第三章 受難の日々 ー2ー

(ええーっと、《おんには、由来害を生ず。故に快意の時は、すべからく早く頭をめぐらすべし。敗後には、あるいは反りて功を成す。故に払心のところは、たやすくは手を放すことなかれ》※[思い通りにことが進んでいる時ほど、思わぬ害が起きるから気をつけなさい。失敗した後には、返って良いことが起こることがあるから、容易たやすく投げ出してはいけない、という意味]……と)


 生徒たちでごった返す昼時の生徒食堂でマントウかじりながら、凛心はせまりくる締め切りに焦りつつ、必死に筆を動かしていた。明日納品予定の『初学経典金言集』は最後の一冊がまだ完成しておらず、ぴらぴらっと頁を確認してみても、まだあと四半分は残っている。


「あーもう! 終わんない!」


 凛心が頭をかきむしった時、横からひょこっとオコジョのような顔が現れた。


へき学子シュエズ、何を独りでもだえてるんですか?」


 実技用の白い運動服に水色の帯を締め、腰にしょうしゃだいだいいろの飾りひもをつけた優毅が、不思議そうな顔をして立っている。


「そろそろ、着替えに行かないと、午後の授業始まっちゃいますよ?」

「え? もうそんな時間?」


 一時辰ある昼休みがあっという間にすぎてしまったことに気づいて、凛心は立ち上がった。


「着替えが終わったら一緒にいきましょう! この次の授業はちょっとした伝統行事らしくて、午後一番の授業が休講になった寮監生の方々も、見学に来られるそうですから」


 よっぽど自分の組の寮監生が好きなのか、優毅は嬉しそうにそう言うと、鼻歌交じりに凛心の筆記用具を片付け始めた。


「あっ!」


 優毅が携帯用のすずりをひっくり返し、卓のそばを歩いていた生徒の運動服の帯に墨がかかった。その生徒の顔を見て、優毅の顔色がみるみる青くなる。


「──おいおい、服が汚れただろう。どうしてくれるんだ」


 尊大な声が聞こえた。優毅の前に、からすのように真っ黒な髪をした青白い顔の生徒が立っている。長い前髪の間からのぞく濃紫の瞳はぞっとするような暗さをたたえていて、両耳には大きな紫のほうぎょくがついたの形のみみが妖しく揺れている。

 二人の様子を見て、周りの生徒たちが声をひそめてうわさばなしを始めた。


「おい、こう優毅のやつ、よりによって玄武組のそうえいとくに墨をかけるなんてついてないな」

「曹英徳っていやぁ、五大しゅうである曹家の人間だろ」

「ああ、『英いでて徳がある』とは名ばかりで、他の術家の子息をいじめて喜んでいるようなやつだよ。俺も何度嫌がらせをされたかわからない。ここは、見て見ぬふりで過ごした方がいいぞ」


 生徒たちは恐ろしげにそう言うと、自分たちの食事の盆を持ってそそくさと離れた席へ移動してしまった。


「そ、曹学子、ごめんなさい!」


 よりによって生徒たちの誰からも恐れられる、悪名高い暴君に粗相をしてしまった優毅は、真っ青になって平謝りした。


「──洪優毅。やってくれるじゃないか。五大術家に生まれながら、ろくに妖獣一匹扱えない『洪家の出来損ない』の癖に、この俺の服を汚すとはいい度胸だな」


 英徳は優毅に詰め寄った。


「ちょうどそこに池がある。一番深いところに落としてやるから、れいになるまで俺の帯を洗ってきたらどうだ」


 英徳は、食堂横に広がる丸池を顎でしゃくりながら、優毅の襟元をつかんだ。後ろに控えた玄武組の取り巻きたちが愉快げに笑い声を上げる。英徳よりも三寸は小さい優毅は、蛇に睨まれた蛙のように、ブルブルと体を震わせた。


「やめろよ」


 凛心が割って入った。


「いくらお前の帯とはいえ、その運動服は学校から支給されたものだろ。汚れたなら、先生に言えば、すぐに替えがもらえるはずだ。いちいち突っかかるな」


 英徳がちらりと凛心に目を向ける。そして、新たな獲物が見つかったかのように、うれしそうに口角をゆがませた。


「へえ。これは、これは。状元合格の碧凛心様じゃないか。名家の出でもないのに、入学式では派手にやらかしていたなぁ。あの忌々しい趙家をかばうつもりはまったくないが、五大術家に敬意を払わないお前の態度は、少し改める必要があるようだ」


 英徳の瞳が意地悪く光る。凛心はとげのある言葉にムッとしたが、黙って卓の上の写本と筆記用具を片付けると、古着を繕い直して作った緑の肩掛けかばんの中にしまった。


「ありがたいお話をしてくれようとしてるとこ悪いけど、おれ、もういくよ。次の授業に遅れたくないからさ」


 自家の財力や地位を自分の力と勘違いして、目下のものを意のままに従わせようとする金持ちの傲慢さには、連日の冰悧の「指導」と称したいびりを通して食傷気味になっていたところだ。それに、これから授業開始時間までに、少し離れた白虎寮の自分の部屋まで戻って着替えも済ませなければならない。こんなやつに付き合ってる暇なんてない。

 さっさと話を切り上げて通り過ぎようとした凛心の前に、英徳が立ちはだかる。


「まだ話の途中だ。勝手に通り過ぎるなど、許さないぞ」


 自分を畏怖するどころか、気にかける様子すらない凛心にいらった様子で英徳が言った。

 凛心は鞄を肩に掛け直すと、英徳の体を押しのけた。


「お前と違って、おれは忙しいんだよ。次は弓術の授業だろ。そんなにおれと話したいなら、弓術で勝ってからにしてくれ」

「ふん……言ったな……」


 長い前髪の下の紫色の瞳が怪しく光った。




====


【引用】※《恩裡には〜なかれ》まで

・段文凝(著)『「菜根譚」が教えてくれた 一度きりの人生をまっとうするコツ100』マガジンハウス(二〇一五年)より引用

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