第三章 受難の日々 ー5ー
「薬」と書かれた灯篭が下がる小さな堂の前に立った凛心は、挨拶をしながら木製の扉を開けた。ぷぅんと独特な薬草の匂いが鼻をつく。四丈四方のこぢんまりとした医務室の奥には、医薬の神である
「あら、いらっしゃい」
作業に
「あなたって確か──式典で思いっきり色々やらかした前代未聞の新入生よね?」
手を拭きながらこちらにやってきた葉玉が、凛心を見ておかしそうな顔をする。
「は、はぁ……碧凛心、と申します」
いつの間にか不名誉な形で有名になってしまったことに、凛心は気まずい思いを
「葉先生って、医務室の担当だったんですか」
「私は本来薬学の授業を担当しているの。でも、薬学の授業はあまり多くないから、医務室の先生も兼務してるのよ」
葉玉は凛心を誘うと、緑の
「怪我?」
「はい。先ほど弓術の試合で、相手の弓が右手に当たっちゃって」
「あら大変。でも、その割には意外と傷になってないわね」
葉玉はそう言って、凛心の右手を取ると
「はい、やじりがなかったんで血は出なかったんです。これってすぐに治りますか」
「そうね。一時的に
「あ、ありがとうございます」
写本作業に支障が出ないとわかって、凛心はホッと息をついた。葉玉は薬棚から、白い円形の入れ物を取ってくると、中に入っていた
「はい、これで傷の手当ては終わり。念のため脈も見ておくわね。ここに手を乗せて、ゆっくり呼吸を続けてくれる?」
凛心が布張の枕の上に手首を乗せると、葉玉はその上に人差し指と中指をおいた。そのまま、目を閉じて何かを感じとっているようだったが、不思議そうに首を
「青年期の男の子の脈にしては、なんだか変な感じね。あなた、女みたいに細いし、ちゃんと食べてるの?」
あまりの発言に、凛心は口から心臓が飛び出そうになった。
そういえば、王おじさんの書店で読んだ宮廷小説では、名医たちが脈を見るだけで、病気や妊娠はおろか、変装している人物の性別までずばりと言い当てる場面があった! そんなの小説の中だけだと思っていたのに、本当だったとは!
(まさか、ちょっと脈を触っただけで、女ってバレてたりしないよな……)
見る見るうちに鼓動が速くなり、額に脂汗が
「具合悪そうね。ちょっと服を脱いで横になってごらんなさい。診察してあげるから」
「い、いいですっ!」
触診しようとする葉玉の手から逃れるように、凛心は襟元をおさえながら診察台を滑り降りた。
「どうして? すぐ終わるわよ」
「お、おれ、なんともありませんから!」
「本当に? 脈もおかしいし、顔色も変よ?」
葉玉が気遣うように肩に手をかける。
凛心は慌ててその手を振り払った。胃がそり返り、
「そ、それ、もともとなんです!」
「え?」
「お、おれ、そもそも気の巡りがおかしいらしくて、昔から脈も常人とは違ってるって医者に言われ続けてるんで!」
凛心は、今まで本で読んだ知識を総動員させた。
「じ、じつは、おれが生まれる前に、おれの両親が、人間の生を
うるうる、と瞳をうるませながら悲劇の主人公を演じる凛心の猿芝居に
「まぁ、それは辛いわね。そうだわ、気の巡りを良くするいい薬があるから、ちょっと倉庫に取りに行ってくるわね。待っててくれる?」
葉玉は、何かを思いついたようにたちあがると、腰に下げていた鍵を取り上げた。
「すぐに戻ってくるからね。勝手に部屋のものをいじっちゃだめよ」
戸口を出ながら、葉玉が念を押すようにこちらに指を突きつける。
そして、カタンと扉が閉まった。
「ふーっ……危なかったぁ……」
凛心はその足音が聞こえなくなるのをじっと待って、診察台の上に大の字に寝っ転がった。
「バレたら稼ぎ口を失う上に、投獄だしさぁ……まだ秘密を暴かれるわけにいかないんだよ〜……」
凛心は、先日庭で行水をしている
(やれやれ……)
気を紛らわすように、凛心は先ほど葉玉が麻布をかけた長卓に近寄った。
(さっき隠すようなそぶりを見せたけど、何をやってたんだろ……)
「ダメ」と言われればやりたくなってしまう、
(妖獣を使った、生薬の研究か……)
凛心は麻布を元に戻し、今度は壁に備え付けられた薬棚にそろそろっと近寄った。年季の入った黒光りする木製の棚には、赤い油紙で封がされた白磁の小瓶が、ところせましと並んでいる。おそらく、効用ごとに分量を調整された調合薬だろう。
(ええっと、頭痛薬、下剤、麻酔薬……結構なんでもあるんだなぁ……)
カチャカチャと音を立てて小瓶を一つ一つ確かめながら、凛心は宝物を探すような面白さに頬を緩めた。
(ん? これは──?)
手のひらほどの小瓶に書かれた文字を見て、凛心は手を止める。表面に貼られた赤い紙には、丁寧な字で「睡眠薬」と書かれてある。
(そうだ……これを使えば……)
凛心の脳内に
趙冰悧を出し抜き、明日の締め切りまでに写本を完成させるための最高の計画が。
(待ってろよ、趙冰悧──)
凛心は懐に睡眠薬の小瓶を突っ込むと、ニヤリとほくそ笑んだ。
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