2.火種

 「ロニさん、ロニさん……――」

肩をそっと揺さぶりながら響いた声に、ロニはハッと目を覚ました。

目の前には、心配そうに眉を潜めたレンが居た。

「大丈夫ですか?」

「は、はい……」

慌てて身を起こすと、サワサワと揺れる木陰をバックに、彼は小さく微笑んだ。

「良かった」

「ど、どうも……」

つられて笑って、ロニは目を瞬いた。……木陰?

「こ……此処、何処です?」

図書館ではないのは一目瞭然だった。

視界の端から端までが木と植物に覆われた森だ。かなり深い森らしく、光は細く射し込む程度、空はどっしりと生えた大きな木々の葉の合間に、網目の様に見える程度だ。時刻は昼間のようだが、周囲にはしっとりした緑の香りと、土や水の匂いがした。寝ていたところは巨木の根本に広がるふかふかした苔に覆われた地面で、どこか近くで水が流れる音が聴こえた。

「此処は、あの本が生み出した世界……ページです」

事も無げに答えた男の灰色の髪を、元居た室内には無い風が吹き流していく。

「ページ……?」

「魔力の話をしたとき、対象者の余白の話をしたと思いますが、要領はあれと同じです。此処は、世界という本の余白に書かれた新たな世界。あの本は、その入り口の役割をしたんです」

何のことやらさっぱりだが、普通のことではないのは確かだ。

嫌な感じの場所ではないが――……

辺りを見渡して、ふと動いた影にぎくりとすると、何かがすうっと浮遊していった。

時折、羽を震わすそれはトンボに似ているが、四枚羽は知ったそれより倍はあり、光を浴びてガラスのように輝いた。他にもふわふわと舞う蝶らしきものが居たが、その薄紫の羽は何枚あるのやら――複雑に何枚も重なり、一輪の薔薇が飛んでいるようだ。目の前の鬱蒼とした木々の合間には、結晶が咲いているような花が開いている。異様だが、美しい光景に呆けていると、間隔を空けて隣に座ったレンが独り言のように言った。

「怪我が無くて良かった。さすがはソルベット家の御子息です。転送に使われた炎は魔法ですが、炎は炎ですからね……常人なら火傷の一つや二つはするものです」

改めてゾッとしてロニは身震いしたが、辺りにはマッチの火程も見当たらず、体や衣服に焦げた様子は無かった。

「どうして、本から火が……――」

「仕組みはわかりませんが、魔法の一種です。最初に調べた時、本の中に問題があると感じましたが、どうやら旧時代の”何か”が住んでいたようです。この雰囲気からして、水か土に縁のある者でしょうから……火の魔法で呼び入れたのは、灰化の影響か、別の原因だと思います」

「住んでいる何か……って、なんです?」

「精霊や妖精の類だと思います。聖書なので、神に近いものが居るかもしれない。反対に、悪魔のような質の悪いものも考えられます」

呆気に取られていると、どこかで小鳥が鳴くような声がした。悪魔や恐ろしいものが出てくるような様子は微塵もないが、長閑な光景のわりに静かすぎる気もした。

「ど、何処かから出てくるんですか……?」

「どうでしょう――……閉じ込めるのが目的だと、探す必要が有りますが……」

小さく息を吐き、彼は少し笑った。

「危険が無いように努めます」

そう言われてしまうと何も返す言葉が無くて頷いた。彼は灰色の瞳を和ませて、景色に目を向けてから言った。

「あの本は、意図的にあそこに置かれたとみて間違いないですね」

「そんな……誰が、何の為に?」

「さあ……私を呼ぶ為なのか、貴方を狙ったのか……それとも他の誰かの為なのか、わかりませんが」

呟く男の髪を、また風が吹きつけた。不意に細い毛の先が脆く崩れてふわっと飛んだ。よく見ると、彼の茶色い上着には、ところどころ煤けている所が有った。

「貴方は――大丈夫なんですか?」

「大丈夫です。服はどうにかしないといけませんが、私は怪我はしないので問題ありません」

「怪我は……しない? でも、貴方の足は……」

最初に会った時から引き摺っている左足は、今は苔のクッションの上に伸ばされている。彼は同じように自身の足を見下ろし、苦笑した。

「――これは、罰です。犯した罪に対する、当然の報いなんです」

罰? 罪? 既に一日では処理できないほどの異常事態に、こんがらがってきた頭を振り、ロニは男の横顔を見つめた。

「レンさん……一体、貴方はどなたなんです? もうオカルト好きの旅人なんて表現じゃ、通用しませんよ?」

こちらを見た男が小さく息を吐いたが、彼が口を開く前に、その声は響いた。


〈その人間は、大罪人だ〉


腹の底に響くような声に、ロニは身震いした。レンが見つめていた前方に眉を寄せた。その視線の先には、木がある。どの木も立派である中、その木はひときわ大きく、豊かに葉を茂らせていた。

不意に、その幹がぞろりと盛り上がった。それは滑らかに枝葉で隆線を描きながら、瞬く間に一人の人型を形作った。驚きに声も出ないロニが見つめる中、木が自ら作り出した様な人型はみるみる内に滑らかな木の表面と同じ肌を持ち、青々とした緑の葉と同じ髪をした女の姿に変わっていた。太腿より下が幹に同化している異様な乙女は、緑と金が入り混じる目玉をこちらに向けた。

静かだが、恐ろしい目だった。人の姿をしているのに、獣の目とも違う。感情を読み取れない、昆虫の目のようだ。乙女は各所に花の咲いた腕を伸べ、こちらを――否、レンを指差し、例の響く声で言った。


〈私はお前を知っているぞ。レヴィン・ガンズ――呪われし罪人つみびとの分際で、私に触れるとは許し難し、許し難し……〉


レヴィン・ガンズ? 隣の男を振り返ると、彼はまっすぐに乙女を見てから、不自由な左足を一度もたげ、騎士のように跪いた。

「……今の私は、レン・カンデラです」


〈レン? カンデラ? レン・グラスワンドはもう居ない。カンデラは役目を終えて土に眠る。お前はレヴィン。呪われし、レヴィン……〉


反発らしきものを呻く乙女に、レンは反論せずに頭を下げた。

「私を知るなら、お怒りは尤もです。どうかお心を鎮めて、偉大なる貴方がどなたか教えて頂けませんか」

頭を垂れての落ち着いた問い掛けに、乙女は何か考えるような間を置いて答えた。


〈ドリュアス〉


「ドリュアス様……貴方は森の精霊とお見受けしますが、此処に呼んだのは貴方ではないのではありませんか?」

レンの問い掛けに、乙女は再び沈黙した。


〈ディルク様の気配がしたのに、いらっしゃらない。花園の魔法使いよ……『水』を……どうか、この森に『水』を……〉


ぶつぶつと呟いた乙女は、急にざわざわと髪を揺らし始めた。

同化している木々も震え、乙女は苦しそうに頭を抱えて身を捩ると、ずるずると木に呑み込まれるように消えてしまった。後には何も残らず、静かな風が吹き、枝葉が揺れ、水がせせらぎ、小鳥の声が響いた。

「い、今のは……」

レンは難しい顔で、杖で支えながら左足を持ち上げるように立ち上がった。

「旧時代よりも前の、古い精霊だと思います」

「なんだか、苦しんでいましたね……」

「『灰化』の原因である『火種ひだね』がこの森の何処かに有るのでしょう。問題を解決する為に、ロニさんをディルク様と間違えて呼び付けた様です」

「ディルク様って……ウチのご先祖様の……?」

「そうです。花園の魔法使い、ディルク・ソルベット様です。このベルティナが王国だった頃、女王に仕え続けた偉大な魔法使いと聞いております」

「貴方のことも、違う名前で呼びましたが……」

「ええ。一つは咎人の名でしたが、二つは英雄の名でしたね。私には関与がないので、身に余る」

レンは何処か切なげに微笑むと、ドリュアスの去った樹を見つめた。

「彼女に『火種』の場所を聞ければ幸いでしたが、私が居た所為で機嫌を損ねたか、不審に思ったようです。仕方がない……歩いて探しましょう。ある程度は探れます」

そう言うと、彼はあの蝋燭消しという杖を軽く前に掲げ、先端のベル状の部分を煙管のように上向かせ、ゆっくりと周囲に巡らした。

一つの方向に向いた時、小さな火がポッと灯った。

「あちらの様です。行きましょう」

何が有るのかもわからないが、行くしかないのでロニは頷いた。

「その『火種』を消してあげれば、さっきの方も楽になるのでしょうか」

「それは……お約束できません。私は『火種』を消すことはできますが……」

レンは申し訳なさそうに言ったが、周囲に何か燃えている様子はない。

「ひとまず、『火種』の場所だけでも確認しましょう。解決できれば、外に出ることもできる筈です」

歩き出すレンに、ロニも続いた。

最初に、本に触れたときの「助けて」という悲鳴を思い出していた。

あの声は、先程のドリュアスだったのだろうか。

「……もし、僕が……先祖の魔法を受け継いでいたら、すぐに彼女を助けてあげられたのかな……」

ぽつりと呟くロニに、レンは振り向いた。

「それは、心強いですが……気に病むことは無いと思います」

「でも……」

「いいえ、ロニさん。もし、貴方が――いいえ、ソルベット家がディルク様と同じ魔法を受け継いでいたら、ベルティナに今のような平穏は無かったと思います」

「えっ?」

「……勝手な想像ですが、貴方を見ていて思いました。ディルク様が魔法を後世に伝えなかったのは、子孫を争いに巻き込まない為ではないでしょうか。現に、魔力のみ引き継いでいる貴方さえ、精霊に力を頼られた。魔法はそういうものです。強すぎる力は、役にも立ちますが、災いも呼び込みます。――かつての帝国が、その力に溺れ、道を誤ったように」

ロニはふと、会ったこともない先祖を思い返した。

肖像画がただ一枚しか残っていない先祖は、やや小柄でほっそりした青年だった。銀髪に湖水のようなミントグリーンの目をした彼はハンサムだったが、笑顔が想像できないほど気難しい顔をしていた。逸話によれば、かなり歳を重ねてから結婚し、子供こそもうけたが、家族と過ごした時間はわずかだったという。文献では、彼が若い頃のベルティナは騒乱が相次ぎ、何かと争いの絶えない時代と記されていた。女王が身を投じた戦いに関しての逸話や物語は絵本にもなっている。

女王に仕えたという彼も、その力を戦いに使ったらしい。

香水に関わる技術は、一部屋埋める程の資料――植物に関するあらゆる知識と共に、抽出方法や器材の作り方まで事細かに残していった先祖は……魔法については、一切残さなかった。

……では、目の前に居る男は? 魔法について知る彼は、何者なのだろう?

疑問を胸に、ロニはその背に従った。





 その頃、マイルズ・ブライスはキャロル・マクニールが住むアパートを見上げていた。三階建ての小さなアパートメントだ。両隣も同じ建物が並び、揃いの茶色い煉瓦作りに揃いの窓、揃いの階段を上っての入り口だ。独り者の女性らしく、彼女の部屋は二階だった。目的の窓を眺めるが、中に動く気配は感じられない。

両手をズボンのポケットに突っ込み、さて、どうやって玄関を突破しようかと思っていると、運良く中から人が出て来た。

ほうきを手に、地元のサッカーチームの帽子をかぶり、髭を蓄えた初老の男性は管理人か住民だろうか。明らかに玄関を掃きに来た出で立ちに、マイルズはポケットの手を引っ張り出して軽く襟元を整えた。

「やあ、どうもこんにちは」

陽気に声を掛けたマイルズに、男は「どうも」とはにかんで帽子を掲げた。それを見ながら、記者はにっこり笑った。

「昨日のノーザンレイク・シティは快勝でしたなあ」

「おお、御覧になられましたか」

途端に嬉しそうになる男に、記者は愛想よく頷いた。

「もちろんですとも。スリートップのシステムが当たりましたな。今シーズンから入ったフォワードも悪くない」

「いやはや、全く。あの左サイドからの攻撃は痺れましたよ」

思いもよらぬ仲間を見つけたとばかりに楽しそうにする男は、やはり管理人だという。しばらくサッカー談義に明け暮れた後、世間話のようにマイルズは言った。

「……ところでミスター・バートン、こちらのアパートのマクニールさんは御在宅ですかな?」

「ああ、キャロルかい? 仕事じゃないのかな。今朝出て行ったし……」

「おや。外出なさった。おかしいな。――実はですね、私は彼女の勤め先のマダム・フリーゼと顔見知りなのですが、今日はマクニールさんは体調不良でお休みだそうで……この辺りに行くなら様子を見て来てもらえないかと頼まれましてね」

「なんだ、フリーゼの知り合いかい。そいつは変だな? 出て行く時に挨拶したけど……病院に行くような感じじゃなかったよ」

「元気そうだったということですかね?」

「小さなスーツケースを持ってたんだ。旅行かって聞いたら仕事だって言うんで、俺はてっきり出張かと思ったんだが……キャロルが理由もなく休むとは思えん。何かあったら大変だ。見に行ってみるかい?」

名義に親友よりもマダムを取ったのは正解だったようだ。

男に続いてアパートに立ち入り、キャロルの部屋をノックしてみたが、応答は無い。合鍵で扉を開けると、如何にも女性の部屋らしい香りが漂った。

嗅いだことがある匂いだと思っていたら、玄関先の棚に置かれていたのはソルベット家で人気の香水『イレーネ』だった。

「キャロル? 居ないのかい?」

バートン氏が穏やかに声を掛けるが、中からは何の応答も無かった。

「勝手に入るのは気が引けますが、中で倒れたりしていたら事ですね」

急に警察官のような口調で言うマイルズに、人の良い管理人は頷いた。

男二人で靴を脱いで中に入ると、思ったよりシンプルで片付いている室内だった。

ごく普通の小さなLDKに、ベッドが大半を占める寝室には図書館勤務らしく本が沢山詰まった本棚が据えられている。念のため、本をチェックしたが、破れや焦げなど異様な様子の本は見当たらない。きちんと畳んであった布団を捲っても、ベッドの下を覗いても誰も居ないし、クローゼットは普通の服や帽子、バッグなどで埋まっている。念のため見たキッチン収納も、調理器具や皿、保存食の類が入っているだけで、怪しいものは無い。幸いと言うべきか、バスルームは開け放たれていて、トイレをノックしてから開いてみたが、やはり誰も居なかった。

「出て行ったままの様だね」

部屋を見渡してバートン氏がぼやく。マイルズはリビングの棚に飾られた大きめのフォトグラフに目を留めた。オカルト騒ぎの有った、女優のテオドラ・カノンだ。

もう四十を迎える筈だが、健康そうなベージュ系の肌と亜麻色のウェーブがかった豊かな髪、知性を感じさせるブルーグレーの目元が印象的な美人である。

ファンなのだろう、壁には出演映画のポスターが貼られ、棚には彼女のエッセイ本や写真集、舞台のパンフレットも置いてあった。ハンカチ越しに手に取って捲ると、あまり開いた様子の無い本の表紙裏にはテオドラのサインが有った。一瞥したマイルズは本を閉じ、元の通りに戻してから、その隣に挟んであったものに首を捻った。

丁寧に折り畳まれたそれを広げてみると、何も書かれていない茶色の紙袋だった。

サイズからして、此処にある本を購入したときのものだろうか?

更に隣には同じ紙袋が何枚も手挟んであった。こちらは女性に人気のファッション・ブランドのメゾン・ダリア。テオドラもモデルを務めている。二十代のキャロルには少し早い気もするが、まあ憧れの女優と同じブランドを買い求めるのはよくある話だ。しかし、未使用らしき紙袋が何枚もあるのは――ブランドそのもののファンだからだろうか?

それらを棚に戻し、マイルズはバートン氏を振り返った。

「ふむ。事件性は無いが、やむを得ない急用でも無さそうですね」

「えっ、そりゃまたどうして?」

「簡単な推測です、ミスター・バートン。この部屋の様子からして、彼女は年齢のわりに実にしっかり者、且つ丁寧に暮らすタイプの女性だ」

失礼、と誰にともなく断って冷蔵庫を開けると、中は長期保存できるピクルスの瓶や調味料、卵が幾つか、水のボトルくらいのもので、清々しいほどすっきりしている。

「調理器具や調味料が整っているのに、食材が少なすぎると思いませんか。その日のものを買って帰る習慣だとしても、女性一人なんだから野菜やチーズなんかは使いきれないものが残る筈です。常備する筈のパンやシリアルなんかも見当たらないので、今日の為に計画的に使い切った、或いは必要以上には買わなかった感じがしますね」

「確かにそうですな」

「宜しい。つまり、彼女は身内の危篤だとか、急な予定で外出したわけではない。しかし、大きな旅行に出るにしては、服や日用品が残り過ぎですし、病欠の言い訳も物足りない。加えて小さなスーツケース。稼げるのは、せいぜい二日か三日だ」

「まったくです」

「さて……以上を踏まえ、そういう人が仮病で休む場合、何処に何をしに出掛けたのでしょうね?」

「はて……私には若い人の行動は想像もつきませんが」

「そんなことはありません、ミスター。貴方の帽子もヒントです」

頭上に片手を差し伸べられたバートン氏はきょとんとした。

「帽子?」

大好きなチームのロゴが入った帽子に手を当てる男に、マイルズはニヤリと笑った。

「ファンというものは時に、対象を追う余り、大胆な行動に出るものです。そう……確か今、テオドラ・カノン主演の映画が撮影中だ。これは芸能ポスト誌を担当する者の話ですが、ロケ地に近隣の町が選ばれたと聞いています。――恐らく、彼女は何らかの方法でこの情報を得て、見に行かずにおれなかったのでしょう。マダム・フリーゼも、彼女が仕事を休みがちだと言っていました。公演は勿論、チケットを取る時、サイン会に行く為にも何かと都合をつけねばならないものです」

「なるほど。ご尤も……!」

感心したように手を打つ男に、記者は片手を振って形ばかりの謙遜をすると、辺りを見渡してから頷いた。

「ひとまず、彼女は無事の様ですし、出ましょうか」

「そうですね。キャロルには後で断っておきましょう」

「それがいい。まあ、『心配で入った』と言うと、若い女性は気にするだろうから、別の部屋でネズミか害虫が出たからチェックしたとでも言うのがいいでしょうね」

「知恵者ですなあ」

表に出て、しっかり施錠すると、バートン氏は溜息を吐いた。

「やれやれ、若い女性の部屋に入るなんて緊張しました」

「仰る通りです」

ちっとも緊張していない顔で同意するマイルズに、彼は少し不安げに眉を寄せた。

「ミスター・ブライス――この件、フリーゼには?」

「言いませんよ。仮病は良い事じゃあないが、私にも覚えが有りますしね……大丈夫そうだとでも言っておけばいい。どうせ明日は、出先からキャロル自身が職場に電話を掛けるでしょう」

それを聞くと、バートン氏はホッとしたようだった。

「いやはや、何でもなくて良かった。では、私は仕事に戻ります」

ごきげんよう、と愛想よく別れると、マイルズは来た道を戻りながら顎を撫でた。

手近な電話ボックスに入ると、受話器を取ってボタンを軽快にプッシュする。

「ああ……もしもし、やあ、マダム。お忙しいところ恐れ入りますが、私の友人は大人しく仕事に励んでいますかね?」

問い掛けに返って来た返事に、マイルズは怪訝な顔をした。

「消えた? 一緒に居た男も? ……はて、私は存じませんが――そうですか。ええ、見掛けたらすぐに戻る様にケツを叩いてやりますよ。ハイ。それではまた」

なるべく静かに受話器を戻し、首を捻りつつボックスから出ると、辺りを見渡す。

住宅街の為、周囲に人は少ない。友人たちが職場を抜け出してきた様子もない。

あの不思議な男が何処かに連れて行ったのか?

いや、彼は片足が不自由だった。如何にロニがおマヌケでも、大の男だし、今はあんな具合だが”昔のこと”もある。そう安易にかどわかされるとは思えない。

髪を搔き、内ポケットから取り出した煙草一本に火を点けると、ゆっくりと煙をくゆらせてから歩き出した。

散歩でもする歩調で並木道の合間を歩いていたが、揉み消す頃には、マイルズは定めた目的地に足を向けていた。図書館ではない。

行先は、友人の実家――ソルベット家。




 深い森を歩いて行くと、妙なものを多く見かけた。

空を羽ばたいたのは、三色の長い尾を持つ小鳥。木に絡まった蔦の間からコソコソとこちらを覗き見る小型のサルにも似た生き物。白い綿帽子を乗せたキノコ、風車みたいにクルクルと回っている黄色い花。途中に見た小川には、ひょっとしたら何かの種かもしれないカラフルな花のようなものが流れ、その下で生きたシフォンのようにゆらめきながら泳ぐ魚らしきもの……絵本やおとぎ話に出てきそうな住人達を眺めながら、ロニはソワソワしつつも、楽しくなってきていた。

何かが襲ってくる気配もなく、穏やかな世界だからだろう。

「良い所ですね」

レンが言った。どう切り出そうかと思っていたロニが引き込まれるように頷くと、彼は温和な目をした。

「何か、私に仰りたいことがあるのでは?」

「か、顔に出ていますか?」

頬に手をやって肩をすくめると、彼は少しだけ可笑しそうに笑ってくれた。

「貴方は正直な方の様ですから」

よく小馬鹿にされる話だが、今は褒められているらしい。

「その……レンさん、貴方にお伺いしたいことがあって……」

「歩きながらで宜しければ、答えられることはお話ししますよ」

「じゃあ……本当の貴方はどなたなんですか?」

レンは少し黙した。数刻前なら、はぐらかしたかもしれない男に、もう流されないぞと覚悟を決めたロニの視線が注がれる。

「先ほど、レヴィン・ガンズという名を聞きましたね?」

頷くと、彼はぽつりと言った。

「私の昔の名です」

「昔の……?」

無論、結婚や養子縁組で変わった類の名ではないだろう。

「帝国軍人だった頃の名です」

「て……帝国軍人って――……もう何十年も前の話ですよ……⁉」

薄々、勘づいていた事ではあるが、はいそうですかと言える話ではない。

目の前の男は見直して尚、自分と同世代の人間にしか見えない。それが本当なら、この男の年齢は祖父母より更に上――百を超えることになってしまう。

「呪いを受けたんです。本を焼いた罪の罰として……」

先程のドリュアスが放った「大罪人」の言葉が甦る。

「信じ難いと思いますが、私は帝国時代を典型的な軍人として生きました。帝国が、『悪書』と定めた本をそうだと信じて疑わず、悪いものを後世に残すわけにいかないと――焼いて、焼いて、焼いて……何十、何百、何千と燃やしてきました。それは神の怒りを買い、『灰化』した本を全て救うまで死ぬことのできない身になりました。呪いを受けた日から、容姿は変わっていません」

「不死ということですか……?」

「いいえ、もっと他愛ないものです。この寿命はあくまで本を救う為なので、関与の無い怪我はするし、病にも掛かる。その回復力は普通の人と何ら変わりませんし、目的を怠れば体が焼けます。達成して初めて、並の死に至ります」

恐ろしい話に目を瞠ると、彼は引き摺っている左足を見下ろし、裾を捲った。

現れ出たものを見て、ロニは息を呑む。一体どんな業火に焼かれたものか、その皮膚は今しがた焼けたばかりのように赤く爛れ、直後は水膨れだったのだろう各所がべったりと潰れて醜い痕を残す。

「この足は、呪いを受けた当初、私がその話を信じなかった故に焼かれたんです。魔法による火傷ですから、呪いを解かなければ治ることはありません」

「じゃあ……痛むんじゃ……」

自分が火傷を負ったような顔になる男に、レンは薄く笑った。

「長い事このままだと、存外慣れるものです。以前は包帯をしていましたが、意味がないのでやめました」

「そんな……貴方はその火傷を抱えて、何十年も今のようなことを続けて来たんですか?」

「そうです。仮に抵抗して怠っていたら、今頃は全身を焼かれても尚死なず、永遠に蠢くだけの存在になっていたことでしょう」

「なんて酷い……」

呟いたロニに、レンは意外そうな目を向けた。

「酷い?」

「酷いです。その話が本当なら、貴方は僕ぐらいの年齢から、自分の人生を一切歩んでいないことになる……だって、貴方が本を焼いたのは帝国時代の誤った教育の所為でしょう? それなのに、命の限りを過ぎて尚、終わらない責苦を受けて――達成する頃には死ぬなんて……いくら神様の示した仕打ちでも、そんなの酷すぎます」

きっぱり言ったロニは、怒った様に首を振った。

「貴方とは比べられませんが……僕は、伝統ある香水屋に生まれて、それを継ぐのが当然と周囲に言われて育ちました。家の為には、その方が良かった筈です。でも、本当にやりたいことを諦めきれずに、今の仕事に就いた。成就できたのは、背を押してくれた妹が居てくれたからですが……人は本来、抱いた夢や希望に向かって歩んでいくものなんです。たとえ叶わなくても、挑戦するぐらいは許されるべきです」

「……罪人でも、ですか?」

「そうです。人は……誤るけれど、やり直せる筈です!」

強い口調で言ったロニの湖のような目を、レンの灰色の目が見つめた。

「……貴方は良い人ですね」

穏やかに、それでいて吹き消すように言ったレンが、不意に立ち止まった。

「どうやら、着いた様です」

レンがかざしていた蝋燭消しを下ろし、目前にカーテンの様に垂れ落ちる蔦植物を避けた。その先に在ったのは、先程までの穏やかなおとぎの世界ではなかった。

見つめる一帯は、まるで焼け野原だ。植物の一切が生えていない灰色のそこに、生きたまま炭になったような木が一本立っていた。

その根元に、木にもたれるようにして男が座っていた。その衣服を見て、ロニは目を瞬かせた。学生時代に学んだことも有る……文献で見た、威圧的な黒と金の縁取りが特徴的なあの服は、帝国軍人の軍服だ。

隣で、レンが小さく息を呑むのが聴こえた。

「……フーゴ……?」

呼び掛けに、軍帽を被った頭がぐらりと持ち上がった。若い男だが、その目は死人であるように暗い。何か異様な光が蠢く黒い目の奥で、火が燃えた気がした。

「やあ……レヴィンじゃないか……」

気怠い声が響くと共に、男の口からは溜息のように黒い煙がこぼれ出た。

「『火種』は、お前だったのか……では、私を呼んだのも……」

「火種? 何のことだ?」

立ち上がった男は、如何にも軍人といった風の偉丈夫だった。やはり喋る度に、口から煙草を吹くような黒煙が出る。声も何だかしゃがれて、時折掠れた。

「妙な格好だな、レヴィン。総統閣下から賜った軍服はどうした?」

「フーゴ……総統はもう居ない。我が軍は何十年も前に解体された。お前も死んだ筈だ……」

「何を言う、レヴィン。俺は今ここに居るだろうが」

レンは押し黙ると、男に向けてスッと蝋燭消しを掲げた。

「もはや、自らの生死もわからないか……」

苦々しく呟いたレンが、トン、とそのを叩くと、蝋燭消しはぐにゃりと歪み、ベルのような先端は巨大なナイフの様に変化した。

「ま、待って下さい!」

目前の出来事に戸惑っていたロニが慌てて飛び出し、蝋燭消し――”だった”それを見て言った。

「あれは……貴方のご友人ですか? その刃で何をするつもりです?」

「……同胞です。ロニさん、今の彼はこの本に害成す『火種』です。早く消さないと、このページごと焼き尽くすでしょう」

「で、でも……同胞って仲間ですよね?」

「昔のことです。惑わされないで下さい。人の姿をしていますが、あれは『火種』に違いない。恐らく、彼の持ち物か肉体の一部を媒介に再現しているのでしょう……幻と変わりません」

レンの冷たい声に対し、乾いた笑い声が響いた。フーゴと呼ばれた軍人だ。笑う度、その口元からは唾ではなく、煙が弾けた。

「ハハ、ハハハハハ……」

「何が可笑しい、フーゴ」

咎める調子のレンに、男は軍帽の下のにやついた目を持ち上げた。

「可笑しいさ。俺にはわかる。此処は『悪書』が生んだ魔物の森で、俺は此処を焼く為に此処に居る。それを総統閣下のお気に入りだったお前が、妙な格好で邪魔をしようとしている。こんなシケた物語、可笑しいに決まっているだろうが!」

男が叫んだ刹那、掲げた手には銃が有った。武器に詳しくは無いが、アンティークショップで見るような古い銃だ。つい、見つめてしまったロニをレンが勢いよく引っ張り、取った腕ごと、殆ど投げるように樹の陰に突き飛ばした。

視界の端で、火が爆ぜた。うねる熱気と煙に目を見開く。弾丸ではない。およそ拳銃から発せられたとは思えない威力の火球が飛び散り、辺りの樹木や植物を抉り、火の粉が飛び散る。

「か、彼は……魔法使いですか?」

驚きと恐怖によろめくしかないロニに、同じように樹の陰に潜み、男の方を窺うレンは冷静に答えた。

「言った通りです。あれは『火種』です……あの銃は、帝国時代に造られた魔法の道具ですが、威力がまるで違います」

「ど、どうするんです……?」

「”これ”で、奴を消します。蝋燭の火を潰して消すのと同じです」

例の蝋燭消し――今は巨大なナイフにしか見えないそれを前に言う男に、ロニは首を振った。

「せっかく会えた仲間なのに……良いんですか?」

「構いません。彼は過去の戦争で死んでいる筈。騙っているだけの紛い物です。悩むことはありません」

迷いのない返答に、ロニは改めてゆるゆると首を振った。

「火種を『消す』とは、『殺す』ということではないですよね……?」

「違うと言えば、貴方は理解して下さいますか?」

その言葉の真意がわからぬほど鈍くはない。逡巡する中、軍人が叫ぶ。

「出てこいレヴィン! 俺が『悪書』に従う貴様の性根を直してやろう!」

恐ろしい声が響き渡るが、追ってくる様子は無い。どうやら、彼はあの燃え尽きた木の傍を離れられないらしい。

ロニはぐっと唇を噛み、なけなしの勇気を集めて言った。

「僕が……魔法を使えたら、彼を消さずに救えませんか?」

「何を仰るかと思えば――……」

わずかに嘲る調子が出たが、レンは冷静に首を振った。

「無理です。貴方は魔力を受け継いでいますが、魔法を知らない。魔法は呪文を唱えれば済むような安易なものではありません。仕組みを理解し、自らの内側で力を練り、外に出す為の式や媒介が要ります。いくら強い魔力が有っても、一朝一夕で出来るものではないんですよ。仮に習得できても、弱い水ではあの火は消せない」

「そうだとしても……ドリュアスは僕の先祖の魔法を求めていた。それが最も良い解決方法だからではないんですか?」

「……火を水で消すのか、燃えている原因を打ち壊すかの違いです」

厳しい返答に、ロニはキッと視線を改め、周囲を見渡した。

「ドリュアス……! 居ないのか! 答えてくれ!」

急に騒ぎ始めた男に、森がざわざわと揺れた。

一呼吸を置いて、手近な大樹がねじくれ、蠢いた。

苦し気な表情を浮かべ、半身だけ覗かせた乙女にロニが駆け寄ると、彼女はその目をじいっと見つめた。

〈……やはり、ディルク様ではない……〉

落胆の色が窺える顔を見て、ロニは申し訳なさそうに言った。

「ごめんよ。僕は彼の子孫だが……魔法のことを何も知らない。だから君の知恵を貸してくれないか」

〈知恵……?〉

「ディルク・ソルベットの魔法を使いたい。君が期待した力を僕が使うには、どうすればいいか教えてほしい」

〈お前が、ディルク様の魔法を……?〉

無理だという顔をしていたが、乙女は沈黙の末、静かに言った。

〈……『花園の魔法使い』に仕える花・イレーネを探しなさい〉

「イレーネ……?」

何処かで聞いた名前だ――いや、待て?

「それ……ウチの店の香水の名前じゃ……?」

〈イレーネなら、ディルク様の魔法を……或いは頼れる者を存じているはず……〉

そこまで言うと、熱い火の前にでも居るように顔をしかめ、ずるずると樹の中に消えてしまった。彼女が去った樹の根が大きく盛り上がり、何処かに通じる横穴が覗いた。最後の力を振り絞ってくれたのかもしれない。

「……ロニさんは、思ったより頑固な人のようだ」

仕方なさそうな声に振り返ると、レンが物憂げな眼で微笑んでいた。

「その顔は、『イレーネ』を探すつもりですね?」

「……はい」

「……わかりました。もともと、貴方は彼女に助けを求められている。私は此処で待っていますから、どうぞ探しに行ってください」

そう言うと、蝋燭消しをトン、と地に降ろし、レンは厳しい目をした。

「ただし、二日です。それ以上はきっと、この本がたない。貴方がそれまでに火種を消す程の魔法に辿り着かなければ、私が『火種フーゴ』を消します」

頷いたロニは、わずかに後ろ髪を引かれる顔で穴に飛び込んだ。

ひやりとした空気に触れ、今さら――先程の場所が、ひりつくような熱に覆われていたと気付く。真っ暗闇を駆け、ふと眩い光を見たと思った刹那、ロニは元の書庫に居た。辺りを見渡し、ぺたぺたと己の顔や腕に触れ、置かれたままの本を見、大慌てで机に乗せてから、脱兎の如く走り出した。

「あっ! ロニ! あなた今までどこに――!」

おかんむりのマダム・フリーゼにあらん限りの謝罪を浴びせ、ロニは背に罵声らしきものを聞きながら図書館を出た。

辺りは既に薄暗い。急がなければ。

何年かぶりの全力疾走をしながら、ロニは一路――実家を目指した。

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