第二章 最悪の出会い ー1(1)ー

「あだっ……あだっ……!」


 細い枝に顔を引っ掻かれながら、りんしんは下に落ちていく。豪快に花吹雪が舞い上がり、薄桃色にさえぎられた視界の中で、ちょうど真下に誰かがいるのが目に入った。その人物が、ふっと自分の方を見る。


「危ないっ……!!」


 警告の声が届く間もなく、凛心はその人の上に落ちた。口にガツンと硬いものがあたり、口腔こうてつさびの味が広がる。鈍い痛みに身じろぎをすると、唇が何か柔らかくて温かいものに触れているのが感じられた。手のひらで探った自分の体の下には、地面とはまた違った硬い感触がある。


(なんだこれ……?)


 チカチカする目を開けると、美しく透き通った薄青の瞳がすぐ目の前にあった。その瞳は衝撃で見開かれ、自分のことをまじまじと見ている。


(あれ? なんでこの人……こんな近くにいるんだ?)


 働かない頭でぼんやりと考えごとをしていると、大きな手が自分の体を押しのけた。唇に感じていた柔らかい感触が消え、口の中の鉄錆の味と、ほんの少しの名残惜しさが残った。

 その人物は、まいを振り払うように長い指でしばし目頭を押さえると、ゆっくりと立ち上がった。その体から、粉雪のようにハラハラと薄桃色の花弁が舞い落ちる。


(はぁ……)


 凛心は思わず我を忘れて、その人物に目を奪われた。

 均整の取れた長身を白と水色の制服に包み、銀色の髪の上半分を青玉の髪飾りで結い上げたその人物は、春の日差しの中にりんとしてたたずみ、あたかも氷の彫刻のように美しかった。筆で描いたような眉の下には、長い銀色の睫毛に縁取られた涼やかならんしょうの瞳が光り、高いりょうとすっきりとした輪郭には高貴な気品が漂う。腰には宝石で飾られた銀色の法剣がきらめき、寮監生であることを示す金の帯飾りがまぶしかった。

 凛心の胸が、とくん、と高鳴った。


「──やってくれたな」


 怒りを含んだ低い声が聞こえて、凛心はハッと我に返った。神仙のように美しいその人物は、血がにじむ自分の口元を親指でぬぐうと、端正な眉目をゆがませて凛心をにらみつけた。敵意を含んだその言葉に、凛心の背筋が冷たくなる。


(ま、まさか──!!)


 急いで自分の口元を触ってみれば、自身の唇も同じように歯があたったためか無惨に切れ、血が滲んでいる。


(う、嘘だろぉぉ〜〜〜っ!?)


 凛心は、初めて自分がしでかした事の重大さを認識し、頭が真っ白になった。

 なんと木から落ちた衝撃で、その人物を押し倒し、あろうことかその人の唇に、自分の唇を押し付けてしまったらしい──! しかし、そんな講談の滑稽話みたいなことが、現実に起こっていいはずがない!


「あ、あのっ!」


 凛心は慌てて居住まいを正すと、回らぬ舌で事のさいを弁明しようとした。

 その時、頭上に枝を伸ばす桃の木から、赤い表紙の本が姿を現した。それは、謎の寮監生の足元にポトリと落ちると、風にあおられてパラパラッと頁をはためかせた。


「!」


 その人物の顔が一層険しくなった。風に煽られて開いたのは、先程、えんらんが頬を赤く染めた、半裸の男女が抱き合う挿絵の頁だった。

 目の前の寮監生は禍々まがしいものでも見たかのように顔をしかめると、貴石で飾られた銀のさやからスラリと剣を抜き、その挿絵に突き刺した。法剣の激しい霊力に耐えきれず、赤い表紙の本はバラバラに砕け散ってしまう。


「だ、大事な商品が!」


 凛心は膝を擦って、地面に散らばった本の頁をかき集めようとした。しかし、じんに砕かれた紙片は、凛心の指を擦り抜け、学生寮の周りに植えられた庭木の奥へと消えていってしまう。


「あんた、いきなり何すんだよ!」


 怒りもあらわにその人物を睨もうと顔をあげた時、ヒヤリとした感覚を首筋に覚えて、凛心は身を硬くした。鋭く光る抜き身の法剣が、ピタリと自分の首に当てられている。


「あ……」


 凛心は思わず尻餅をつき、手を後ろについて後ずさった。謎の寮監生は、とがった剣の切先を凛心の喉笛にあてたまま、肉親のかたきでも見るような目でじりっと凛心に詰め寄った。


「これは、お前のものか」


 谷底の風のような低い声で、目の前の人物が質問した。氷のような霊気が、法剣から立ち昇ってくる。


「私の質問に、答えろ」

「そ、そうだよ」

「なぜこのようなものを持ち込んだ。この学院では、こうした書物は、禁止されていることを知らないのか」

「知るわけないだろ。誰が、この学院の規則なんか気にするかよ」

「ふん、この学院に遊びにきた類か。いい気なものだな」

「なんだと?」


 侮蔑を帯びた声色に、凛心の眉間が険しくなる。自分の切羽詰まった状況を知らないで、批判の言葉を浴びせてくる相手に、ふつふつと怒りが湧いてきた。


「あんただって、そんなキラキラした剣なんか引っさげて、本気で剣術の勉強ができるのかよ」

「この法剣は、こうほくの誇りだ。お前にとやかく言われる筋合いはない。そういうお前の武器は、その派手な筆と匕首あいくちか。情けないものだな」

「これは、父上にいただいた大切なものだ! 馬鹿にしたら、ただじゃおかないぞ!」

「私だって、お前のような世間知らずのほうとうものに侮辱されて、黙ってなどいない」


 凍えるような言葉と共に、剣のつばもとから真っ白な霜が舞い上がり、剣身を上って自分の顔の直前まで迫ってきた。感じたことのない恐怖に、凛心はごくりと唾を飲み込んだ。思わず後ずさろうと手を伸ばしたとき、指がカサリとした紙切れのようなものに触れた。


「ん……?」


 凛心が無意識に紙切れを握ると、目の前のりょうかんせいが血相を変えた。


「それを返せ!」


 命令的な口調と共に、その生徒が凛心の手から紙切れをひったくった。そして、大事そうにしわを伸ばして懐に入れると、剣を構え直し、凛心を睨みつけた。


「凛心! 大丈夫か!?」


 学生寮の陰から、焔嵐が走ってきた。彼は、抜き身の剣を凛心に突きつける長身の青年に目をめると、ぎょっとした顔をして凛心の隣にひざまずいた。


ちょうひょう寮監生! 私の師弟が粗相をしたようで……大変申し訳ございません!」


 両手を組んで前に突き出しながら頭を下げる焔嵐に、趙冰悧と呼ばれた生徒が、冷たい目線を向けた。


焔嵐……こいつは、お前の知り合いか?」


 冰悧の質問に、焔嵐は恐縮して再度頭を下げる。


「は、はい! 私塾の同門生として、二年間学業を共にした師弟です! 今年、縁あってこちらに入学することになりました。何があったかは分かりませんが、こいつは今日が学院初日です。学則を無視した行動を取ったとしても、勘弁してやっていただけないでしょうか」

「なるほど……新入生か」


 冰悧は、薄氷のような瞳をすいと細めると、剣先で凛心の顎を持ち上げた。


「本来であれば、学院で禁止されている物品を持ち込んだ罪でお前を罰するところだが、新入生ということで、今日のところは見逃してやる。入学式典が終わったら、この学院の学則集を隅から隅まで読んでおくことだな。私が寮監生である限り、この学院の風紀を乱すようなは許さない」


 威嚇するような目でぎろりと凛心を睨みつけると、冰悧は音をたてて剣を鞘に戻し、去って行った。

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