第三章 受難の日々 ー5ー

「薬」と書かれた灯篭が下がる小さな堂の前に立った凛心は、挨拶をしながら木製の扉を開けた。ぷぅんと独特な薬草の匂いが鼻をつく。四丈四方のこぢんまりとした医務室の奥には、医薬の神であるえんていしんのうまつった祭壇が置かれ、左側には診察のための椅子と診察台が一つずつある。部屋の右側には薬を保管しておくためのたんや棚が備え付けられ、その前にげんてんびんなどが載った黒い長卓が置かれていた。


「あら、いらっしゃい」


 作業にいそしんでいた三十代後半らしき姿の女性教員が、部屋の右奥からこちらを振り向いた。入学式典で議事進行をしていたようぎょく先生だ。なにやら分厚い書物を読んでいた葉玉は、凛心の姿を見ると、机の上のものを隠すように麻布をかけた。


「あなたって確か──式典で思いっきり色々やらかした前代未聞の新入生よね?」


 手を拭きながらこちらにやってきた葉玉が、凛心を見ておかしそうな顔をする。


「は、はぁ……碧凛心、と申します」


 いつの間にか不名誉な形で有名になってしまったことに、凛心は気まずい思いをみ締めながら礼をした。


「葉先生って、医務室の担当だったんですか」

「私は本来薬学の授業を担当しているの。でも、薬学の授業はあまり多くないから、医務室の先生も兼務してるのよ」


 葉玉は凛心を誘うと、緑のしきが敷かれた診察台に腰掛けさせた。


「怪我?」

「はい。先ほど弓術の試合で、相手の弓が右手に当たっちゃって」

「あら大変。でも、その割には意外と傷になってないわね」


 葉玉はそう言って、凛心の右手を取るとけんや筋肉の様子を見るように左右に動かした。


「はい、やじりがなかったんで血は出なかったんです。これってすぐに治りますか」

「そうね。一時的にしているようだけど、数刻もてば動かせるようになるわ。一応、薬を塗っておくわね」

「あ、ありがとうございます」


 写本作業に支障が出ないとわかって、凛心はホッと息をついた。葉玉は薬棚から、白い円形の入れ物を取ってくると、中に入っていたなんこうを凛心の手のひらに塗り広げた。そして、慣れた手つきで包帯を巻く。


「はい、これで傷の手当ては終わり。念のため脈も見ておくわね。ここに手を乗せて、ゆっくり呼吸を続けてくれる?」


 凛心が布張の枕の上に手首を乗せると、葉玉はその上に人差し指と中指をおいた。そのまま、目を閉じて何かを感じとっているようだったが、不思議そうに首をかしげると目を開いた。


「青年期の男の子の脈にしては、なんだか変な感じね。あなた、女みたいに細いし、ちゃんと食べてるの?」


 あまりの発言に、凛心は口から心臓が飛び出そうになった。

 そういえば、王おじさんの書店で読んだ宮廷小説では、名医たちが脈を見るだけで、病気や妊娠はおろか、変装している人物の性別までずばりと言い当てる場面があった! そんなの小説の中だけだと思っていたのに、本当だったとは!


(まさか、ちょっと脈を触っただけで、女ってバレてたりしないよな……)


 見る見るうちに鼓動が速くなり、額に脂汗がにじんでいく。脈に不安が反映されたのか、まだ凛心の手首に指を乗せていた葉玉が、心配そうにその顔をのぞき込んだ。


「具合悪そうね。ちょっと服を脱いで横になってごらんなさい。診察してあげるから」

「い、いいですっ!」


 触診しようとする葉玉の手から逃れるように、凛心は襟元をおさえながら診察台を滑り降りた。


「どうして? すぐ終わるわよ」

「お、おれ、なんともありませんから!」

「本当に? 脈もおかしいし、顔色も変よ?」


 葉玉が気遣うように肩に手をかける。

 凛心は慌ててその手を振り払った。胃がそり返り、ひるに食べたマントウが、喉元にせり上がってくるような気がした。


「そ、それ、もともとなんです!」

「え?」

「お、おれ、そもそも気の巡りがおかしいらしくて、昔から脈も常人とは違ってるって医者に言われ続けてるんで!」


 凛心は、今まで本で読んだ知識を総動員させた。


「じ、じつは、おれが生まれる前に、おれの両親が、人間の生をつかさどなんせいくんびょうにお参りに行ったんです! そこで、父が男の子が欲しいと願い、母が女の子が欲しいなんて、ちぐはぐな願いをしたもんだから、男なのに女みたいな容姿に生まれついちゃって! 天の迷いが反映されてか、小さい頃からひどい虚弱体質で、もう大変なんですよ」


 うるうる、と瞳をうるませながら悲劇の主人公を演じる凛心の猿芝居にだまされたのか、葉玉が同情したような表情を浮かべた。


「まぁ、それは辛いわね。そうだわ、気の巡りを良くするいい薬があるから、ちょっと倉庫に取りに行ってくるわね。待っててくれる?」


 葉玉は、何かを思いついたようにたちあがると、腰に下げていた鍵を取り上げた。


「すぐに戻ってくるからね。勝手に部屋のものをいじっちゃだめよ」


 戸口を出ながら、葉玉が念を押すようにこちらに指を突きつける。

 そして、カタンと扉が閉まった。


「ふーっ……危なかったぁ……」


 凛心はその足音が聞こえなくなるのをじっと待って、診察台の上に大の字に寝っ転がった。


「バレたら稼ぎ口を失う上に、投獄だしさぁ……まだ秘密を暴かれるわけにいかないんだよ〜……」


 凛心は、先日庭で行水をしている同学トンシュエたちにつかまって、危うく服を剥ぎ取られそうになった時のことを思い起こしてぞっとした。部屋で体を拭くための湯をもらいに大浴場の横を通った時は、たらいを片手に上半身裸で歩き回る上級生たちに一緒に風呂に入ろうと絡まれたし、どうしてこうツイていないのだろう。どちらも、たまたま趙冰悧が近くを通りかかったおかげでなんとかなったが、女とバレれば即刻学院を追放される上、懲役刑に問われる可能性だってあるのだ。三日とおかずこんな調子じゃ、いつまで自分の精神が持つかわからない。


(やれやれ……)


 気を紛らわすように、凛心は先ほど葉玉が麻布をかけた長卓に近寄った。


(さっき隠すようなそぶりを見せたけど、何をやってたんだろ……)


「ダメ」と言われればやりたくなってしまう、あまのじゃな自分の好奇心に促されて麻布をめくると、ぷん、と防腐薬のような匂いがして、白い陶磁のわんに入れられた妖獣の肝のようなものが見えた。袖で口をおさえながら先ほど葉玉が読んでいた本のページを繰ると、様々な妖獣の解剖図と共に、それぞれの部位がもつ効能が余白にびっしりと書き込まれていた。


(妖獣を使った、生薬の研究か……)


 凛心は麻布を元に戻し、今度は壁に備え付けられた薬棚にそろそろっと近寄った。年季の入った黒光りする木製の棚には、赤い油紙で封がされた白磁の小瓶が、ところせましと並んでいる。おそらく、効用ごとに分量を調整された調合薬だろう。


(ええっと、頭痛薬、下剤、麻酔薬……結構なんでもあるんだなぁ……)


 カチャカチャと音を立てて小瓶を一つ一つ確かめながら、凛心は宝物を探すような面白さに頬を緩めた。


(ん? これは──?)


 手のひらほどの小瓶に書かれた文字を見て、凛心は手を止める。表面に貼られた赤い紙には、丁寧な字で「睡眠薬」と書かれてある。


(そうだ……これを使えば……)


 凛心の脳内にかんけいが浮かぶ。

 趙冰悧を出し抜き、明日の締め切りまでに写本を完成させるための最高の計画が。


(待ってろよ、趙冰悧──)


 凛心は懐に睡眠薬の小瓶を突っ込むと、ニヤリとほくそ笑んだ。

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