第2話 一度だけの復讐
「逃げろ!」
言うが早いか、鋭き一閃が僕をすり抜けていった。怪物の爪が、頬を掠める。
後ろを振り向けば、
「ぐふっ!」
孝一が、胸を貫かれていた。
即死ではない。心臓であろう場所を、爪の先端がぶち抜いていた。
結衣は怪物の軌道上におらず、何とか回避が間に合っている。
(何だ、アレ)
身体が動かない。恐怖が、筋肉を硬直させていた。蜘蛛はこちらに興味を示さず、孝一だけを執拗に狙っている。
「先輩!」
「俺に──構うな!」
苦しむ彼は、最期まで僕たちの身を案じていた。だけど、僕は先輩の指示に従うことができなかった。
戦う? いや、そんな命知らずじゃない。
理由は、とっても単純だ。
(足がすくんでる!)
動けと言っても、指ひとつ動くことができなかった。蜘蛛の巣に引っかかった虫のようだ。
捕食者の目をしたソレは、もう一つの足を使い、先輩の左手を切断した。
「ツッ!!」
吐き気がする。
やめろ! だけど、僕にはどうすることもできない。孝一の悶絶する表情が、僕まで苦しめた。
「結衣!?」
その手を、彼女は握る。
そして、1番近い左側の建物まで、走り出した。
困惑と恐怖で使い物にならない僕に代わり、彼女は逃げようとしている。
だが、蜘蛛はそう易々と見逃す気は無かった。
「アグッ!!」
一本の足を使い、爪を飛ばしたのだ。
爪は僕の右脇腹を貫き、地面に突き刺さった。
同時に僕たちは、建物に入ることに成功した。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」
「大丈夫!?」
呼吸ができる。同時に、アドレナリンで誤魔化していた痛みが僕を襲った。
仰向けで倒れ込む僕を他所に、彼女は自分のバックを漁っている。
「動かないで!」
右手に持った白い布。包帯だ。
彼女の静止で落ち着きを取り戻す。
押さえ込んでいた左手が、綺麗な真っ赤に染まっていた。
(死ぬ?)
あまりにも非現実的なことが起こると、人は10周ぐらい周り、冷静になれる。
僕もその例にもれなかった。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!!」
包帯を巻かれつつ、呼吸を繰り返す。
深呼吸なんてできない。浅く、何度も繰り返せ。
「織!」
結衣の声が聞こえる。
切羽詰まった声が、僕の脳を震わせた。
でも、
(まずっ……! 意識が)
僕の意思とは裏腹に、瞼は重くなっていく。
朦朧とする意識の中、先程の化け物が頭に浮かんだ。この世のモノとは思えないその姿。
だが、何故だろうか。
(怖く……あ?)
確かに、僕は怖くて動けなかった。
でも、それは見た目に対する、この世のモノでは無い、異物に対するものではない。
(あの、執念……は)
まるで、復讐のようだった。
子供の仕返しとでも表現するべきか。
(だ……め……だ)
考えているうちに、僕の意識はプツっと途切れた。
そこは、一言で表すとしたら、地獄。
死が
そこで、一台のワゴン車が煙を上げ、横転していた。年齢も様々な男女が、下敷きになっている。
「何で、兄貴だけ、生き残った」
気がつけば、そこに彼は立っていた。
血まみれで、脳天が半分に割れている。
聞き馴染みのあった声が響く。
声変わりの来ていない、幼い少年の声だ。
怒りに震えたような声に、僕の心臓がドクン!と強く鼓動を打ち込んだ。
「
僕は、声の持ち主の名前を呼んだ。
僕の弟にして、七年前の事故で、両親共々亡くなった、最愛の家族。
色鳥 蒼生。
「ズルい」
「え」
その声は、蒼生の声ではなかった。
そこに、彼の姿は無く、代わりに少し年老いた女性が佇んでいた。
そして、その時までで、最も聞き馴染みのあった声。
「母……さん?」
だけど、彼女の下半身は喪失していた。
あの事故のときと同じ。
幽霊。それしか言いようのない彼女は、不気味に笑う。かと思えば、今度は怒りを露わにし、
「ズルいズルいズルいズルいズルい!!」
何度も、叫んでいた。
僕にはもう、その姿を凝視することが、現実を見ることが、できなくなった。
「何なんだよ……!」
両手で、両目を抑える。
見たくない。やめて。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
「お前も、あの時死ねば良かったんだ!」
「お前なんか生きていても何の意味もない!」
やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ!
生き地獄だ。死者からの声が、僕を責め立てる。
「あれは、事故なんだ!」
「僕は、運良く生き残った!」
「僕は、まだ死にたくない!」
自分に言い聞かせる様に、ぶつぶつと呟いた。
恐怖が、僕を駆り立てる。嫌だ。嫌だ。嫌だ!
「……詩音」
目が覚めると、僕は天井を見上げていた。
天井はライトがあるものの、電気がついていない。僅かな月明かりが、小屋を照らしていた。
「織!」
横に首を振れば、心配の表情を浮かべる結衣。
腹部を見れば、包帯が鮮血に染まっていた。
腹部を抑え、立ちあがろうとする。
「行かな……アグッ!?」
「動かないで!」
刹那、全身に激痛が迸った。
腹部の傷を中心に、殴られるような痛みが広がる。
「最低限の手当しただけだから。下手に動くと、傷が悪化するよ」
「それ……先言え」
言って、僕は自分のバッグをゴソゴソと漁り始めた。たまたまではあるが、今必要なものを持って来ていたのだ。
「何それ薬?」
「うん。鎮痛剤」
彼女の問いに答えると、僕はぐいっと飲み込んだ。効果が現れるのは、今から10分後。
それまでは、動くことができない。
「そういや、ここどこだ?」
「レジ台あるし、多分、
授与所。
お守りなどを販売する場所だ。
窓口とおもしき場所にはシャッターが降りており、外の様子が見えない。
筈なのだが、どうやら結衣がシャッターを上げたようだ。
「痛ッ!」
声を溢しつつ、外を見る。
「!」
やはりというか、なんというか。
あの怪物は、まだあそこにいた。
今だに、孝一の胸を貫いている。
「……クソ」
冷静に、今の状況を考えろ。
孝一は化け物に胸を貫かれている。
僕は右脇腹をぶち抜かれ、行動不能だ。
結衣は無傷ではあるが、とても1人で行動できる人ではない。その上、負傷者である僕を置いていかないだろう。
「警察は?」
「無理。圏外で繋がらない」
「マジか」
外部との連絡を断たれている。
助けは呼ばない。かと言って、ここからの自力脱出は難易度が高過ぎる。
「周りの林から抜けるのは?」
「それこそ無理。断崖絶壁だよ?
「……」
あのことを引き合いに出されては、僕は黙る以外の選択肢を取れなくなる。
だからと言って、正面突破はもっと無理だろう。アレの眼前を通らなくてはならない。
爪が掠っただけでも、血が出たのだ。
(詰んでね?)
邪推だ、と思ったものの、打開策が思いつかない。どうあがいても、最終的には死が浮かび上がってくる。
考え込んでいると、彼女が話しかけて来た。
「ここで待つしかないと思うけど」
「それこそ、不味いんじゃないか?」
「なんで?」
「だって、化け物があそこから動かないって、確定した訳じゃない。こっちに逃げたのは見られてる。いつ、こっちに向かって来ても、おかしくはない」
「それもそっか」
思考をやめず、怪物の動きも監視しておく。
時間が経つにつれ、痛みが引いていくのが感じた。
(鎮痛剤の効果が出るまで、後3分)
走りはできないだろうが、歩くことぐらいならできるだろう。それだけで、十分だ。
「とりあえず、奥の小屋に行こう」
「分かった。けど、大丈夫?」
「隠密は得意だし、無茶せず死ぬよりかはマシ」
彼女の肩を借り、僕は立ち上がった。
目的地は、奥の小屋。
化け物に気づかれたら、死。
(こういうのはゲームだけにしてくれ)
少し楽観視し、扉を開けた。
小声で、彼女に告げる。
「行くぞ!」
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