4. 旅の従者

 ライロズビー王国に私も渡る。そう言って目の前の船を見上げたサーシャの言葉に、ダニエルは自分の耳を疑った。


「え、この船がライロズビー王国行き? でも案内所では、他に船はないって……」


 埠頭に横付けされている巨大な帆船は、確かに外洋の航海にも充分に耐え得るほどの規模と設備をそなえているように見えた。しかし、ダニエルたちの他には乗客も見送りの人たちの姿もなく、周囲にはただ、海鳥の鳴く声と防波堤に寄せては返す波の音が響いているばかりである。これから外国に出航しようというのにやたらともの静かな様子に、ダニエルは違和感を感じざるを得ない。

 どうして案内所の人はこの船のことを教えてくれなかったのだろう、と考え込むダニエルを見て、サーシャはふんと笑った。


「ティアナ、あなたの従者はたよりない男ですね。旅先であたふたするようでは、レディを守る資格があるとは思えませんが」


 ティアナはサーシャに微笑み返すと、優しくさとすような口調で言った。


「お言葉ですが、殿下。ダニエル様は私の大切な友人です。もし殿下が私を信用してくださっているのであれば、彼にも同等の信頼を寄せて頂きたく存じます」


 やんわりとしたティアナの反論に、真顔になったサーシャは顔を赤くしてうつむく。そして、ためらいながらダニエルの方へと向き直ると、サーシャはその頭を小さく下げた。


「ダニエル、嫌な言い方をしてごめんなさい。あなたがティアナの従者だと思っていたことも謝るわ」


「そ、そんな事。全然気にしていないから」


 嬉しそうに顔を上げたサーシャは、ダニエルの言葉に元の勢いを取り戻したようだった。


「そう? だったらこの話はもう終わりでいいわね。おびといっては何だけれど、ダニエルも私のことをサーシャって呼んでいいわよ。私に対して敬語をつかわないところも気に入ったし。下々しもじもの気持ちも分かるように努めなければならない、とは、いつもパパから言われていたことだから」


「あ、ありがとう……?」


 複雑な表情で礼を言うダニエルにサーシャはぷっと吹き出すと、声を上げて笑った。年相応にかわいい笑顔もできるじゃないか、とダニエルは心の中で苦笑する。


「ティアナ、あなたはいい友人を持っていますね。ティアナも私に敬語を使う必要はなくってよ? ここはもうお城の外なんだってこと、私は改めて教えていただきましたから」


「いえ、私はこのままでお願いします。じつはこのような会話に、少し憧れていたところもあるんですよ」


 気さくなティアナの言葉にサーシャはもう一度微笑むと、ポーチを握り直して言った。


「それではお二人とも、ごきげんよう。私は一足お先にライロズビー王国に向かいます。お二人の、旅の無事を祈っています」


「え、ちょっと待って。やっぱり君、一人でこの船に乗るつもりなの?」


「さっきも言ったでしょ、侍女たちとははぐれてしまったんだって。でも私、とにかく急ぐのです。なにしろこれから、ライロズビー王国の第二王子のもとにとつぐことになっているのですから」


 さらにとんでもないことを言い出したぞ、とダニエルは頭を抱えた。公女が王子に嫁ぐというのに、一人で客船に乗っていくなんてことがあるわけがない。やっぱりこの子は公女だなんているだけの、ただの家出娘に違いない。


「サーシャ。いつまで続けるの、その設定……」


「設定などと失礼な。別にダニエルに信じてもらわなくても、私は構いません」


「じゃあ聞くけれどさ。外国に行くときには、たとえ王族であっても出入国証明書が必要なんだよ? 君、それ持ってるの?」


 ふふん、と得意そうに笑ったサーシャは、ポーチの中をごそごそと探ると、一片の紙片を取り出した。


「よおく御覧なさい」


 おずおずと紙片を受け取ったダニエルは驚きに目を見張ると、覗き込んできたティアナにそれを見せる。


「……私にはよくわかりませんが。本物なのですか、ダニエル様」


「ところどころ水で濡れていて、日付とかはにじんで見えなくなっちゃってるけれど。『アレクサンドラ・ラフマニア』って署名の上に押してある外務局の刻印は、間違いなく本物だよ」


 サーシャは勝ち誇ったようにダニエルに人差し指を突き付けた。


「だから言ったでしょう。公国の名誉にかけて、私は逃げも隠れもしないって」


 ダニエルは額に手を当ててうめいた。何がどうなってるのかさっぱりだが、サーシャはやはり本気で海を渡ろうとしているらしい。王子というのはあり得ないにしても、ライロズビー王国に到着すれば、親戚の家かどこかに行く当てはあるのかもしれないけれど。


「だからって、君みたいな小さな女の子が一人旅なんて」


「馬鹿にしないでください、レディに向かって!」


「なんだよ、僕たちがこれだけ心配しているのに……」


 さらに言いかけたダニエルの腕を軽く押さえてティアナが前に出ると、その場にしゃがみ込んでサーシャと同じ高さに目線を合わせた。


「それではサーシャ様。せめて私たち二人を、従者としてともなっては頂けませんか?」


 一体ティアナはどうしたんだろう、とダニエルは不思議に思った。年端もいかない少女が独りで外国に行こうとしていることに疑問を持たないどころか、その手助けをしようだなんて。もちろん僕はティアナを信じているけれど、彼女の目には一体何が見えているのだろう。


 そしてティアナの提案を聞いたその瞬間、サーシャの瞳に希望の明かりがともったようにダニエルには見えた。しかしそれは、彼が瞬きする間にすっかり消えてしまっていた。サーシャは無愛想な表情に戻ると、突き放すようにティアナに言った。


「申し出はありがたく思いますが、どこの馬の骨ともわからないものたちを連れて行っては、あちらの王子も不審に思うでしょう。私には構わず、ティアナたちは次の便を待つとよい。これは、公女としての忠告でもあります」


 淡々と話し終えたサーシャの顔に寂しさの影がよぎったことを、ダニエルは見逃さなかった。冗談じゃない、独りのほうがよほど不審だよ。いいさ、こうなったら彼女の狂言にとことんまで付き合ってやろうじゃないか。

 ダニエルは自分のトランクの中から二枚の出入国証明書を取り出すと、サーシャにひらひらと振ってみせた。


「僕もティアナも証明書とチケットを持っているから、この船にも乗れるはずだよ。君の家来じゃなくったって、僕たちがこの船に勝手に乗り込むのは問題ないよね?」


 サーシャはあきれたように黙っていたが、ぐっと唇を噛んでうつむくと、短い言葉を残してきびすを返した。


「二人とも、ありがとう」


 それきり振り返ることなく、サーシャは船の上へと延びるタラップをカン、カンと小走りに駆けあがっていく。

 ため息をついて荷物を持ち直したダニエルの腕を、ティアナが遠慮がちにつかんで微笑んだ。


「私からも感謝します、ダニエル様」


「やだなあ、ティアナ。お、大人として当然のことをしたまでだよ」


 締まりのないダニエルの声をティアナのポケットの中で聞いていたブラウが、ちぇっとぼやいた。


「あーあ、まったくやってらんないねえ」

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