第二章 最悪の出会い ー1(2)ー

「なんなんだよ、あいつ! 偉そうに!」


 入学式典会場に向かって、建物や塀や回廊で区切られた校内を歩きながら、凛心は怒りに任せて近くの木を思いっきり蹴った。幹が揺れ、その上で休んでいた鳥たちがいっせいに飛び立った。


「お前……よりによって趙寮監生に見つかるなんて、運が悪すぎるぞ」


 凛心の少し後ろを歩く焔嵐が、額に手を当てながら、うんざりしたような声をあげる。


「お前は知らないだろうけどな、あの人は趙冰悧先輩と言って、北方を統治する五大しゅう、趙家の次男だ。俺より一つ上、お前より二歳年上の最上級生で、俺が所属する白虎組の寮監生だよ」


 焔嵐はそう言って、先ほどまで自分たちがいた白虎組の建物の方をちらりと見やった。


「さっき寮の掲示板に貼ってあった部屋割り表を見たけど、お前も俺や先輩と同じ白虎組だぞ。寮監生は、自分の組の生徒の素行を監督し、懲罰の判断もできる権限を持ってるんだ。人一倍規則に厳しいとうわさされる趙先輩に、お前が女だってバレてみろ、どんな事態になるかわからないぞ! だいたい、ぶんパイを偽造することは、懲役刑に値する重罪なんだからな!」


 周囲に人のいないのをいいことに、脅すような口調で忠言を垂れる焔嵐の言葉を、凛心はあきれたように聞き流した。


ランにいは、あんな極楽鳥みたいにしっちんまんぽうをふりかざしてるやつなんか怖がってんの? 五大術家だかなんだか知らないけどさ、所詮、甘やかされた金持ちのボンボンだろ?」


 冰悧の法剣につけられたしゅほうの数々を頭に浮かべながら、凛心は不快感に顔を歪ませた。喉元に剣を突きつけながら自分を見下ろした冰悧の威圧的な目つきに、きんから感じた金持ちの傲慢さがだぶる。


「そりゃ、官能小説を持ち込んだのは、おれが悪いよ。でも、だからと言って初対面の人間の持ち物をいきなり破壊するなんて、まともな人間がやることじゃないだろ? 今日は入学式だっていうのに、なんであんなにピリピリしてるんだよ。法剣まで持ち出して、いくさでも始めそうな殺気だったぞ」


 体が凍りつきそうなほど強烈な恐怖がよみがえって、凛心はさらに声を荒げた。

 焔嵐は、凛心の言葉に、なにかを思いついたように表情を変えた。


「なんだよ、嵐兄。意味深な顔して」

「いや、お前の言うことも一理あると思ってな」

「どういうこと?」

「北方五大術家の趙家ってのは、しゅうもん千家の中でも屈指の権力と財力を誇る術家だけどさ、その一方、ひときわ不幸で戦火の絶えない家なんだ」


 五大術家である李家の長男の焔嵐は、同類の人間をおもんぱかるような表情を浮かべた。


「さっき、銀やほうぎょくがふんだんに使われた先輩の法剣を見ただろ? 趙家の城がある煌北には、金銀宝玉がたくさん取れる鉱山があるんだけどさ、その権益を巡って、趙家は周辺術家と激しく対立しているんだ。それに、煌北の大山脈の向こうには、じゅんに支配の手を伸ばそうと目論もくろむ、好戦的な妖族の『貂綾ダオリン』がいる。過去にも数えきれないほどの戦が起こって、大勢のしゅうが犠牲になったんだ。先日、父上から文が届いたけど、また煌北で貂綾との戦が始まったみたいだぞ。家の状況を考えれば、趙先輩がいらっているのも仕方ないだろう」


 理解してやれよ、と言いながら、焔嵐はぽんと凛心の頭に手をおいた。凛心は不服気な表情のまま、煮え切らない思いを覚えた。


「でもさぁ。だからといって、だれかれ構わず剣を突きつけたり、威張り散らすなんておかしいだろ。自家のごたごたの鬱憤を、おれにぶつけないでほしいよ」


 ああ、腹がたつ、と凛心は唇をみ締めた。


「痛っ……」


 先ほどの傷に歯があたり、凛心は鈍痛に顔をしかめた。指で唇を触ってみれば、幸い血は止まったものの、切れた部分が腫れてジクジクと熱を持ち始めている。これではしばらく茶も飲めそうにない。なにより──。

 凛心は苛立ちを募らせて、小さく舌打ちをした。


(純粋なる事故だとはいえ、いつか出会う運命の人のために十六年間大切にとっておいた初吻初キスを、あんな形で、しかもあんな嫌味な奴に奪われるなんて──)


 凛心はぎりっと奥歯を噛み締めた。


 別に、おうおじさんの書店で隠れるようにして読んだ恋愛小説の女主角ヒロインのように、浪漫的ロマンチックな初吻が似合うような人間キャラじゃないのはわかってる。でも、初吻はもっと胸がときめくような、特別なものであって欲しかった。唇が触れあった瞬間、甘美な衝撃に現世の全てを忘れてしまうような、そんな体験を夢見ていたのだ。少なくとも、行為の後に睨まれたり、侮辱されたり、剣を突きつけられるなんて結果になるべきじゃあない!


 ああ、と凛心は暗い気持ちになった。


(こんな仕打ちを受けるなんて、おれは前世でどんな悪業を重ねたっていうんだよ……)


 唇に手を当てたまま、己の不運を呪い始めた凛心を焔嵐が不思議そうにのぞき込む。そして、口元の傷に気づいて、あれ、と声を上げた。


「おい、凛心。その傷どうしたんだ?」


 心なしか焔嵐の声が上ずっているように聞こえる。


「そういえば、さっき趙先輩の口にも同じような傷があったけど、まさかお前たち……」


 そこまで言って、焔嵐は言いにくそうに口ごもった。凛心はそんな焔嵐の態度すら面倒くさく感じて、深いため息をついた。


「ああ、そうだよ、木から落ちた時、事故であいつの口におれの口があたっちゃったんだ」


 図らずも初吻喪失だよ……と言って切れた部分を指差す凛心の唇を、焔嵐は信じられないといった表情でじっと見つめた。

 そして、不意に悔しそうな顔をした。


「お前、これからはもっと気をつけろよ」


 怒ったような口調で、焔嵐が言った。


「ここは男子校だぞ。初日からこんなんじゃ、先が思いやられる」


 そして苛立ったように顔をしかめると、入学式典会場に向かって足早に歩いていってしまった。

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