第2話
自分の部屋で、書き初めに向けて練習をしている。勉強机で正座をするとかなり不安定なので、やっぱり書く時は座卓か床に正座が一番書きやすい。
シュリシュリ、シュリシュリ
固形墨を硯(すずり)にする音は耳に心地良く、漂ってくる墨の香りに心が癒される。
だけど、小さくなった固形墨を使うと指先が真っ黒になる。これだけは不快だ。取れにくい。書道具はお小遣いとは別だから、母にお金を貰って買いに行こう。
書き上がった文字を眺める。うん、力がなくてヒョロヒョロだ。これは駄目だな。やっぱり家で書くと気が漫ろ(そぞろ)になる。あの心地良い空間でないと私は本気を出せない。
「お母さん。固形墨が無くなっちゃった。新しいの欲しいからお金ちょうだい。」
道具を片付け、財布を開いて中身が空っぽなのをアピールしながら居間に行くと、母は針仕事をしていた。これは涎掛けだ。カラフルな色合いで、私は趣味じゃない。まだ性別もわからないのに、母の趣味を押し付けられるなんて。まだ見ぬきょうだいが可哀想とか思いつつ、母に向き直る。
「デートならお茶代もあげるわよ?」
「そういうのは来世に期待しているの。」
「その年で何言っているんだか。……はい。帰りに何処かで買い食いしていらっしゃい。」
多めのお金を差し出しながら、少し呆れた顔をしている母。お金を受け取って、振り回していたお財布に納める。身支度を整えて、行ってきますと言い捨てて背中を向け、玄関で靴を雑に履いて家を飛び出す。こういう話は嫌いだ。
特に理由もないけれど、急足で駅に向かい電車に乗る。乗り継ぎ先まで窓の外を眺めながら、私はワクワクしている心を悟られないように吊り革を握った右手に力を入れた。
たまにしか行かない専門店。用事がなければ足を踏み入れるのが憚(はばか)られる、神聖な場所だと思っている。
軽快に電車を降り、行き慣れた道を早歩く。誰かに会う訳でもないけど、ビルのショーウィンドウをチラリと見て、髪型が崩れていないか再確認。
ヨシと心の中で一呼吸し、いつもの店の扉をくぐる。この店は、多様なジャンルに対応した道具屋。何でもある道具箱だ。
先ずは、目当ての階に向かう前に他の階を見回る。2階では数種類の青い絵の具を手に取り、じっくり吟味する人がいた。空でも描くのかな。
ジャンルは違うけど、作品を作りたいという思いは一緒だ。きっと楽しんで選んでいるのだろう。真剣な中にキラキラとした楽しさが垣間見えた。
少し移動して新品のパレット売り場を見る。まだ誰の物にもなっていない道具を見て、これがどのように変化していくか想像するのも面白い。我ながら変わった趣味だとは思っている。
先生が使っている年季の入った硯箱は、一つの作品として完成しかかっている。これからも、どんな成長を遂げるのか見届けるつもりだ。
ゆっくりと店内を順に巡り、最後に書道具の置いてある階に向かう。見知ったヤツが筆の置かれた棚前に立っていた。奇遇だな。
「………カッコいいな。」
青い作務衣に黒いコートを手に持った透。襟元がピシッと伸びていて様になっている。
腕を組みながら筆をじっと眺めている彼の横顔。まるで一つの作品のような仕上がりに、思わず見惚れる。
彼の文字が、これからどう変化し成長していくのか。経過を見られるのが楽しみだ。
私はあえてそっと近づき、背後から背中をポンと叩く。
「買うの?」
「……おう。」
声をかけるとサッと耳を赤く染め、こちらに顔を向ける。そして私の顔を一瞥した後、一言を発し、筆を手に取り去って行く。素っ気無い態度。真剣な所を邪魔したようだ。
「あのさ、邪魔してごめんね。」
去り行く背中に小声で問いかけるが、勿論返答は無い。まあ、いいさ。そういうヤツなんだろう。
彼が見ていた筆の値段を見て、ギョッとした。これ、私の使う筆の2倍はする。良い道具を使えば、更に良い作品が作れるのだろうか。私は趣味でしているだけだから、道具にとりわけ興味は無い。そう心の中で思いつつ、目当ての固形墨コーナーに移動する。
「……買い食いしてこいって事は、その分好きに使って良いんだよね。」
いつも使っている固形墨の横に置かれた、少しだけ高い品物を手に取る。私も少しは背伸びしたって良いよね。今回はコッチにしよう!
少しソワソワしながら品物を持ち、レジに向かう。請求された金額を一歩大人な気分で支払い、手に取る。これは私の物になった。嬉しい。今から教室に行って使ってみよう。うん、そうしよう。今なら良い文字が書けそうだ。
ワクワクしながら店を出ると、何故か透が出入り口側に立っていた。一応挨拶はしておこうかな。
「じゃあね。」
「……おう。」
変わらずぶっきらぼうな返答だ。愛想のカケラもない。爽やか笑顔の天才書道家とか持て囃されてるのに。取り巻きがいないと、こんなものらしい。まあ、私は関係無いけど。
彼の前を通り過ぎようとしたら、手首をガシリ掴まれた。握る強さに驚いてヤツを見ると、顔を伏せている。何だこの状況。
「ファンに見られちゃうよ。」
私の言葉に、透はすんなりと手を離した。顔は変わらず伏せたままだが、どうみても頬まで赤くなっている。絡んでくる時とは大違いだ。
「これから帰るのか?」
「ううん。」
「だっ、誰かと会うのか?」
「書道教室に行くの。新しい墨を早く試したくて。」
「……そうか。」
何で睨んでくるんだ。訳がわからない。
「じゃあね。」
私はその場を去る。まったく、訳がわからない。
ーーー
やっぱり良い墨を使うと良い作品が作れるのかもしれない。プラシーボ効果かもしれないけど、久しぶりの最優秀賞に私は嬉しさと緊張が混ざり、変な顔になっている自覚がある。
「おめでとう。この伸びやかさが、今回の作品にとても合っているよ。」
「あっ、ありがとう、ございますっ!」
自分の作品を誰かに褒めてもらえるのは、純粋に嬉しい。私は審査員長から最優秀賞の賞状を受け取りながら、隣を気にする。若草色の着物を着た透は、少し不服そうだ。
客席にまとまって座る取り巻き達が、猫を被るのを忘れたようで。透からもっと離れろと手で指図してくる。
私を排除しても透の隣に立てる訳でないのにな。自分も努力すれば良いのに。
「今回も素晴らしい作品だよ。君はやはり天性の才能がある。次回も楽しみにしているよ。」
「ありがとうございます。精進します。」
透が最優秀賞に加えて審査員長賞を受け取りながら頭を下げた。ここ数年、彼がトップを独占している。彼が評価されているからこそだ。今回は私だって負けてない。
取り巻きのせいでモヤモヤとした気持ちのまま、最優秀賞と優秀賞の10名で写真を撮られる。緊張で足が震えてきた。目の端にいる透は、なんでこんなフラッシュの中平然としていられるのだろう。これも審査対象なら、素直に私は負けを認めてやる。
「ありがとうございました。お帰りいただいて結構です。」
授賞式が終わり、スタッフに出口に案内されつつ、私は大人達の着るスーツに目を遣る。
親からお祝いにと、ドレスを買ってくれる事になったのだけど。どれにするべきか悩んでいるうちに、今日を迎えてしまった。だから今回も、いつもの学生服だ。
長く着る服を一着を決めるなんて、初めての経験にずっと悩んでいる。スーツもいいな。両方は金銭的に無理だけど。ドレスじゃなくて、スーツを強請ってみようかな。
周りが賑やかに作品の出来を語り合い始める中。私はあえて自分からヤツに声をかける。
「今回は隣だね。」
「……おう。」
透は、所在無さげな雰囲気だ。
「今回は調子が悪かったのに、審査員長賞だったから不服なんでしょ。」
「…!」
透はハッとした表情で私を見る。暫く私を見た後、耳を顔を赤くしながら柔らかく笑ってきた。こんな表情もできるのか。私の驚きが伝わったようで、彼は少しだけ視線を外す。
「やっぱり、な。」
「何よそれ。」
「次こそは一緒にお茶に行こう。あの道具店の近くに、おススメの店があるんだ。」
「え?次こそはって、誘われてないけど。」
何言っているんだと思う私と同じ顔で、透も私を見てくる。全く話が噛み合っていない。
「この前、墨買いに来てただろ。あの時誘ったのに、用事があるからって断ったじゃないか。」
え?あれ、誘ってたの?わかる訳がない。
透の周りは常に取り巻きがいる。社交的だと思っていたのに、誘うのは下手のようだ。もしかして、友達はいないとか?
いや、そんな事ある……ありそうだな。あの取り巻き達だし。
「えっと、透。あのさ…」
「なあ。上野は行く?」
「友達と何度か買い物に行ったり、教室の皆と動物園にも行ってるよ。すっごく好き。」
そう言いつつ、私はハッと気がつく。これは、透からの遠回しのお誘いなんじゃないか?
お茶に誘われた覚えはないけど、誘われたし。いや、でも私の話を聞いた透は現在、私を睨んでいる。何を考えているかわからないけど。ここは、私から誘ってみよう。少し、透という人間が気になってきた。
「一緒に行く?」
透は全身赤くなり、嬉しそうな様子だ。着物の袂から何かをサッと取り出して私に押し付けてくる。受け取ると、二つ折りされた紙が一枚。
「何よこれ。」
中を確認しようとしたが、透に取材しようと舞台裏でスタンバイしていた人達に、ドンと押された。
「透さん!今回の作品も素晴らしいですね!」
「本当!本当!最優秀賞は透さんだけですよ!」
透の取り巻き達が、私を突いて押し退けてきた。あっという間に透の周りは人だらけになる。少し独占し過ぎたようだ。
「まあ、いいか。」
返答は無かったけれど、誘ったから良いか。紙切れを上着のポケットに入れた。
私の中の一位の作品も見つけたし、先生や他の生徒に挨拶をしてから帰ろうかな。作品を見回っている皆に声をかけ、最後にもう一度、透の作品を遠目に見る。うん、機嫌が悪そうな字面だ。この時の、ヤツの心の内がよく描かれている。
「すいませんが、開けて下さい。さあ、透君。こちらへお願いします。」
スタッフ達が誘導し始め、私がよけると、そこは透だけの空間になった。この場にいる全ての人達が透に視線を向ける。彼は何も言わず、大勢の大人達に促されながら自分の作品の横に立つ。一連の流れるような、堂々たる姿勢に私はゴクリと唾を飲んだ。
同じ年であっても、彼と私の距離はこんなにも遠い。
「帰ろっと。」
他に用事もないので直ぐに家に帰り、自分の部屋に入って上着を脱ごうとしたら、ポケットに違和感があった。そういえば、何か渡されたんだった。少しクシャクシャになっている紙切れには、ボールペンで連絡先だけが書かれてあった。初めて透のペン字を見るけど、こちらも綺麗。
「いつも持ち歩いているのかな?」
やけに嬉しそうな雰囲気が、文字から伝わってくる。
「はぁ。意味がわからない。」
紙を机に置いてベットに寝そべり、目を閉じた。
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