を危険な目に遭わせてしまって」
ダニエルは、自分の両手でティアナの手を包み込んだ。少し震えている彼女の手は、やはり暖かかった。かけがえのない人がそばにいてくれる、それだけで今は十分だ。
「ティアナ。僕は君にむしろ、ありがとうを言うよ。短い間だったけれど、サーシャと一緒に過ごすことができたんだから。サーシャもきっと、同じ気持ちだと思う」
目を潤ませながらうなずくティアナに優しく微笑むと、ダニエルは厳しい表情に戻った。
「だけど、このハンドルが動かないんじゃ、ボートを海面に下ろすことが出来ないし……」
それまで黙っていたブラウが、えへんとわざとらしく咳ばらいをすると、真打ち登場とばかりに頭をぐっともたげた。
「それじゃあ、僕の出番かな」
会話を聞かれていたことを思い出してばつが悪くなったダニエルは、照れを隠すためにわざとぶっきらぼうに言った。
「え。ブラウ、君何かするの? 大きくなって僕たちを背中に乗せてくれるとか?」
ブラウははた目にもわかる嫌そうな顔をした。
「冗談じゃないよ。ティアナ一人ならともかく、ダニエルを二度も背中に乗せるなんてさ。ダニエルって、甘やかすとつけあがるタイプだし」
「君、言い方……」
「まあ、とにかくこの場は何とかしなきゃね」
そう言うとブラウは、さびたウインチを薄青色の目でじっと見つめた。特に周囲に変化はないのに、
「……ねえ。これって、ひょっとしてとんでもない能力じゃない?」
「細かいことはいいから。ほらダニエル、はやくハンドル回せったら!」
そうだった、とダニエルは慌ててハンドルをつかむと腕に力を込める。ぐるり、とそれはあらかじめ潤滑油を塗ってあったかのように滑らかに動き、巻かれていたロープを送り出し始めた。ハンドルを回すにつれて、三人を乗せたボートは帆船の側壁に沿って下っていき、少しずつ海面に近づいていく。そして底が海に触れたと当時にボートは外洋の波に大きく揺られ、中腰だったダニエルは大きくふらついた。
「よし、離れるよ!」
もやい綱を解いたダニエルは、備え付けのオールを手にすると力いっぱいに漕ぎ出した。やがて帆船の影が手のひらほどの大きさになった頃、どおん、という音が遠くから響いてきて、それを合図に船全体が海に没し始める。沈んでいくマストの先からは、垂直に伸びた金色の光が雲を割ってどこまでも昇っていく様が見えていた。やがてその光条は少しずつ太さを減じていくと、不意にふっと消え、後には静かなさざ波の音とかすかに吹いてくる海風だけが残った。
「……ティアナ。サーシャ、寂しくないかな」
「そんなことはありませんよ。サーシャ様はいつでもダニエル様の中にいますし、サーシャ様の中にもダニエル様がずっといてくれます。私たちは、決して独りになることはありません」
「そう、そうだね」
ダニエルはボートの席に深く腰掛けた。目を閉じれば、サーシャの勝気な声が聞こえてくる。
「ごめん、ティアナ。少し、泣くね」
ダニエルはそう言って、声にならない嗚咽を吐き出し始めた。ティアナはためらいがちに体を寄せると、ダニエルの身体を強く抱く。そのまま二人は肩を寄せ合いながら、いつしか浅い眠りに落ちて行った。
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