第一章 始まりの時 ー2(2)ー

「あの野郎!!」


 凛心は悔しさに任せて地面を殴りつけた。地面に大きな穴が空き、つちぼこりが上がる。そのふんじんが落ち着いても、凛心の感情はおさまらなかった。


(このまま何もせずにここにいたら、あの蝦蟇の思うツボだ……)


 千々に乱れる頭で、凛心は必死に思考を巡らす。


(ここを離れなきゃ……でもどこへ行けばいい?)


 凛心は、身を寄せる親戚もいない自分の身の上を呪った。

 父親であるりょうめいは、かつて絢にその名をとどろかせる名しゅうだったそうだが、過去に大罪を犯したせいで、術士の表舞台から完全に姿を消していた。自らの名も「しょくざんどうじん」と変えて本名は名乗らず、ここ忌業山に「しょくざんあん」という小さな庵を構えて、凛心と二人、俗世と隔絶した暮らしをしていた。


 過去に何があったのか、凛心が何度聞いても父は答えてくれなかった。しかし、その罪のために、凛心に誰のものでもない「碧」という姓を名乗らせ、男の格好をさせて、山奥からほとんど外に出させてくれなかった。


 従者もおらず、友人も来ず、一日二回の簡素な食事で空腹を慰めるような慎ましい生活を送るための費用は、凛心の写本の仕事で賄っていた。しかし、それも十分とは言えず、日増しにかさむ父の薬代も相まって、家計は悪化の一途を辿るばかりだった。

 凛心は、きつく唇を噛み締めた。


「キィッ……」と音をたてて、不意に門の縦木に打ち付けられた信書箱の扉が開いた。凛心たちの留守中に届いた文や書き置きを入れるために、ずいぶん昔に父が設置した箱だった。しかし、便りなど届くことなく、凛心自身ですらその存在を忘れかけるほどに、使われることがないものだった。風雨にさらされ、ボロボロになった信書箱は、孤独と貧困にあえぐ凛心の人生を象徴するようにみすぼらしかった。


(どうせいつものように空っぽだろ……)


 そう思って扉を閉めようとした凛心は、ふと違和感を覚えて中を覗き込んだ。

 板目もささくれだった信書箱の中に、鮮やかな空色のき紙で作られた縦長の封筒が入っている。


「なんだこれ……」


 取り出して確認すると、封筒には見慣れぬ丁寧な字で「碧凛心親啓さま」と宛名が書いてある。しかし、どこにも差出人の名前はない。凛心はいぶかしげに眉根を寄せると、思い切って封を開いた。かすかに霊力がはじけるような感覚がして、中から流麗な字が並ぶ、美しい書面が現れた。


「蒼天男士学院、入学試験案内状?」


 書かれた内容に目を通した凛心は、思わず天雷に打たれたような衝撃を受けた。


「ここ、嵐兄が去年入学した法術学校じゃないか!」


 思わず、父のたった一人の門下生であった李焔嵐の顔が浮かんだ。二年間、凛心の父のもとで薫陶を受けた焔嵐は、一年前に贖山庵を離れ、蒼天男士学院に入学していた。

 凛心は貪るようにその書面に目を通した。間近に迫った試験の日づけの隣には、学院の概要が書かれている。広く人材を集めるために学費は無料、受験資格も特に定められておらず、法術の心得がある十六歳の男子であれば、誰でも受験できるとのことだった。試験を受けるのに必要なのはたった二つで、筆記用具と、「ぶんパイ」と呼ばれる、身分を証明するための木札のみである。


「こんなもの……いったい誰が!?」


 弾かれるように周囲を見渡すが、もちろんのこと誰もいない。答えを求めるようにその書面を見つめているうちに、凛心の脳裏に無謀とも言える考えがよぎった。

 急いで家の中に戻ると、家の引き出しという引き出しを開けて、父の身分牌を探し出す。二寸四方の木製の牌には、名前や生年月日、性別などが書かれていて、裏には絢の国章である三連のたんが刻印されていた。


(これが……身分牌か……)


 凛心は、初めて見る身分牌を珍しげに眺めた。そもそも凛心には自分の身分牌がなく、使う機会すら一度もなかったからだ。

 何度も手の中で形や感触を確かめながら、全てを写しとるようにじっくりと観察する。そして、居間の机の上に牌を置くと、背筋を伸ばして座り、腰に下げていた金色の筆を取った。


「ふー……」


 目を閉じ、大きく息を吐いて、意識を集中させる。

 頭の中に思い描いた身分牌が手も触れられそうなほど鮮明に思い浮かんだ時、凛心は静かに目を開いた。

 流れるように、金色の筆で虚空を撫でる。


 筆から金色の絵の具があふれ出し、凛心の脳内をそのまま映し出したように、一つの絵が空中に描き出された。


 凛心はその絵をじっと見つめていたが、やがて筆を机におくと、「パンッ!」と大きく一つ手を打った。

 金色の絵が鮮やかに色づき、父の身分牌とそっくりの木製の札が、コトリと音を立てて机の上に落ちてきた。


「名前、碧凛心。じゅん四年四月九日生まれ、性別──男」


 凛心は、新しくできた自分の身分牌を拾い上げた。初めて手にした自分の存在のあかしに、思わず笑みがこぼれる。


 この黄金の筆は、父が自分に与えてくれた特別な法器で「ばんふで」と言い、凛心の思念を具現化する力を持つ。しかし、具現化には多くの霊力と集中力を必要とする上、凛心の力が持つ間しか形を保てないという欠点があり、うっかりすると凛心が寝ている間に消えてしまうこともあるため、金品を作り出すことは固く父に禁じられていた。


『この法器を、他人をだましたり、おとしめたりすることに使ってはいけない』


 それが、父が何度も凛心に教えた教訓だった。

 凛心は、新しくできた身分牌を父の牌に重ねると、懐に入れた。一度作り出すのに成功したものは、そのあと比較的容易に出し入れができる。これだけ本物に近いものができれば、試験会場で改められてもきっと気付かれることはないだろう。


 凛心は姿勢を正すと、ゆっくりといおりの中を見渡した。小さな居間、寝室、書斎で構成された簡素な小屋には、たまに季節の花々が飾られる以外、ほとんど装飾品と呼べるものはなかった。しかし、壁という壁はびっしりと書物で埋められていて、それが父の真面目で勤勉な性格をほう彿ふつとさせていた。かつては、心優しい父と一緒に笑いあって過ごした庵も、今は家主を失ってがらんとした寂しさに包まれている。


 凛心は熱くなる目頭を袖でゴシゴシと擦ると、身の回りのものを小さな竹のこうに入れ、家を出た。


 しきの四隅に石を重ねて小さな石塔を作り、袖から黄色の呪符を取り出す。

 そして、がりっと親指をんで血をしぼり出すと、呪符にサラサラと文字を書きつけて石塔に貼り付けた。

 人差し指と中指を伸ばし、他の指を折って印を結ぶと、小さく呪文を唱える。


「我が命により、この地を封印する。主が戻るまで、何人たりともこの結界を通ることはできない」


 その言葉が終わると共に、呪符からあかい光が立ち上り、庵を取り囲んだ。


(父上。ごめんなさい。言いつけを破って山を出ます。贖山庵は、必ず、おれが守りますから)


 凛心はもう一度、思い出の詰まった庵を見上げると、木枯らしが吹きすさぶ中を、天安の京に向かって歩いて行った。

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