第三章 受難の日々 ー6(2)ー




 ──暗闇の中で、夢を見た。



 夢の中で、凛心はしょくざんあんに立っていた。

 なんの装飾品も無い粗末な部屋に、壁を覆う大量の書物。

 父に剣術を指導してもらった中庭も、たった一つのしょくだいを挟んで共に書を読んだ居間も、全てが昔のままだ。


『凛心』


 懐かしい父の声が聞こえる。贖山庵の居間と書斎をつなぐ戸口に、元気だったころの父の姿があった。凛心は思わず駆け寄ってその体を抱きしめた。涙が出そうなほど恋しかった父のぬくもりが体の隅々まで染み渡る。


『父上、会いたかった』


 凛心は、父をきつく抱きしめた。

 しかし、父は凛心を抱き返してはくれない。


『父上、どうして──』


 凛心が悲しげに問いかけようとした時、けたたましい馬のいななきが闇を引き裂いた。ぐにゃりと床が歪んで、さらに贖山庵全体が歪み始める。

 足元をふらつかせて倒れ込んだ父がゆっくりと顔をあげた。優しかった父の顔は、今は不気味などくに変わっていた。木のウロのような真っ暗な目のくぼみから血の涙が流れ、その体は次第に崩れ落ちる贖山庵に飲み込まれていく。


『父上──!』


 凛心は思わずその手を握ろうとしたが、届かなかった。きんの笑い声がどこからともなく響く。


『父上! 贖山庵は、必ずおれが守るから……!』


 凛心は父に向かってあらんかぎりの声を張り上げた。髑髏となった父は、歪みながら奈落へと落ちていく。


『父上、待って!』


 行かないで、と必死に手を伸ばしたところ、何かひんやりしたものに触れた。ぎゅっと握りしめてそれにすがりつくと、少し心が和らいだ気がした。





「……心……! おい、凛心!‌!‌!」


 首がもげそうなほど激しく揺り起こされて、凛心はくっついたまま離れようとしないまぶたをこじ開けた。


「うっ……」


 まぶしい朝日が、寝ぼけ眼を刺す。

 凛心の視界に、焔嵐のしゃくどういろの髪が目に入る。


「嵐兄……?」


 凛心は訳がわからないと言った様子で師兄の顔を見つめた。


「お前、昨日の夜、何があったんだ? 何度声をかけても反応がないから、死んだのかと思って肝を冷やしたぞ」


 寝台の側に立つ焔嵐の顔は、心なしか青ざめていた。凛心はまだ睡眠薬でふらふらする頭を抱えて起き上がる。幸運にも、寝台には無事に戻ってこれたようだ。


(あれ……?)


 自分が寝ていたところの隣に、夜具の乱れがある。触ってみると、まだほのかな温もりが残っていた。さらに自分の服からは、嗅ぎ慣れない香の香りがする。


「嵐兄、おれが起きないのにかこつけて、添い寝とかしなかったよな?」


 凛心の言葉に、焔嵐が真っ赤に頬を染める。


「俺がそんなことするわけないだろう!」

「確かに嵐兄は挙動不審なところがあるけど、さすがに理由もなくそんなことしないよな……」


 この香りも、嵐兄のものじゃないし……と、凛心は回らない頭をボリボリといた。


「お前、減らず口たたいてないで、さっさと支度しろ! もう始業時間だぞ」

「えっ……?」


 その一言に、凛心は言葉を失った。外をみれば、太陽が高々と上がっている。


うそだろ……! 今日が締め切りなのに、まだ写本が出来上がってないっ!」


 凛心は未完成の写本と授業の道具を肩掛けかばんに突っ込むと、疾風はやてのごとく部屋を後にした。

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