第6話



駄目だ。緊張し過ぎて、また予定より朝早くに目が覚めてしまった。海に行って、何するんだろう。あ、他にも誰か来るとか?透の取り巻きだったら、直ぐに帰ろう。スズさんなら喜んでお供したい。


ゆるゆるとベッドから降りて背伸びをすると、階下から音がする。きっと母だな。向かうと、キッチンに立って料理をしていた。鰹出汁とご飯の香り。しあわせだ。


「起き上がって大丈夫なの?やるよ。」


「今日は体調が良いの。いつも彗やお父さんに任せっぱなしだから今日は作らせて。」


椅子に座り、母の料理をする姿を眺める。久しぶりなこの景色。少し違うのは、大きくなってきたお腹。思わずニヤける。

豆腐とお揚げさんを切って出汁で煮て、味噌を溶いて沸騰寸前で止める。全部母から習った。


「お父さんも私もいつも言っているけれど。彗は私の自慢の娘よ。」


「いきなりなによ?」


「彗が支えてくれているから、お母さんは自分の体を一番にできているの。だから、今日は家の事を考えないでいっぱい楽しんで来てね。」


炊けたご飯を杓文字で混ぜ返しながら、母は優しく微笑む。


「透が何考えているのか私にはわからなくて。最近になって良いヤツだと思ってきてるんだけどさ、まだちょっと苦手なの。」


「そうなの。なら、今日は沢山お話ししていらっしゃいな。」


「いや、透って私の前だと基本無口だよ。」


母が私の茶碗にご飯をよそって、しらすをたっぷり乗せて海苔を散らす。お味噌汁も並々よそってくれた。


「貴女の前だからなんでしょ。さあ、ご飯を食べて支度なさい。」


「はーい。いただきます。」


母の作るご飯。やっぱり世界で一番美味しい。ゆっくり味わって味噌汁を飲み干す。ソファーで横になっている母にご馳走様と声をかけて皿を洗い、身支度を整える。

どこに出かけようが誰と会おうとも、前髪は命。少しのうねりも許されない。納得いくまで格闘していたら、そろそろ透が迎えに来る時間だ。


私は直ぐに出られるように準備を終えて、自分の部屋で待つ。ウロウロとしながら、何度も首から下がるネックレスの位置を確認してしまう。緊張してきた。


透は律儀に時間通りにチャイムを鳴らした。すぐ外で時間が来るまで待っていたのだろう。私と同じで、時計をじっと見つめていたのかな。

母に声をかけて、玄関で靴を履き、最後に姿見で全身のチェックをする。大丈夫だよね?


「行ってきます!」


玄関の扉を開けると、透が立っていた。優しく笑っている。今日は豪雨でも降るのかな。

透のいつもと違う表情に言葉を失っていると、彼の方から話し掛けてきた。


「おはよう。良い天気だね。」


「お、おはよう。」


透は水色のシャツにオリーブ色のテーパードパンツを着こなしている。シンプルだけど、帆布バッグや靴も高そうな雰囲気だ。私みたいな一般人が一緒に歩いて大丈夫だろうか。


「透、今日はモノレール乗る?それとも江ノ電乗る?」


「モノレールに乗ってみたい。」


「わかった。ここからの道はわかる?案内した方がいい?」


「お願いしたい。」


「わかったよ。行こう。」


透は私の少し後ろを歩いて、私の歩幅に合わせている。


「………い。」


小さく可愛いって聞こえた気がしたけど。振り向くと透の視線は散歩中の犬を見ていた。確かに可愛い。犬好きなのかな。


最寄りの駅に着いて、改札を通る時。透がプレゼントしたパスケースを取り出していた。使ってくれて嬉しい。

今日は休日だけど、まだ空いている方だ。車両に乗り込んで入り口付近に立つと、透が私の目の前に囲むように立ってきた。圧がすごい。


「もう少し広く立ちなよ。」


「そういうものか?……そうか。」


透は私から一歩下がり、吊り革を掴んで物珍しそうに車内広告を見つめる。透は公共交通機関に不慣れなようだ。先程も改札でタッチを誤って詰まってたし。モノレールに乗りたいって言ったのも、乗った事がないのだろう。私がしっかり連れていかないと。


大船駅に着いて、モノレール乗り場まで乗り換えに歩いている時も、透はキョロキョロと珍しそうに周囲を見ていた。会話は無いけれど、なんだか楽しくなって来た。初めてに同行できるってなんか、擽ったいな。

モノレールはあまり乗客がいなかった。ボックス席が空いているので斜向かい(はすむかい)に座る。


窓側に座る透は、ワクワクした子供のような瞳を外に映している。いま側にいる。不思議な気持ちだ。初めて遊ぶのに、当たり前のような雰囲気がこの場にある。


「楽しみだな。」


窓枠に肘をついた透は、窓の外を見ながら笑った。その柔らかな表情が、私の知る透を変えていく。

それが怖いような、嬉しいような、変な感覚になった。私は透から視線を外し、膝に置いたバッグを見る。いま私達の距離は限りなく近い。それが嫌ではない。今まで知ろうとしなかった透。


お互いに無言で、揺れる電車のシートに身を任せる。窓の景色は住宅街から木々の風景に変わり、相模湾へと移り変わる。私はこの景色を見るのが好きだ。彼はどう見ているんだろう。


湘南江の島駅に着くと、私は自然に透に声をかけて電車から降りた。


「この駅にルーフテラスがあってさ。今日の天気なら富士山が見えるよ。」


「帰りに行こうか。」


「そうだね。」


階段を降りて、人が殆ど通り終わったタイミングで改札を抜ける。これなら透もゆっくり通れるだろう。


駅を出て、人の流れに乗って海に向かう。陽に当たり反射する海が眩しくて。少し冷たい塩風に歩みが進む。

海水浴にはまだ早いので、海岸に散歩している人がちらほらといるだけ。私達も砂の上を暫く散歩して、自動販売機で飲み物を買って近くの石段に腰掛ける。


ここまで無言だと、流石に辛い。何か話のキッカケでもないかな。


ふと透を見上げると、前髪が海風で乱れていた。気になったので、手を伸ばして耳にかけてやる。細くて柔らかい。ぼんやりとそんな事を考えながら、自然にそうしていた。透がハッとした表情でこちらを見て、顔を赤らめる。


その顔を見て、自分の行動を振り返る。いきなり触られるのは嫌だったのかもしれない。気軽に触って、悪かったかな。


「ごめん。気になったから。」


「…おう。」


透は赤ら顔のまま、缶に口をつけた。気まずい。他の話題を振ろう。


「ねえ。透って休みの日は何しているの?」


「勉強して、練習して、読書か散歩かな。」


「ふーん。」


私の場合。ゲームや漫画、ネットサーフィンだって人生に必要だ。


透の取り巻き達はこんな透の姿を知っているのかな。勝手に神格化して、私みたいな凡人を排除しようとする。私の目の前にいるのは、普通の人だ。


「そういえば。何で海に来たかったの?」


私の質問に、透は難しい顔をしながら飲み物を飲む。そんなに難しい質問だったのかな。彼は暫く黙って考え、やっと答えを出した。


「気になったから。」


「何が?」


透は波打つ海を見つめる。真剣な様子に、私はそれ以上何も聞けなかった。透は自分の中で納得したみたいで、言葉を続ける。


「ここに来たら、少しは作品に取り入れられるかなって。実際来てみてわかった。そんなんじゃないって……なあ。ゲームをしないか?」


「ゲーム?」


透は持っていた帆布バッグから、ノートと筆ペンを取り出した。ノートをペラリと広げ、筆ペンのキャップを取って差し出してくる。


「一画ずつ書いていって、漢字を完成させるんだ。お題は『海』な。君から始めてくれ。」


屈託無く笑う透があまりに楽しそうで。答えが聞きたかったけど、もういいや。


私は彼からペンを受け取り、ノートに大きく一画目を書いた。次は透。次は私。互いの癖を知っているからこそ、相手に対して挑戦的に筆を進める。はらいは鋭利に、ハネは力強く。最後は私だ。横に一本、しっかりとした止めで決める。


「これでどうだっ!……凄いね、津波が見える。」


仕上がった『海』を見て、透は隣で腹を抱えて笑った。大声で、豪快に。海の音をかき消すような笑い声。そんな透に私も釣られて笑った。透の笑い声に笑い、出来上がった作品の出来に笑った。


「あ〜。お腹痛い。この海、最高過ぎるんだけど。透のこのはらいが尖りすぎてさ。もう、渦巻きだよ。」


「そうだね。そうだ。コレなんだよ。」


なんて楽しいんだろう。こんなゲームは初めてだ。きっと透とするから、楽しいんだろうな。


「ねえ、もう一回しよう。お題は『筆』!次は透から。絶対に綺麗に書いちゃ駄目。」


「それって振り?」


「さあ?どうだろう。」


海の存在をすっかり忘れて、私達はひたすら書く。互いに挑戦的に、自分に貪欲に。ノートを使い切る頃には、お腹が痛くて立ち上がれなかった。


「もう駄目。動けない。」


「俺もだよ。ああ、こんなに楽しいのは初めてだ。」


そこからは、お昼にしらす丼を食べたり。お土産売り場を見て回ったり。お互いの誕生日とか色々話して、透を知っていった。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


「もう夕方だね。そろそろ帰らないと。」


「……そうだな。帰りがてらルーフテラスに行こう。」


「良いね。夕暮れの富士山も素敵だよ。」


駅に向かおうとしたけど、この時間の人混みは凄くて。透と離れてしまいそうになる。


「透、大丈夫?」


「……すまない。」


わたしは思わず、透の手を取った。ほんのり指先が冷たくて、でも優しい温もり。透も思ったよりしっかりと握り返してくれて、私の胸の鼓動が速くなる。


「……。」


「……。」


私が透を引っ張るかたちで、お互いに無言で歩く。人が沢山いてよかった。こんな顔、絶対に見せられない。手を離すのは簡単だけど、それをしたくない自分がいる。


駅まで歩き、ルーフテラスで富士山から茜色が消えるのを見届けるまで。私は透の手の温もりしか感じられなかった。電灯が周囲を明るく照らす頃。


「今日もネックレス着けてくれて嬉しいよ。気に入ってくれた?」


初めて聞く優しい声に、私の胸は不思議と熱くなる。透を見上げると、柔らかな瞳が私を見つめていた。何もかもが初めてで。私は自然と口から言葉が出る。


「うん。私も、パスケース使ってくれて嬉しい。」


「君が俺の為に選んでくれた物だから、凄く嬉しいよ。……帰るか。」


改札口の前で手を離してそれぞれが通り。そして、また自然と手を繋いだ。透が私の目をしっかりと見て、口を開く。


「また、2人で来よう。これからも。」


「……うん。」


透が家に送ってくれるまで。私達は何度も手を離しては繋いだ。


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