第13話 雨の廃寺

 水を弾くようにして駆け抜けた参道は、思いの外長かった。羽織だけでは防げなかった雨は、深衣の裾をしとどに濡らし足に纏わり付かせる。タイラン達は、足早に廃寺へと転がり込んだ。


「まさかあそこで滑るとは思わなかった」

「お前のおかげで、危うく俺まで転がるところだった。妖魔なら足を取られるな」

「無茶を言うな無茶を」


 濡れた靴は、中へと繋がる木製の階段で脱いだ。濡れた足が気持ち悪い。自然とぎこちない歩みになりながら、木で作られた引き戸を開ける。

 随分と廃れてはいるが、天井を見上げれば屋根に穴もない。一晩くらいならしのげそうだ。タイランは濡れた黒髪を絞りながら辺りを見回す。

 濃い灰色にも見える床板は、目立った汚れもない。何かを祀っていたのだろうか、祭壇の上には丸鏡が台に支えられるようにして置かれていた。


「寒いな、火でもつけるか」

「火事にする気か」

「そんなわけあるか。妖力で操る火は燃やしたいと思うものしか燃えぬのだ」


 ドウメキが得意げに宣う。そんな光景に既知感を覚えたのも、きっと守城の記憶の欠片だろう。

 タイランの腕から飛び降りた喰録が、寺の天井に羽がつきそうなほど、大きな姿をとる。

 そのまま猫が丸くなるように腰を落ち着ければ、長い尾で引き寄せるようにタイランの背を撫でた。


「ここに来い。私で暖を取れるだろう。こう見えても、火炎は城主よりもうまいぞ」

「そう言えばそうだったか。まあ、温もるには丁度いい。この羽織も、喰録の羽毛を織り込んでいるからな。乾いたら布団がわりにすればいいさ」

「そう簡単に乾くのか」

「貸してみろ。私が乾かしてやる」


 タイランの問いに、喰録は己の出番を待ち侘びていたかのように顔を上げた。

 ドウメキの差し出した羽織に、喰録が呼気を吹きかける。炎踊る風が羽織を撫でたかと思うと、あっという間に水気を飛ばした。


「ほら見たことか」

「それは、俺の衣服にもできるのか」

「焼けてもいいなら構わないが」

「や、焼けるのは困る」


 喰録の羽毛混じりの布なら可能なようだ。なかなかに上手くいかないものである。

 諦めたように喰録を背もたれに腰掛けると、濡れた裾をつまむ。

 下に薄い水色の生地を挟んだ作りになっているとはいえ、白は透ける。

 寒さで白くなってしまった己の足と、同じような色味の深衣が肌に張り付く。細い足の線が出るのが嫌だった。

 ドウメキの羽織で隠そうかとも思ったが、乾いたばかりのそれを足にかけるのは気が引けた。


 衣擦れの音がする。何の気なしに音の方向へと目を向ければ、ドウメキが濡れた衣服を脱いでいるところだった。


「なっ、んでおま、え……っ」

「このままだと体は冷えるだろう。こちらの方があったまる」

「タイランも脱げばいい。私の羽根を貸してやるからあたたまれ。」


 これが雨宿りの普通なのだろうか。初めて目にするドウメキの素肌を前に、慌てて目線を逸らすことしかできなかった。

 頭の中に、焼き付いてしまう。書庫で契りを交わした記憶では、衣服を乱していたのは守城だけだった。そうだ、二人は一度きりとはいえそういう間柄なのだ。

 鍛えられた体には、赤い刺青のような模様が走っていた。人間が鍛えるよりも、よほど均整の取れた体だ。

 戦う男の体に走る模様は、割れた腹筋を囲むようにして下裳の内側まで走っている。

 思春期じゃあるまいし、ましてや同性の体だ。何を緊張する必要があると言い聞かせては見たものの、反応が露骨すぎたらしい。

 床を軋ませて近づくドウメキに気がつくと、タイランは身をこわばらせた。


「こんな硬い床の上で、どうこうするつもりはない。お前も脱げタイラン」

「……その言葉に、二言は」

「なんだ、期待をしているなら話は別ぞ」

「期待なんかじゃない!」


 売り言葉に買い言葉とはこのことだ。負けじと深衣の腰布を解く。衿元を広く伸ばすようにして脱ぎ去り、身につけていた下着のみになると、どかりと床に腰掛ける。

 水気を切ったきり、ひと束にまとめていた黒髪を悪あがきのように前に下すことで精一杯だった。


「男気と恥じらいが共存していないか」

「やかましい」

「ほら身を寄せろ、暖が取れないだろう」

「……ああ」


 タイランが脱ぐのを待っていたかのように、喰録が羽根を伸ばす。

 長い尾が膝掛けのように足に乗せられると、タイランは恐る恐る喰録の毛並みに体を預ける。あたたかな温もりは冷えた体を柔らかく包み込んでくれる。

 心地よさに、思わず吐息を漏らした。この柔らかさはクセになってしまいそうだ。そんなことを考えていれば、ドウメキの腕が抱き寄せるように薄い肩へ回った。


「っ……」

「体を凭れかからせろ。楽だろう」

「すまない」


 ぎこちなく答えるタイランの様子に、ドウメキが苦笑いを浮かべた。

 共に湯浴みもしたことがない。だからこそ、素肌での近い距離感には慣れなかった。

 外では、シトシトと雨の降る音が聞こえている。静かな寺の中、じわじわとドウメキの体温がタイランの体に浸透していく。

 バクバクとなる心臓の音が聞こえやしないだろうか。落ち着け、大丈夫だ。何も起こるわけもない。体はかちりと固まってしまっている。

 二言はない。宣言した通り、ドウメキは肩を抱き寄せる以外に何もする気配はない。

 羽織の内側で、互いの体温が触れ合って暖を作る。冷えたつま先を仕舞い込むように、タイランは慎重に膝を立てた。

 つま先がドウメキの足に触れた時、まるで体温を分けるかのように足を絡められた。


「冷たいな。まあ、温まるまでだから我慢していろ」

「わ、わかっている」


 少しだけ上擦ったタイランの声色に、ドウメキが微かに笑った。肩を抱いていた大きな手のひらが、そっとタイランの頭を引き寄せる。

 自然と肩にもたれかかるような形を促され、行き場をなくしていた手で思わず羽織を引き寄せた。

 書庫で抱き締められた時よりも濃い、ドウメキの香りが鼻腔をくすぐる。

 この距離はいけない。心臓の音が、バレてしまいそうで嫌だ。


「……寒いか?」

(この手の震えは、違う)

「それとも、意識をしてくれているのか」

「そんなことない」


 食い気味の返答は、答えそのものだ。勢い任せなタイランの言葉に、ドウメキが吹き出す。

 肩をくつくつと揺らして笑われるのがしゃくだ。タイランは羽織を握りしめていた手で拳を作ると、ドウメキの腹を緩く叩いた。タイランなりの、無言の抗議である。

 

「愉快だな……」


 くつりと笑ったドウメキの声に、思わず睨みを効かせようとした。しかし、タイランにはそれができなかった。


(うわ……っ)


 ドウメキの呼気が、タイランの後頭部を撫でた。距離が、近いのだ。


「昔は、ここまでわかりやすくはなかった」


 鼻先を髪に埋めるようにして、タイランの後頭部に唇が触れる。体の温度が、再び一度跳ね上がる。

 タイランは瞬きすらも忘れて、忙しなくなる心臓を落ち着かせることに必死だった。

 そのせいで、文句の一つも紡ぐことはできていない。今口を開いたら、情けない声を漏らしそうだったというのが本音だ。


「お前は照れると、一際おとなしくなる」

(そんなもの、俺だって知らなかった……)


 頬が熱い。ドウメキにはもう見透かされているだろう。熱を逃したくて、肩口から頬をずらす。そのせいで、俯くような形になってしまった。

 タイランの長い黒髪が、手慰みのように梳かれる。頸をくすぐられているようでこそばゆく、つい息を詰めた。

 ドウメキの少しだけかさついた指先が、悪戯に耳朶へと触れる。思わず口元からこぼれたタイランの吐息は、ドウメキの肩をじわりと温めた。


「この状況で、それは良い手ではない」

「な、何を」

「二言はない。が、堪えていないとは言っていない」


 タイランの後頭部に唇を寄せたドウメキが呟く。

 その言葉に、タイランは心臓がひきつれたように甘く傷んだ。緊張から乾く喉を潤すように、喉仏が上下する。

 ドウメキのふしばった手のひらが首筋を撫で上げる感覚に、下腹部がじくんと熱を持ち、膝を抱えるように折りたたむ。

 体を小さくしないと、タイランの口からおかしな声が飛び出してしまいそうだったのだ。


「タイラン……」

「ま、待ってくれ、……っ」


 ドウメキの顔が、俯くタイランに寄せられる。獣が懐くように擦り寄られると、妙な心地になってしまう。

 流されてはダメだ。こんなところで、あまりにも無防備すぎるこの格好では、ダメだ。

 羞恥を伴う緊張は、琥珀の瞳を潤ませるのには十分であった。

 ドウメキの手のひらが、頬に触れる。細い顎に指先が滑ると、促されるようにゆっくりと顔をあげた。

 琥珀と紅い瞳が重なり合う。鼻先が触れ合いそうな距離に、震える指先は期待するかのようにドウメキの羽織を握りしめる。

 

(このまま、唇を重ねてしまうのだろうか)

 

 小ぶりな喉仏がわずかに上下する。ドウメキの紅い瞳の奥に引き込まれそうになりながら、鼻先が触れ合うままにゆっくりと瞼を閉じた時だった。


「私もいるんだがな」

「どわっ」


 静寂を破るかのように主張する喰録の声に、タイランは思わずドウメキの体を突き飛ばした。

 まるで、雰囲気に飲まれたことを恥じるかのように、頭を抱えて縮こまる。渋い顔で床に転がるドウメキを放置したまま、穴に身を隠す代わりに喰録の羽毛に顔を埋めた。

 わかりやすく恥じらうタイランに喰録だけは淡々と、押すな。とだけ宣い、迷惑そうな顔をするのであった。




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