7. サーシャの真実

 夜の甲板の上で柵にもたれながら、ダニエルは暗く光る海面を見つめていた。頭上に輝く満月は洋上を進む帆船を静かに照らし、薄くたなびく雲の形までがはっきりと分かるほどに夜空は明るい。

 背後から遠慮がちに近づいてくる足音に振り向いたダニエルは、心配そうに自分を見ているティアナに気付くと小さく手を振った。こくりとうなずいたティアナはダニエルの隣に並ぶと、無言のままで彼と一緒に遠くの海を眺める。しばらくの沈黙の後、大きく息を吐いたダニエルは、海から目を離さずにつぶやいた。


「ねえ、ティアナ。そろそろ教えてくれないかな」


 ティアナはちらりとダニエルを見ると、沈んだ声で問い返す。


「ダニエル様。それは、サーシャ様のことでしょうか」


「一人だけで船に乗ったり、この船の食事に飽きたなんて言ったり、おかしいじゃないか。サーシャって本当は……」


 突然二人は、甲板の暗がりから大勢の何かが近づいてくる気配を感じた。一体、また一体と、月の光に照らされたそれらは次々と姿をあらわにする。数えきれないほどの幽体の群れ、だった。ダニエルたちを検札した係員、優美な音楽を奏でていたバイオリニスト、ステーキを運んできたウェイター、正装した上流階級の人々。皆一様に肌は青白く、額にかかる髪や指先からは水滴が絶えずしたたり落ちている。


「クライ……ウミノ、ソコハ! アカリヲ、モット!」

「ツメタイ……サムイ……テヲ、ニギッテ……」

「シズムゾ……イソゲ! ボートデ、ハヤク、ニゲロ……」


 大勢の幽体たちの声にならない思念が、三人の頭の中に渦となって流れ込んでくる。ごうごうという耳鳴りに似た叫びに、たまりかねたブラウが叫んだ。


「ティアナ! 凄い数だよ!」


 あまりの出来事に、ダニエルは歯の根が合わずにがたがたと震える。


「もしかしてこの人たちみんな、この船ごと遭難して……」


 ティアナの額に、いくつもの汗の玉が浮かんだ。


「私の『清導の光と珠言』で、果たしてこれだけの人々を天に送ることができるの? それでも、私の髪の全てを失ってでも、やるしかない……!」


 ティアナが幽体を天に送る際に使用する「清導の光と珠言」は、その力と引き換えに、ティアナ自身の何か、例えば体の中でも特に魔力を帯びた髪を代償として要求する。これまでにもティアナは自分の髪の一部を捧げることで幽体を昇天させ、そして短くなった髪を再び伸ばしながら次の機会に備えることを繰り返してきた。

 しかし今度ばかりは、とティアナは唇を噛んだ。今までの経験からわかる。希望を胸に航海に出た人たちが、道半ばにして海の底に沈んだ無念。そのすべてを私が理解し解放してあげることなど、恐らくは出来ない。

 じりじりと包囲の輪を狭めてくる幽体の群れに、三人は徐々に追い詰められていく。せめて、一人でも多く救わなきゃ。ダニエルをかばって前に出ようとしたティアナに、横合いから声がかかった。


「皆の者、下がりなさい! ヴァロースク公国の王位継承権第四位、アレクサンドラ・ラフマニアが命じます。このお三方に手を触れることは許しません!」


 ダニエルたちと幽体の群れの間に割って入ったのは、サーシャだった。彼女の一喝は幽体たちを確かにひるませ、その足を止めていた。サーシャはふう、と息をつくと振り返ってダニエルとティアナに笑いかけた。


「良かった、無事で。満月の夜は、私たちが最も自制心を失いやすいときなのです」


「……サーシャ、君は」


「ごめんなさいダニエル、ずっと黙っていて。私はライロズビー王国に嫁ぐ途中で嵐に遭い、この船と共に海の底に沈みました。甲板に出ていた従者たちは海流で散り散りとなり、船内に残っていた私と乗客の方々は幽体となって、ラングハイエン王国とライロズビー王国の間の海域をずっと彷徨さまよっているのです」


 ダニエルのみぞおちが、ずしんと重くなる。ひょっとしたら、と心の底で恐れていながらも、そんなはずは、と今まで否定してきた。しかしサーシャからじかに聞くそれは、動かしがたい事実であり現実だった。ダンスの時に触れた彼女の手はあんなにも暖かかったのに、とダニエルは震える自分の手を見つめる。恐らくは彼女たちの残留思念が強すぎて、普通は薄らいで見えるはずの幽体の姿がはっきりと見え、また体温までわかるほどに実体をもって感じられるのだろう。


「それじゃ、やっぱり君は本物の公女だったんだ」


 サーシャはうなずくと、月の光で青白く照らされている甲板を見渡した。


「本当は、あなたたちにはこの船に乗って欲しくなかった。この船に乗っている幽体たちは、船を操って時々あのように港に停泊して、何も知らない旅行者を乗船させては海に引き込み、自分たちの仲間にしようとするのです。そのたびに私は埠頭でそれを止めようとしていたのですけれど、そこへあなたたちが現れて」


 サーシャは申し訳なさそうにティアナを見た。


「ティアナ、あなたは私たち幽体を天に送る力を持っていますね。幽体である私には、それが一目でわかりました。だから私は、ティアナが私たちを救ってくれる可能性に賭けて、この船に乗ってもらったのです。あなたの好意に甘えてしまって、自分の都合であなたたちを巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」


 ティアナは毅然きぜんとして首を振った。


「謝罪など不要です、殿下。ですが、今の私に皆様を天にお返しする力があるかどうか」


「大丈夫です、私が手伝います。これでも私もいっぱしの魔法使いでしたから、私の全ての魔力をあなたに与えれば、あるいは。ティアナ、お願いします。どうか、あの方々に安らぎを与えてやってください」


 おのれかえりみずに自分以外の幽体の昇天を望むサーシャに、ダニエルは臣民の幸せを願う優しい公女としての誇りを見ていた。しかし同時に、ダニエルは恐ろしい予感に襲われた。サーシャの言っていることは、つまり。


「ちょっと待ってよ、サーシャ。そんなことをしたら、君まで消えてしまうんじゃ……」


 言いかけたダニエルを、ティアナが厳しい顔で制した。


「サーシャ殿下、ありがとうございます。非力ですがこのティアナ、精一杯務めさせていただきます」


 ティアナの顔に苦渋の表情が浮かんでいることが見て取れて、ダニエルはぐっとこぶしを握った。ティアナもまた、自分の気持ちと戦っている。

 サーシャはティアナの言葉にうなずくと、安心したように笑った。その笑顔は、やはり年齢相応のあどけない少女のものだった。


「ありがとう、ティアナ。ダニエルと、いつまでも仲良くしてくださいね」


 そしてティアナのポケットに目を向けたサーシャは、うやうやしく胸に手を当てた。サーシャのヘイゼルの瞳とブラウの薄青色の瞳が、お互いの色を映す。


「ブラウ殿、あなたのお力も少しお貸しいただけますか? 人間の勝手なお願いで、大変恐縮ですが」


「構わないよ、僕はティアナの聖獣だからね。ティアナの望みが僕の望みさ」


「感謝します、セイクリッドドラゴンの眷属けんぞくよ。またお会いできますか?」


「呼んでくれればいつでも。僕はいつだって、君が見えているからね」


「そう言っていただけると、私は自分の行き先が怖くなくなります。人の世の行く末のお見届け、お願い申し上げます」


「特に大したことはしないけれど。まあ、任せてよ」


 サーシャとブラウの会話に、ダニエルのみならずティアナまでが目を丸くして驚いている。聖獣のブラウにしか見えないものがあるように、幽体のサーシャにもまた、通常の人間には決して見えるはずのないものが見えているのだろう、と二人は理解した。


 そしてサーシャは、最後にダニエルの前に立った。


「サーシャ……」


「我がままばかり言ってごめんなさい。でも私、最後に最高の贅沢ぜいたくが出来た」


「……そんなのって、ないだろ。そうだ、ライロズビー王国に着いたらさ、僕の買い物に付き合ってよ。向こうには質のいい魔力水があるっていうし、サーシャも魔法使いなんだろ、一緒に品定めしてほしいんだ」


 何でもいいからとにかく話し続けなければ、とダニエルは思った。話が途切れた途端に、サーシャが二度と手の届かない遠くへ行ってしまうような気がした。どうしてだよ、彼女はまだ、僕の半分くらいしか人生を楽しんでいないじゃないか。


「そしてそれが終わったら、美味しいものでもみんなで食べてさ。そしてラングハイエン王国に戻ったら、僕の家でパーティでも」


 サーシャは人差し指でダニエルの唇を封じると、つま先立ちで精一杯に背伸びをして、ダニエルの頬に口づけした。立ち尽くすダニエルの目の前には、泣き笑いを浮かべるサーシャの姿があった。


「いろいろとありがとう、ダニエル」


 サーシャは一歩後ろに下がってダニエルから距離を取ると、後ろ手を組んで笑った。


「ダンスで私をレディとして扱ってくれて、とっても嬉しかった」


 そして踵を返すと、サーシャは厳しい顔でティアナに言った。


「ティアナ、頼みます! 彼らを抑える私の力も、もう長くは持ちません。はやく、あなたの珠言を!」

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