第四章 奸計と慮外 ー2ー

 ちょうど同じ頃、雲弦の教室の横の回廊を、ずいほうと共に次の授業に向かおうとしていた冰悧が通りがかった。

 高く掲げられた跳ね上げ窓から中の様子が見える。なぜか屋根に穴が空いた教室では、これ以上ないほど身を小さくした凛心が、きょうしゅの姿勢を取りながら、沈雲弦に叱責を受けている。


「またあの子犬しゅうか。屋根を吹き飛ばすとは、派手にやらかしたな」


 瑞鳳が、おかしくてたまらないといったように噴き出した。

 雲弦が人差し指を振りながら何かを言うたびに、恐縮して頭を下げる凛心の長い黒髪がひょこひょこと揺れる。

 勝ち気な瞳が、泣き出しそうにゆがめられた。




 ──その横顔に、ふと昨夜の出来事が蘇った。






 消灯時間を告げる鐘の音が遠く聞こえる中、冰悧はため息をついて髪をかきあげた。

 目の前には、自らが仕掛けた謀計にはまって、卓の上でぐっすりと寝入ってしまった凛心がいる。


(……とんだ茶番だったな)


 冰悧はひとりごちた。自分の部屋の前で凛心が待っているのに気づいた時は何かを期待してしまったが、声をかけてきた時の態度からして、あまりに怪しすぎた。弓練場で見たあの清々すがすがしいほどの「名術士」としての姿は、自分の前ではなぜか姿を消してしまう。

 ふーっと息をつくと、凛心がほとんど食べ尽くしてしまった菓子の最後の一つを口に放り込む。上質な糖の甘味と共に、不思議な苦味が舌にまとわりつく、変な味だった。


(さて……)


 いつものように、凛心のそばにかがみこむ。


(蒼天男士学院学則集第三十六条:生徒は消灯時間を守り、身辺を整えて、寝台にて正しく就寝するべし)


 学則の一節が冰悧の頭をかすめる。この忌々しい学則のせいで、ここ二週間ほど、彼を寝台に運ぶ作業が冰悧の日課になってしまった。


(どこまでも、世話のかかるやつだ)


 茶器の中に頭を埋めるようにしている凛心の肩をつかんで抱き起こす。こてん、と小さな顔が自分の胸の中に転がってきて、冰悧はその寝顔に目線を移した。

 いつも自分を蔑むかにらみつけるかしてくる瞳は、今は穏やかに薄いまぶたの裏に隠れ、こくたんのようなまつが滑らかな頬に長い影を作っている。少し上向きのツンとした鼻に続く、ふっくらとした唇は薄く開かれ、白い歯がちらりとのぞいていた。


 カチン、とお互いの歯が当たった時の感触がまた脳裏に蘇って、冰悧は頭を振った。あの出来事は、もう記憶の彼方かなたに埋葬したはずだ。

 さっさと片をつけてしまおうと、冰悧は凛心の脇と膝に手を差し入れて抱き上げた。その体は軽く、手に触れる感触も、男のものとは思えないほど柔らかだった。のけぞった首も、帯が回る腰も、たよりなげと形容していいほど細い。


(確かに、瑞鳳が『女』と疑うのもわからなくはない)


 弓練場での会話のせいか、珍しくそんな考えが頭をよぎる。

 寝台に仰向けに寝かせ、胸元まで布団をかけてやる。いかにも不幸や悩みとは無縁そうなのんな寝顔を眺めた後、自分の部屋に帰るのがここ最近の習慣だったが、その日は何かが違った。


「うぅ……」


 凛心が顔をしかめ、苦しそうに何度も寝返りを打った。どうやら飲み慣れない薬を服用したせいで、悪夢を見ているらしい。


「父上……」


 悲しげな声が聞こえたと思ったら、凛心の閉じられた瞼から、ポロリと大粒の涙があふれた。


「父上……しょくざんあんは……必ず……」


 さらに続けて涙が流れ、学院の備品である水色の枕に群青のみを残す。予想もしなかった姿に、冰悧は思わず寝台に腰をおろして、その寝顔を心配げにのぞきこんだ。


「待って……行かないで……」


 突然、凛心が手を伸ばし、寝台に置かれた冰悧の左手を掴んだ。そしてもう二度と離したくないと言わんばかりに、ぎゅっと冰悧の手を握りしめ、すがるように顔を寄せた。

 柔らかな頬の感触が、冰悧の手のひらをくすぐる。

 不慮の事態に、冰悧はあわてて凛心の手を外そうとした。しかし、その度にまた悲しそうな顔をされて握り返されてしまう。しゅきんでも握らせようか、いやそれよりもっと厚みのあるものの方がいだろうかと、一人で考えをめぐらせていると、いきなり頭が鉛のように重くなった。


(なんだ……この眠気は……)


 泥沼に引きり込まれるように、体が自由を失っていく。


(まさか……先ほどの菓子に睡眠薬が……?)


 冰悧は、ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、思わず凛心の隣に倒れ込んだ。すぐ目の前に横たわる、凛心の白い顔が段々と暗闇に溶けていく。


(こんなはずは……)


 そう悪態をついた時、重い瞼がついに重力に耐えきれなくなった。




 ──やがて、戸口を叩く音と誰かの呼び声で、冰悧の意識がゆっくりと覚醒を始めた。


(ここは……)


 自室の寝台とは少し違う感覚に、冰悧は目を閉じたまま、片手で周囲をさぐった。何か温かいものがすぐ側で穏やかな寝息を立てている。ぬくもりを求めて腕の中に引き寄せれば、その存在は素直に身をすり寄せてきた。


(なんとも心地よい……)


 ここしばらく、悪夢にうなされて目を覚ます日々が続いていたが、今日はそんな心配はなさそうだ。冰悧は満足げに大きな息をつくと、腕の中の存在を再度抱きすくめ、まどろみの中に身を預けようとした。ふくいくとした太陽のような香りがこうをくすぐる。


「おーい、凛心! そろそろ始業時間だぞ!」


 聞き慣れた声が、戸口から響いてくる。


(凛心……?)


 冰悧がやっとのことで重い瞼を開けると、手をつないだままぐっすりと眠る碧凛心のあどけない寝顔がすぐ目の前にあった。

 冰悧の顔から血の気が引く。

 ようやく機能し始めた脳内に、昨夜の出来事がせんこうのようによみがえる。

 あってはならない出来事に、冰悧は柄にもなく狼狽うろたえた。慌てて後ずさると、手が寝台の縁をすべり、寝台から転げ落ちてしまった。


「おい? 大丈夫か?」


 物音が聞こえたのか、えんらんの声にげんの色が混じる。

 今にも部屋の中に入ってきそうな雰囲気を察知して、冰悧は急いで立ち上がった。

 事故とはいえ、下級生と同じ寝床で一夜を過ごしたなどと知られては一大事だ。

 冰悧は部屋の奥の窓を開けると、外に誰もいないことを確認し、すぐ横の桃の木に飛び移った。

 枝を伝って地面に降り立った瞬間、二階の窓から凛心を揺り起こす焔嵐の慌てた声が聞こえ、冰悧は幹に身をもたせかけて大きく息をついた。


 自身を落ち着かせるように、そっと胸を手で押さえる。とっくに窮地は脱したはずなのに、高鳴ったままの胸の鼓動は、その後しばらく落ち着いてはくれなかった──。





「おっと、趙学子シュエズ、失礼しました」


 後ろから歩いてきた同級生に軽くぶつかられて、冰悧はハッと我に返った。

 ぼーっと眺めていた跳ね上げ窓の向こうでは、まだ凛心が雲弦に説教を受けている。

 冰悧は手に持っていた紺色の課本を強く握ると、きびすを返した。


「冰悧、そんなに急いで向かわなくても、まだ次の授業には間があるぞ」


 後ろから、瑞鳳の声が聞こえる。


「今日はユエカオつきごとに行われる試験)があるだろう。お前、準備はできているのか」


 ぶっきらぼうにそう言うと、楽天的な従兄弟いとこはおどけたような表情を見せた。


「はは、そんなの、貴様の答案をちょっと見せてもらえば」

「不正の手伝いなら、他をあたれ」

「もう少し、あの子犬術士が叱られる様を見ていかないのか。うなれた耳や尻尾が見えるほど恐縮してるぞ」

「必要ない。あの生徒に関わると、ろくなことがない」


 思わず本音がこぼれてしまった。

 冰悧は、回廊近くに生えたささたけの陰に沈雲弦の教室が消えていくのを見ながら、またざわつき始めた鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てた。


(少し、あの生徒とは距離をとるか……)


 歩く速度を速めながら、冰悧はつぶやいた。


(せめて、今夜はなんの面倒も起こしてくれるなよ……)


 冰悧は、笹竹の葉にかいえる凛心の姿に、すがるような目線を向けた。

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