第三章 受難の日々 ー1(1)ー

 波乱の入学式から三日がち、寮への荷物の運び込みや施設の紹介なども無事に済んで、昨日から授業が開始された。最初のうちは、りんしんを遠巻きに見ていた同級生たちも、ゆうの助けもあってか次第に打ち解け、凛心の新生活は好調な滑り出しを見せていた。


「あー! 疲れた!」


 一日を終えて部屋に戻ってきた凛心は、ばたりと寝台に倒れこんだ。四角柱の枕に顔をうずめて、使いすぎて涙がしみる目を休める。


「たかが学校なのに、なんでこんなに忙しいんだよ……」


 凛心は大きな声で悪態をついた。今日は授業二日目だが、この学院のスケジュールの過密さは、彼女の予想をはるかに超えていた。


 凛心は、ごろりと寝返りをうって、寝台の上に仰向けになると、ここ二日間の自分の生活を振り返った。


 朝は起床の鐘の音と共に、の正刻(午前六時)に床を出る。そして、身支度と朝食を済ませたのち、たつの正刻(午前八時)からうまの刻(十一時)まで授業を受ける。その後、一時辰(約二時間)の休憩を挟んで、ひつじの刻(午後一時)からさるせいしゅう刻(午後四時から五時)まで授業。そして、ようやく休憩や入浴や食事の時間となる。それで休めればまだいいのだが、毎日大量の功課しゅくだいが課される上、新入生はいぬの初刻から正刻(午後七時から午後八時)までは、勤勉堂と呼ばれる学習室で共同しゅうをしなければならない。しかも、その間は寮監生が交代で監督につくため、おちおち写本作業や居眠りをすることも不可能だ。そしての刻(午後九時)には、全員部屋に戻って消灯となるため、ほぼ一日中時間に追われていることになる。


 凛心はぴったりと合わせられた制服の襟元を、指で引っ張ってくつろげた。山の中で時間を気にせずに育ってきた凛心には、鐘の音にせき立てられるように動き回るこの学院の生活は、あまりにも窮屈に思えた。


「ちょっと夜風にでもあたるか」


 凛心は気持ちを切り替えるために、寝台から起き上がって、廊下に出た。木製の欄干越しに、石灯籠が立ち並び、松や梅や桃が植えられた中庭が目に入る。


 中庭を挟んでコの字型に作られた白虎寮の建物は、正面向かって左側が一年寮、右側が二年寮、そして中央の少し大きめの棟が三年寮となっている。それぞれの棟は六部屋ずつの二階建てで、三年寮や二年寮とは庭に面した屋根付きの廊下でつながっているから、一階でも二階でも他学年の寮と自由に行き来ができる。寮は一人部屋のため、部屋の中にいる限りは着替えやもくよくも人の目はない。凛心の部屋は二階にあるから、外からのぞかれる心配もなかった。ただ唯一不満なのは、凛心の部屋を四つ左にさかのぼった、三年寮の二階中央の部屋が寮監生室になっていることだった。そのせいで、あの世界一忌々しい「ビンクァイリャン」、つまり「氷のような無表情顔」と、毎朝毎晩顔を合わせる羽目になっていた。


 冷たい夜風に頭が冴えてきて、凛心は部屋の中に戻った。飾り棚に置いた、父と母のはいに手を合わせ、人目につかないように布をかける。


 痛む肩をこぶしで軽くたたきながら、窓の前に置かれたづくえの上に写本の作業道具を並べる。墨をすり、細筆が三本ほど下がる木製の筆掛けから筆を一本取って、その先を墨汁に浸した。


(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや……)


 学問を志すものなら誰でも最初に学ぶ、経典の有名な一文を書き写しながら、凛心は次第に作業に没頭していった。やがて寮の外から、消灯時間を告げる鐘の音が響き渡る。


(もう消灯時間か……まぁ、半時辰くらいなら、守らなくても許されるだろ)


 亥の刻(夜九時)に設定された消灯時間を鬱陶しく思いながら、凛心は筆を動かし続けた。少し経って、入り口の格子戸が小さく開き、二年寮の端の部屋で就寝しているはずのえんらんが顔を出す。


「おい、凛心。もう消灯時間だぞ。さっさと明かりを消せ」


 その顔はなぜか切羽詰まっていた。


「なんだよ、まだ一刻も経ってないだろ」

「何言ってるんだ、消灯時間後にそんなに堂々と明かりをつけている馬鹿がいるか。ちょう先輩に見つかったら……」

「見つかったらなんだ」


 焔嵐の言葉を遮るように、後ろからゾクリとするような声が響いた。焔嵐が振り返ると、少し目線が上がったところに、ひょうの端正な顔があった。


焔嵐、消灯後に何をしている」


 腕組みをしながら、冰悧が焔嵐に問いかける。焔嵐は困ったように眉を寄せた。


「わ、私はただ……師弟のことが気になって様子を見にきただけで……」

い心がけだな。私もなぜこの部屋から消灯時間後に明かりが漏れているのか気になっていた」


 冷ややかな目線を投げかける冰悧に、焔嵐が身振り手振りで凛心に明かりを消すように指示する。凛心は空気を読んでしょくだいの小さな火だけを残し、部屋に二つある行燈あんどんの明かりを消した。不意に部屋が暗闇に包まれる。


「よろしい。二人とも早く休むように」


 静かに言い置くと、冰悧は部屋を後にした。焔嵐も「もう二度とするなよ!」と何度も念を押して部屋を去っていった。凛心は入り口の戸に耳を当て、遠ざかる足音にじっと聞き入った。カタンと音がして、戸が閉まる音が遠くで聞こえる。凛心はうれしそうにほほむと、部屋に備え付けのびょうで文机を囲み、光が漏れないように注意しながら、小ぶりの行燈に火をつけて写本作業を再開した。


「へへっ、ちょろいもんだな」


 三ページほど筆を進めたが誰も来ない。凛心がほくそ笑んだ時、長い指が小ぶりの行燈をヒョイと持ち上げた。


「へっ?」


 驚いて見上げると、銀色の髪が目に入った。行燈の柔らかな光がちらちらと映り、妖異あやしのもののような冰悧の妖艶な顔が、こちらを睨みつけている。



「私を簡単に出し抜けると思ったか」

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