第一章 始まりの時 ー2(1)ー
それは、寒さも厳しい二月のこと。
天安を囲む山岳の一つ「
「とうとう、一人ぼっちになっちゃったな……」
ゆらめく線香の煙を眺めながらそう言葉にすると、
長らく病床についていた父が、一週間前、この世を去った。凛心の母は、すでに自分が赤ん坊の頃に他界しており、凛心はその顔すら覚えていない。
「父上……」
ポツリとその名を口にすれば、引き裂くような痛みが胸に走って
突然、けたたましい馬のいななきが静寂を破り、凛心はびくりと体を震わせた。金の房飾りでけばけばしく飾り立てられた
「またお前か、
ぶっきらぼうな凛心の口調に、「蝦蟇」と呼ばれたその人物は、不愉快そうに脂ぎった顔を
「そのあだ名はいただけませんね、碧凛心。いみじくも天安一の豪商である
でっぷりと太った体を揺らしながら、芝居がかった甲高い声でなじる金嗣を、凛心は憎悪のこもった目で
「……何の用だ」
そう言いながら、凛心は腰に下げた白玉の匕首に手を伸ばした。金嗣が後ろに
「そんなに攻撃的な態度を取らなくてもいいじゃありませんか」
金嗣は持っていた
「私はただ、約束を守っていただきたいだけですよ」
金嗣はそう言って、
「以前から申し上げていますが、この山は私のものになったんです。ですから、一刻も早くここを退去していただきたいんですよ」
扇の奥から凛心を見下ろしながら、金嗣がうんざりとした声で言った。
「こんなみすぼらしい
そういうと、金嗣は垣根のそばに置いてあった作業棚を蹴り上げた。ガシャンと音がして、棚が壊れ、置いてあったザルやカゴが地面に散らばった。匕首を握る凛心の指に力がこもる。
「勝手なこと言うな! ここは、父上が私塾を開いていた大切な場所だ。山の権利がお前に移ったからといって、勝手に壊されてたまるか!」
反論する凛心に、金嗣は
「私塾と言っても、どうせ門弟などろくにいないのでしょう? 壊れた庵の修繕もできず、ちまちまと本の書き写しなんかで日銭を稼いでいるような貧乏人が、よくもまぁ偉そうなことを言えたものです」
「なんだと!?」
「あなたが好むと好まざるとにかかわらず、事実、あなたは私の土地を不当に占拠しているのです。それともなんですか? あなたにこの土地を買う潤沢な資金があるとでも?」
玉虫色に輝く孔雀扇で顔をゆっくりとあおぎながら、金嗣が近づいてくる。
凛心はグッと言葉に詰まった。
簡素な庵で父と二人、
「人の足元を見やがって……」
喉にこみあげる悔しさを何とか抑えながら、凛心は奥歯を噛み締めた。
金嗣はそんな凛心の隣に立ち、満足げにその様子を観察すると、扇から
「ですから、私は代替案を提案して差し上げているではありませんか……。この庵にある、父上の法器を全て差し出し、我が屋敷に奉公に来れば、この建物はちゃんと残してあげます、と」
金嗣はふしくれだった指を伸ばして、襟から覗く凛心の首筋をつぅっと
「はっはっは! これはまた威勢が
弱りかけた獣を痛ぶるような目で、金嗣は凛心をじっとりと見下ろした。
「冷静になって、考えてみてもごらんなさい。こんな誰にも気づかれないような山奥で、馬鹿みたいに法術や武術を磨いて何になると言うんです。誇りや尊厳など、飯の種にもなりませんよ」
金嗣の声が、嘲りの色を強める。
「非礼を
「ふざけるな……!」
金嗣はケラケラと笑い、満足げに孔雀扇を動かした。握りしめた凛心の拳が悔しさとやるせなさで震え、手のひらに爪が食い込んだ。
「いつまでも強情を張っていないで、さっさと観念した方が身のためですよ」
金嗣は必死に顔を上げようともがく凛心を見下ろしながらそう言うと、満足したようにくるりと
「また、近いうちに来ます──。色良い返事を、期待していますよ」
童子たちに支えられて馬車に乗り込んだ金嗣は、来た時と同じ様にまた大きな音を立ててその場を去っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます