第三章 受難の日々 ー1(2)ー

「ちょ……趙先輩……」

「これは没収する」

「ええっ! そ、そんな!」

「明日の朝になったら返してやる。就寝時間だ」


 冰悧はそう言うと、また音もなく部屋を出ていった。


「あの野郎……」


 凛心はふつふつと湧き上がる悔しさに筆を握りしめた。再び入り口に戻り、そっと戸を開けて、冰悧が部屋に戻ったことを確認する。


「よーし……こうなったら……」


 凛心は文机を持ち上げ、寝台の上に置くと、頭から布団をかぶった。そして、布団に当たらない様に気をつけながら、灯火符と呼ばれる発火用の呪符を使って燭台に火をつけた。真っ暗な中に、ぽうっとろうそくの光がともる。


(これなら絶対分からないだろ!)


 凛心は布団の裾から光が漏れないように気をつけながら、作業を再開した。数頁進んだところでそっと布団を持ち上げ、燭台の光で部屋の中を覗いてみるが、さすがの冰悧も気づいていないようだった。……そう思った。


「火事でも起こすつもりか」


 低い声と共に、ばっと布団を剥ぎ取られる。


「うわっ!!」


 慌てた凛心が燭台を落としそうになり、それを冰悧が受け止める。


「なんでわかったんだ!?」


「お前の愚問に答える必要はない。文机を戻しなさい」


 各部屋には火事防止のために火禁の呪符が貼られており、どんなに小さな火だろうとりょうかんせいには筒抜けになっていることを知らない凛心は、冰悧は犬のように嗅覚でも鋭いのだろうかといぶかりながら渋々文机を戻した。


「仏の顔も三度までだ。そこに座りなさい」


 冰悧が床をさして厳しい声で言った。


(いいかげんにしてくれよ……ただでさえ時間がないのに……)


 凛心は小声で文句を言いながら、うんざりしたように制服の裾を持ち上げて、床にした。


「お前は、実にどうしようもないやつだな」


 冰悧は腕組みをして彼女の前に立つと、切り出した。


「そもそも規則が存在するのは、本来悪である人間が互いに協調して生きるためだ。経典にも書かれているように、人には生まれながらにして欲望があり、それを際限なく追求すれば、他者と争いが起きる。争えばすなわち国乱れ、乱るれば即ち困窮す。それを律するために礼があり、礼を守れぬもののために法がある。本来であれば、礼を守りて君子(理想的人格者の称)となるのが、この学院の生徒たるものの務めだろう。それなのに、この学院の規則すら遵守できないとは、嘆かわしいにもほどがある」


 冰悧はそう言って、凛心の棚の上ですでにほこりを被り始めていた「そうてんだんがくいん学則集」と書かれた分厚い冊子を手にとると、顔の前に差し出した。


「罰として一条一礼の刑を命ずる。今日は五十条までで勘弁してやろう。速やかに始めなさい」

「一条一礼?」


 ぽかんと口を開けた凛心に、冰悧がまるでしつけがなっていないとでも言いたげに冷ややかな目を向けた。


「学則の一条を読み上げた後、学則集を掲げ持ち、学院の中心にある聖人たちの像の方に向かって一礼する、というものだ」

「何そのめんどくさそうな……」

「百条にしたいか」

「……始めさせていただきます」


 このビンクァイリャンめ、いつかバオビン(カキ氷)にしてやる、と凛心は心の中で呪いながら、渋々学則集を受け取って礼を始めた。


「一、本学に在籍する生徒は、皆学徒である誇りを胸に学院の品位にあった言動を心がけること」


 気乗りのしない声で学則集の一条目を読み、そのままひざまずいて、床にぬかずく。


「礼の仕方がなっていない。もう一度」


 そばに立つ冰悧が冷たくたしなめる。凛心はぐるりと目玉を回した。そして、もう一度、第一条を読み上げ、膝をついて、頭を下げる。



「心がこもっていない」

「精一杯こめてますよ、先輩に伝わらないだけで」

「誠意が伝わらなければ、意味がない」

「先輩の心が狭すぎるだけじゃないんですか」

「……あと二十条追加」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! わかりました、真面目にやればいいんでしょう! 真面目にやれば!」



 凛心は、今にも何百条と罰を課してきそうな冰悧の嫌味ったらしいほど整った顔をにらみつけた。


「一! 本学に在籍する生徒は、皆学徒である誇りを胸に、学院の品位にあった言動を、心がけること!」


 殴りかかりたくなる気持ちを抑えながら第一条を読み上げ、仰々しいほどゆっくりと礼をした。冰悧が承認するかのように、軽くうなずく。


 そんな風にして何度もやり直しをらいつつ、ようやく三十条を超えたあたりから、凛心の気力と体力が限界を迎え始めた。新生活の緊張と疲れが、しびれ始めた腕や膝を伝って、波のように全身に行き渡っていく。


(ああ、もう、眠い……)


 凛心の目の前がグラグラと揺らぎ出す。そして、何十回目かのお辞儀をするためにぬかずいた時、疲労と睡魔がついに理性に勝って、凛心は床に顔をつけたまま意識を失った。




 次の日の朝、窓から聞こえる起床の鐘の音で目を覚ますと、凛心は自室の寝台の上で、きちんと布団を被っていた。


 昨日の記憶は最後の方があやふやだったが、幸い自分の帰巣本能は蜚蠊ごきぶり並みで、なんとか自力で床に入ったおかげで風邪をひかずにすんだ、と凛心は嬉しそうに鼻をいた。そして、今日はどんな手を使って冰悧を出し抜いて、消灯後に写本作業を続けてやろうかと腕組みをして考え込んだ。


 そうして、凛心があらゆる手を駆使して消灯後に作業を続けようとし、それを冰悧が不思議な嗅覚で察知して阻止し、最後は冰悧の指導中に気を失って翌朝寝台で目を覚ます、という日々が二週間ほど続いた。奇妙なことに、そのうちの何日かは不思議な夢を見た。誰かに抱きかかえられ、温かい腕に支えられて寝台に運ばれる夢だ。その感覚は、幼い頃、勉強中に眠りに落ちた凛心を運んでくれた、あの優しい父の腕をほう彿ふつとさせた。なぜそんな夢を見たのかよく分からなかったが、半覚醒状態で寝台に戻ろうとした際に、無意識に父のことを思い出していたんだろうと勝手に結論づけた。


(父上……会いたいなぁ……)


 おうおじさんに頼まれた五冊の写本の納品期限は、いつしか明日に迫っていた。

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