第三章 受難の日々 ー6(1)ー

「趙先輩! やっと帰ってきた!」


 消灯時間も目前に迫り、れる思いを抱えて冰悧を待っていた凛心は、ようやく目的の人物が廊下に現れたのに気づいて、立ち上がった。不意に声をかけられて、冰悧があからさまに嫌な顔をする。凛心はパタパタと足音を立てて冰悧に近づくと、ひょこっと一礼して笑顔を浮かべた。


「先輩、今お時間あります? ちょっとお話ししたいことがあって……」

「──話したいこと、とは」

「ここじゃ話せないんで、おれの部屋に来てもらえませんか?」

「もうすぐ消灯時間だ」

「すぐ終わりますから!」


 有無を言わさず、冰悧の袖を引っぱると、凛心は自分の部屋へと足を進めた。冰悧がいぶかしげな顔をする。


「散らかってますけど、どうぞ!」


 自室にむりやり冰悧を引き込むと、部屋に備え付けの座椅子に座るよう促した。


「今、お茶れますから、ゆっくりしてて下さい」


 凛心は冰悧にくるりと背を向けると、部屋の隅においた茶卓に向き直った。

 消灯時間が来るまで、あと一刻程度。それまでに、なんとしてもこの作戦を成功させなければならない。

 凛心は、はやる鼓動をおさえながら、焔嵐から借りてきたすいいろちゃふうに湯を注いだ。そのそばには、葉玉の医務室から拝借した白い小瓶が置いてある。蒸した茶を二つの茶杯に注ぎ、片方にたっぷりと睡眠薬をふりかける。白い粉末状の薬は、ゆっくりと薄茶色の液体の中に溶けて見えなくなった。


(これでよし)


 凛心は、盆の上に茶杯を載せると、先ほど茶と一緒に焔嵐からぶんどって……もとい、分けてもらってきた一口大の菓子の皿を取った。そのまま振り向こうとして、ふと手を止める。


(いちおう、念には念を入れとくか)


 凛心は一列に並んだ菓子の一つを取り上げると、底の部分に眠り薬をなすり付けた。


「そっちを向いて、何をしてるんだ」


 冷たい冰悧の声が聞こえて、凛心は飛び上がりそうになった。急いで茶器の載った盆と菓子の皿とを持ちなおすと振り返る。


「へへ……お待たせしてすみません」


 本心を悟られないように愛想笑いを浮かべながら、部屋の中心にある卓にいざりよる。


「実は、ランにい……じゃなかった、李焔嵐先輩から、珍しいお茶とお菓子をもらったんで、先輩にごそうしたくて」


 どうぞ、と言いながら睡眠薬が入った茶杯を冰悧の前に差し出す。


「これ、仙人が寿命を延ばすのに使うれいを配合した薬茶で、滋養強壮にいそうなんです。先輩も連日お疲れでしょうからピッタリだと思って! さ、熱いうちに!」


 そう言って飲むように促すが、冰悧は袖の中で腕組みをしたまま、手をつけない。嫌な沈黙が、二人の間に流れる。消灯時間までの目安として冰悧の後ろの棚においておいた線香が、だんだんと残り少なくなっていく。凛心は、手のひらにたまる汗をゆっくりと制服の膝で拭いた。


「何事だ」


 冰悧は、警戒の色を解かずに凛心を見つめた。


「私に茶を出すなど、人が変わったようだ」


 チッと凛心は心の中で舌打ちをした。さすがにりょうかんせいを務めるだけあって、頭は切れる方らしい。


(本当は軽く世間話でもしながら、流れで茶を飲ませるはずだったのに、お前が消灯時間までなかなか帰ってこないから、こっちは焦ってるんだよ)


 凛心はひそかに相手を罵った。しかし、きちんと納得させなければ、おそらく茶に口をつける可能性は皆無だろう。


(それなら……)


 と、凛心は気持ちを切り替えた。こいつが一番欲しいと思っているものを与えて、油断させてやればいい。


「そうですよね……」


 しおらしい表情を作りながら、凛心は悲壮感を滲ませた声でつぶやいた。


「いままで散々先輩にたてついていたのに、今更、先輩が許してくださるわけ、ないですよね……」


 そういって悲しげな顔をすると、冰悧の薄青の瞳に戸惑いが浮かぶ。


「実は、今日ずっと趙先輩を待ってたのは、先輩におびをしたかったからなんです……」


 凛心は床に膝立ちになると、きょうしゅの姿勢をとった。今日の「礼法」の授業で、何度も教員に戒尺でたたかれながら散々しごかれたのだ。腕の角度も、重ねた手のひらの伸ばし具合も、完璧なはずだ。


「趙冰悧寮監生! ここしばらく、先輩のご指導をないがしろにするような態度をとって、本当に申し訳ありませんでした!」


 そう言って、深々と頭を下げる。

 指の間から盗み見れば、冰悧は虚をつかれたように、長いまつしばたたいていた。

 これならいける、と凛心は確信を強めた。


「趙寮監生は、この学院の品位を守ろうとされているだけでなく、わたくしが礼節をわきまえた、徳の高いしゅうになれるように、心を砕いてご指導して下さっていたんですよね。それにもかかわらず、私は先輩のご厚意をることもできないばかりか、反抗ばかりしておりました。本日、弓練場での無礼を皮切りに、級友や師兄に滔々とうと諭され、己がいかにもうまいで傍若無人な人間であったかを、痛感いたしました。本当に恥ずかしい限りでございます。今までの失礼をどうぞお許しください!」


 再度頭を下げる凛心に、冰悧が少し表情を和らげた。


「……ついに改心する気になったか」

「はい! これからも、どうぞご指導の程お願い申し上げたく、こうしてお呼びした次第です」

「なるほど、それはうれしいな」


 冰悧が、いつもより少し温かな声で答える。凛心はパッと顔を輝かせた。


「許していただけるのですか」

「仕方がないだろう。もう、手を下ろせ」

「はいっ! ありがとうございます! それでは……」


 凛心は再度深く頭を下げると、礼の姿勢を解いた。そして、卓の上の冰悧の茶杯をとると、高く掲げて、再び頭を下げる。


「本来でしたら、今までの非礼のお詫びに、先輩にご一献差し上げるところですが、学院は禁酒ですので、薬茶でご容赦いただきたく存じます。どうぞ私の気持ちを汲んで、さかずきを受けていただけますか?」

「わかった。そういうことなら、いただこう」


 冰悧が茶杯を受け取り、流れるような所作で口元に運んだ。凛心は目を輝かせながら、じっとその様子を見守った。


「熱っ……」


 口をつけた途端、冰悧がたまらずに顔を背ける。茶杯から茶がこぼれ、冰悧の白い手をらした。


「あっ……今、しゅきんお持ちしますね!」


 凛心は慌てて後方の茶卓まで駆け寄り、手巾を取って冰悧に渡す。


「すまない、世話をかけた」


 冰悧は申し訳なさそうにそういうと、手巾で手を拭き、息を吹きかけながら茶を飲み干した。


(よしっ! 計画通り、眠り薬入りの茶を飲んだぞ! あとはこいつが寝るのを待つまでだ!)


 凛心は心の中で歓声をあげた。踊りだしたい気持ちを抑え、にやけそうな頬をひくつかせて平静を装う。ふいに、冰悧が不思議そうな顔をした。


「お前は飲まないのか」

「え?」

「盃は交わし合うのが礼儀だろう。私はすでに自分の分を飲んだのに、なぜお前は自分の茶に口をつけないんだ」

「あ、そうですね……」


 凛心はそう言われて、卓に置かれた自分の茶杯を眺めた。この茶はそもそも、趙冰悧を油断させるために淹れたもの、つまり芝居の小道具だ。特に飲む気もなかったのだが、先ほどから気持ちがたかぶっていたせいで喉が渇いていた。


(また先輩に、作法がなってないとか怒られないかな……)


 長い指先をそろえて美しく茶杯を傾けた冰悧の姿を思い浮かべながら、凛心は袖で口元を隠すようにして自分の茶を飲み干した。苦味のキツい、変な味が喉を通ってぞうに流れる。


(うわ……嵐兄ってば、なんて不味まずいお茶をくれるんだ)


 凛心は口を押さえながら、心の中で焔嵐に文句を言った。睡眠薬入りのものを避けながら、机の上の菓子を頬張る。上質な糖の甘さが口の中で溶け、先程の舌がしびれるような茶の苦味をいやしていく。


(へぇ……これ美味おいしいな。趙先輩が寝入ったら、また今日の夜食用にもらいにいこう)


 と、凛心は色々今夜の予定を考えながら、睡眠薬入り以外の菓子をすっかり平らげてしまった。


(今日は、思いがけず良い日になったな──)


 凛心は、菓子で膨れた腹をさすりながら、満面の笑みを浮かべた。弓術試合でも優勝したし、功課しゅくだいも一週間無くなった。何より、ついにうるさい冰悧をやり込めることができたのだ。

 平静を装いながら、向かいに座る宿敵の様子をうかがってみると、冰悧は黙ったまま、沈思するように袖の中で腕を組んでいた。


(そろそろ、薬が効いてもいい頃なんだけど──)


 そう心の中でつぶやいた時、急に視界がぐらりと揺れた。途端に例えようのない強烈な眠気が襲ってくる。

 思わず額に手を当てて頭を支えた時、目の前の冰悧がかすかに笑っているのが見えた。


「なるほど、眠り薬が入っていたのか」

「え……? なんで……?」

「お前が手巾を取ろうと背を向けたその一瞬に、私とお前の茶杯を入れ替えておいた」

「なんだって……!?」

「お前が急にしおらしくなるなんて、何か裏があるとしか考えられないからな」

 冰悧の端正な顔が、面白そうにゆがむ。

「くそ……おれの謝罪を聞いて嬉しそうな顔をしたくせに、あれは演技だったのかよ……」

「海千山千のしゅうの世事にまれれば、この程度の演技など、簡単にできるようになる」

「ちくしょう……食えないやつ……」

「なんとでも言え。お前ごときが、私に薬を盛ろうなど、千年早い」



 冰悧のからかいの声が遠くで聞こえる。


『快意の時は、すべからく早く頭をめぐらすべし……』


 今日の昼休みに書き写していた金言集の一節が頭に浮かんだ。凛心はどろりと溶け始める視界に耐えきれず、茶器に頭をぶつけるようにして卓の上に突っ伏した。泥沼の中にずぶずぶと沈んでいくかのように、次第に意識が遠のいていく。


(その後はなんだっけ……)


 そんな変なことを考えていると、目の前が暗くなった。

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