第2話 鷲獅子王と戦姫の婚約

 十年前、確かに一度だけ名を名乗ってはいたが、まさか覚えていたとは。という驚愕に揺さぶられる暇もなく、己の名が呼ばれる前に紡がれた衝撃的な言葉に、アルヴィアは今度こそ幻聴が聞こえ始めたのかと思った。


 アルヴィアの思考が久方ぶりに一瞬だけ停止し、「は」という声が息と共に漏れ出る。


「別に受け入れなくてもいい。その場合はおまえを殺した後、この世界全ての人間共も跡形もなく皆殺しにしてやる」


 鷲獅子王のその言葉で、すぐにいつも通り思考が素早く回り始めたアルヴィアは軽く目を瞠って鷲獅子王に一つ瞬きをして見せる。

 十年も殺し合い続けた相手なのだ。彼の目を見ただけで、すぐに解った。


(驚いた……彼は、本気だ。本気で私に、婚約を……)


 鷲獅子王がアルヴィアの首を掴む鷲の鉤爪に少しだけ力を込め、静かに宣告する。


「選べ。おれと婚約するか、このまま全人類諸共死ぬか」

「婚約する」


 間髪を容れず、アルヴィアは鷲獅子王の脅しにも近い要求に答える。

 アルヴィアのあまりにもの返答の速さに、鷲獅子王が微かに息を詰めたようだった。しかしアルヴィアは、一切物怖じすることもなく、真っ直ぐに鷲獅子王の猛禽の眼を見上げて続けざまに口を開いた。


「だけど、一つだけ条件がある。私が生きている限り、私以外の誰かを殺すことは断じて許さない。この約束を破った場合は婚約諸共、今度こそ必ずきみを殺すよ」


 アルヴィアの提示してきた条件に、鷲獅子王は一瞬微かに目を細めたようだが、すぐに首を縦に振って見せる。


「わかった。条件を呑む——ならばこれで、婚約成立だな」


 鷲獅子王がそう言って、アルヴィアの首から手を離すと、跨っていたアルヴィアの身体から退いて立ち上がった。

 アルヴィアも倣ってその場に立ち上がり、改めてすぐ目の前に立つ鷲獅子王を見つめた。


「何だ」


 無言で見つめてくるアルヴィアに、鷲獅子王が小首を傾げて見せる。

 正直、「何だ」「どうして」「どういう風の吹き回し?」と問い詰めたいのはアルヴィアの方だった。

 何故、全人類を人質にするような脅しまで使って、アルヴィアに「婚約」などを申し込んできたのか。十年もの間殺し合った相手、しかも鷲獅子王にとってアルヴィアは憎き天敵である人間だというのに。


 この突拍子もない婚約の目的とは?


 一体全体、彼は何を思って、何を考えているのか——聞きたいことはたくさんある。


 だが、今は何よりも優先して、アルヴィアは「新たな覚悟」を決めなければならなかった。

 アルヴィアは小首を傾げている鷲獅子王に小さく笑って見せて、軽く首を横に振る。


「いや……何でもないよ。ただ、婚約って夫婦になる約束でしょ? 私としてはまあ、大きな転機となるから。ちょっと覚悟を決めさせて欲しい」


 アルヴィアは鷲獅子王の鷲の鉤爪のままとなった左手をやさしくとると、その場に跪いて、真っ直ぐに鷲獅子王を見上げた。


「私、アルヴィア・シンドラ・メリアは——病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も。この魂が潰えるその時まで。きみと共に在り、きみと共に目一杯に笑い、きみと共に死ぬほど楽しんで生きることを誓おう」


 アルヴィアが心に決めた「新たな覚悟」とは、婚約者として、彼と共に生きること。

「ラムヌス最悪の災禍」とも恐れられる鷲獅子王と共に生きるには、生半可な覚悟ではいられないだろう。

 故にアルヴィアは、改めて覚悟を決めたのだ。婚約者となる彼がたとえ、人間を激しく憎悪し、全人類を滅ぼそうと目論んでいようと。アルヴィアのことをどう思っていようと、たとえこれからも何度殺し合うことになろうとも——「婚約」という契約をアルヴィア自身も望んで交わした以上、彼が約束を守っていてくれる限り。婚約者として、共に生きるのだ。


 アルヴィアの宣誓に、一つ瞬きをして無言で見下ろしてくる鷲獅子王。

 アルヴィアはそんな鷲獅子王にまた小さく笑いかけながら再び立ち上がり、軽く肩を竦めて見せた。


「私が勝手に覚悟決めて誓うことだから、気にしないで。それより」


 アルヴィアはその燃えるような真紅の瞳に微かな笑みを宿し、同じ高さにある鷲獅子王の琥珀の双眸を射貫く。


「きみの名前は? 婚約者殿」


 鷲獅子王はアルヴィアの視線を真っ直ぐに見返して、一つ間を置くと、やはり淡々とした声で答えた。


「シヴ。スヴァルト・シヴだ」

「シヴか。素敵な名前だね」

「ああ。おれもそう思う」


 アルヴィアはシヴの意外な返しに、また目を丸くするが、すぐに微笑んで「うん」と頷いた。




 こうして、東方ラムヌスに位置するメリア王国ハールバルズ辺境伯領に、「ラムヌス最悪の災禍」が飛来してちょうど十年目のとある日。

 十年間殺し合った仲である、メリア王国第一王女アルヴィアと鷲獅子王シヴの奇妙極まりない婚約が、突拍子もなく成立したのであった。

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