6. お手をどうぞ、レディ

 ディナー会場は、船の中央にある広いホールの全面を使って設けられていた。燕尾えんび服を着た紳士や風変わりな異国の衣装に身を包んだ貴婦人、複雑な細工に彩られた室内用の乳母車をそばに置いたドレス姿の母親。どうやらこの船の乗客は、上流階級の人々がその多くを占めているようだ、とダニエルは思った。そんな彼自身も、ライロズビー王国で視察の時に着用する予定だった礼服に着替えている。

 ふと隣を見ればティアナはシンプルな白いワンピース姿だったが、それは彼女にはとてもよく似合っている、とダニエルは目を細めて見惚みとれてしまった。

 テーブルに目を移すと、あらかじめコースが決められていると見えて、すでに人数分の食器が配られている。ダニエルたちが椅子に座ると待ち構えていたようにウェイターがやってきて、それぞれが飲み物を注文すると、かしこまりました、と言い残してうやうやしく席を離れていった。

 中央のステージで楽団が演奏するゆったりとした音楽を聞きながら、ティアナがふうっと息をつく。


「なんだか、とても緊張しますね。ダニエル様はこのような、パーティというのでしょうか、慣れていらっしゃるのでしょう?」


「うーん、一通りのマナーは学んではいるんだけれど……正直、僕も苦手な場面だね」


 その言葉を聞いたサーシャが、ふん、と胸を張る。


「あらダニエルったら、だらしないわね。私なんかそれはもう、毎日がパーティのようなものだったわよ」


 サーシャが公女であるという設定はまだ生きているのか、と運ばれてきたステーキを前にして、ダニエルは小さく肩をすくめた。


「それじゃあ社交慣れしたサーシャに笑われないように、せいぜい行儀良く料理をいただくことにするよ。ではみんな、祈りを」


「はい、ダニエル様」


 三人は目を閉じ両手を組んで感謝の祈りをつぶやくと、フォークとナイフを手に取って料理との格闘を開始した。目立たないようにということだろう、ブラウはテーブルクロスに隠れたティアナの膝の上におとなしく座っている。そちらの方にちらりと目をやったダニエルが尋ねた。


「そういえば、ブラウはいつも何を食べているの?」


「僕は聖獣だからね、別に何も食べなくても大丈夫なのさ。便利だろ?」


「そうなんだ」


 へえ、と感心しながら隣を見たダニエルは、サーシャが油のはねているステーキを前に押し黙っているのを見て眉をひそめた。


「ねえ、サーシャはどうしてステーキに手を付けようとしないの? 好き嫌いは良くないよ」


「……きました」


「なんだって」


「こうも毎日ステーキばかりだと、いくら私でも嫌になってきます」


「毎日って。君、この船に乗るのは今回が初めてじゃないの?」


「とにかく! せめて誰かが一口サイズに切ってくれなければ、食べる気にはなりません!」


 かんしゃくを起し始めたサーシャに、ダニエルが恐る恐る自分を指さす。


「……それって、まさか僕のことじゃないよね?」


「愚かもの! ティアナのようなレディにそんなことをさせる気じゃないでしょうね!」


「そんなことって自覚はあるんだ……」


「さあ、は・や・く!」


「わ、わかったよ。まったく、我がままぶりだけは本当のお姫様みたいだな」


 ダニエルはサーシャのステーキ皿を引き寄せると、四角く一口大に切り分けてやった。皿を押し戻そうとすると、目を閉じたサーシャが黙って口を開けている。


「ねえ。どうしてあーんして待っているわけ?」


 サーシャはすまし顔で微動だにしない。硬直しているダニエルの肘を、ティアナがそっとつついた。


「ダニエル様。公女様のお頼みを、無下むげに断ってはいけませんよ」


 そう言ったティアナが、ダニエルには心なしか意地悪なように見える。


「ああ、もう! 何なんだよ、一体!」


 ダニエルはやけになって、サーシャの口の中にフォークに刺したステーキの一片を入れてやった。サーシャはもぐもぐと口を動かすと、満足そうににんまりとする。


「うん、いつもよりおいしいような気がする。こういうのって、悪くないわね」


「それはようございました、サーシャ殿下」


「勝手にしてくれ……」



 やがて食事が終わると、ホールの照明が抑えられ、流れる曲が流麗なワルツに変化した。ステージ前面のテーブルが片付けられ、広間の全体がダンスホールに早変わりする。その中へ一組、また一組と男女が踏み込むと、ゆるやかに回りながらいくつもの輪を作っていく。

 ぼうっと見ていたダニエルの前に、緊張した面持ちのサーシャがいつの間にか立っていた。頬を赤くして横を向いたまま、サーシャがダニエルに向かって右手を差し出す。


「あの、ダニエル。私と、踊っていただけませんか?」


 ダニエルは椅子に座ったまま、呆然とサーシャを見つめる。


「でも君、向こうの国に着いたら王子様と」


 サーシャはダニエルに視線を戻すと、意を決したように言った。


「これから先ずっと、私が誰かと踊ることはありません。だから、せめて今だけは、私はダニエルと踊りたいのです」


 ちらりと横を見たダニエルに、真剣な表情でティアナがうなずく。サーシャが話すことの意味は分からないけれど、きっとこれはとても大切なことなんだ。ダニエルは椅子から立ち上がると礼服からほこりを払い、左手をサーシャに差し出した。


「こんな僕でよろしければ。お手をどうぞ、レディ」


 ほっとしたように目をうるませたサーシャは小さくうなずくと、ダニエルの手を取って彼をダンスの輪の中へと引っ張っていった。


 曲に合わせてターンとステップを繰り返すなかで、ダニエルはサーシャのダンスの技術に驚いていた。押して押されるその強弱も、踏み込み踏み込まれるそのタイミングも、そのすべてがサーシャにリードされていた。リズムの取り方をダニエルが間違えた時も、サーシャは最小限の動作で簡単に修正してみせた。

 もしかすると、本当に公女様なのかもしれない。驚きながら見つめるダニエルをはぐらかすように、目を細めたサーシャは彼の方へと手を伸ばした。

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