第一章 始まりの時 ー2(1)ー

 それは、寒さも厳しい二月のこと。


 天安を囲む山岳の一つ「ごうさん」の自宅の庭で、凛心は父の墓に静かに手を合わせていた。真冬の山奥は今日も冷たい風が吹き荒れ、葉を全て落とした枯れ木が死人のごとく立ち並ぶばかりで鳥の声もない。


「とうとう、一人ぼっちになっちゃったな……」


 ゆらめく線香の煙を眺めながらそう言葉にすると、せきを切ったように孤独感が押し寄せてくる。

 長らく病床についていた父が、一週間前、この世を去った。凛心の母は、すでに自分が赤ん坊の頃に他界しており、凛心はその顔すら覚えていない。


「父上……」


 ポツリとその名を口にすれば、引き裂くような痛みが胸に走ってえつがこみあげる。凛心は地面に膝をつき、粗末な墓標が立てられただけの父の墓の上に手をのせた。冷たい風が、墓前の鉢に残っていた紙銭の燃えかすを、こそげるように虚空に舞い上げていく。それとともに、父との幸せな日々も灰となって消えていってしまうように思われた。凛心はぎゅっと唇をみ締めると、涙を堪えるように目を閉じて頭を垂れた。


 突然、けたたましい馬のいななきが静寂を破り、凛心はびくりと体を震わせた。金の房飾りでけばけばしく飾り立てられたでんの馬車が、枯木立の間をぬってこちらに近づいてくる。凛心は立ち上がると庭を横切り、壊れかけたかやぶきの門を開けて外へ出た。馬車は凛心の家の目の前で止まり、中から従者たちに支えられて、丸々と太った人物が現れた。


「またお前か、蝦蟇ガマガエル


 ぶっきらぼうな凛心の口調に、「蝦蟇」と呼ばれたその人物は、不愉快そうに脂ぎった顔をゆがませた。


「そのあだ名はいただけませんね、碧凛心。いみじくも天安一の豪商であるきん様に向かって、そんなしつけな言葉を吐くとは。冥界にいるあなたのお父上も泣いていますよ」


 でっぷりと太った体を揺らしながら、芝居がかった甲高い声でなじる金嗣を、凛心は憎悪のこもった目でにらみつけた。


「……何の用だ」


 そう言いながら、凛心は腰に下げた白玉の匕首に手を伸ばした。金嗣が後ろにはべらせた十数人の従者たちが、サッと剣に手をかけて身構える。馬車の近くでかしずいていた、美少女・美少年でそろえられた数人の童子たちも、凛心の殺気におじいたように顔色を変えた。


「そんなに攻撃的な態度を取らなくてもいいじゃありませんか」


 金嗣は持っていたじゃくせんを揺らめかせると、両生類のような白目の少ない瞳をぎょろつかせ、暴食とほうとうでたるんだ頬を緩ませた。


「私はただ、約束を守っていただきたいだけですよ」


 金嗣はそう言って、きんらんどんの袖の中から、ひらりと一枚の書類を取り出した。その書面には、仰々しい文字で「退去強制令書」と書かれていた。


「以前から申し上げていますが、この山は私のものになったんです。ですから、一刻も早くここを退去していただきたいんですよ」


 扇の奥から凛心を見下ろしながら、金嗣がうんざりとした声で言った。


「こんなみすぼらしいいおり、立っているだけで私の美意識をさかでしますよ。よくもこんなねずみすら棲み付かないオンボロしきに住めたものですねぇ。さっさと取り壊して、かまどの薪にしてしまったほうが利用の価値があるというものです」


 そういうと、金嗣は垣根のそばに置いてあった作業棚を蹴り上げた。ガシャンと音がして、棚が壊れ、置いてあったザルやカゴが地面に散らばった。匕首を握る凛心の指に力がこもる。


「勝手なこと言うな! ここは、父上が私塾を開いていた大切な場所だ。山の権利がお前に移ったからといって、勝手に壊されてたまるか!」


 反論する凛心に、金嗣はあきれたように首を振った。


「私塾と言っても、どうせ門弟などろくにいないのでしょう? 壊れた庵の修繕もできず、ちまちまと本の書き写しなんかで日銭を稼いでいるような貧乏人が、よくもまぁ偉そうなことを言えたものです」

「なんだと!?」

「あなたが好むと好まざるとにかかわらず、事実、あなたは私の土地を不当に占拠しているのです。それともなんですか? あなたにこの土地を買う潤沢な資金があるとでも?」


 玉虫色に輝く孔雀扇で顔をゆっくりとあおぎながら、金嗣が近づいてくる。

 凛心はグッと言葉に詰まった。

 簡素な庵で父と二人、つつましい生活を送ってきた凛心に、土地を買うような大金などない。なけなしのたくわえも、先日父を埋葬するために使い切ってしまった。


「人の足元を見やがって……」


 喉にこみあげる悔しさを何とか抑えながら、凛心は奥歯を噛み締めた。

 金嗣はそんな凛心の隣に立ち、満足げにその様子を観察すると、扇からのぞく瞳にぎゃくてきな色をにじませた。


「ですから、私は代替案を提案して差し上げているではありませんか……。この庵にある、父上の法器を全て差し出し、我が屋敷に奉公に来れば、この建物はちゃんと残してあげます、と」


 金嗣はふしくれだった指を伸ばして、襟から覗く凛心の首筋をつぅっとで上げた。凛心は嫌悪感に身を震わせ、ピシャリとその手をたたき落とした。金嗣はその反応ですら気に入ったというように、高らかな笑い声をあげた。


「はっはっは! これはまた威勢がいことだ! 駄駄じゃうま慣らしは嫌いではありませんが、そのからげんもいつまで続くことでしょうねぇ」


 弱りかけた獣を痛ぶるような目で、金嗣は凛心をじっとりと見下ろした。


「冷静になって、考えてみてもごらんなさい。こんな誰にも気づかれないような山奥で、馬鹿みたいに法術や武術を磨いて何になると言うんです。誇りや尊厳など、飯の種にもなりませんよ」


 金嗣の声が、嘲りの色を強める。


「非礼をびて、おとなしく私のところに来れば、こんな寂れた庵なんかで過ごすより、ずっと良い暮らしを約束しますよ。私の言うことをきちんと聞いて、私を喜ばせてくれさえすればね──」

「ふざけるな……!」


 つかみ掛かろうとした凛心を、いつの間にか周囲を取り囲んでいた金嗣の従者たちが取り押さえた。無理やり地面にひざまずかされ、頭を低く押し下げられる。

 金嗣はケラケラと笑い、満足げに孔雀扇を動かした。握りしめた凛心の拳が悔しさとやるせなさで震え、手のひらに爪が食い込んだ。


「いつまでも強情を張っていないで、さっさと観念した方が身のためですよ」


 金嗣は必死に顔を上げようともがく凛心を見下ろしながらそう言うと、満足したようにくるりときびすを返した。従者たちがボロ雑巾でも扱うように、凛心を解放する。


「また、近いうちに来ます──。色良い返事を、期待していますよ」


 童子たちに支えられて馬車に乗り込んだ金嗣は、来た時と同じ様にまた大きな音を立ててその場を去っていった。

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