第10話 小さな欠片

 握り返された手に、思わず声を漏らした。

 随分と時間が経っていたらしい。タイランの琥珀の瞳が捉えたのは、差し込む西陽を優しく受け止める猩々緋であった。

 白髪頭を柔らかな色に染めたドウメキが、タイランの手を握っている。背を向けるように小上がりへ腰掛ける後ろ姿が、寂しげなものに見えた。

 手のひらは熱いのに、ドウメキの様子は静かだ。


「っ……」

(ダメだ、泣いていいのは俺ではない)


 空いている手のひらで口元を抑える。そんなタイランの小さなみじろぎに気がついたのだろうか。蹲る背中にドウメキの視線を感じた。


「……タイラン」

「……、っふ」

「……お前の辛い時ばかり、俺はそばにおらぬな」


 そんなことを、言って欲しいわけじゃないのに。

 ドウメキの声は優しく、タイランの馬鹿になった涙腺を叩くのだ。

 ここにきてから、感情が忙しい。この男によって情緒を振り回されている。本当は兄だから泣くのだって我慢できるはずなのに、ドウメキの前ではうまく取り繕えない。



(なんで……見せたくないところばかり)


 嗚咽を堪えても、肩は小さく揺れてしまう。背中を丸めるように身を縮めるタイランの肩に、ドウメキの手が触れた。

 大きな手のひらは、頬に伝う涙を拭うように撫でると、長い黒髪へと指を通した。


 顔を見ないで欲しい。これ以上、俺を惨めにさせないでくれ。内側から込み上げる惨めな虚勢を宥めるかのように、ドウメキの長い指が優しく触れる。

 頭を撫でられるのは慣れていなくて、どうして良いかわからない。それでも、心の緊張は少しずつほぐれていくのを感じていた。

 輪郭を確かめるように、手のひらがタイランのおとがいに触れた。ドウメキの親指が、柔らかさを確かめるように唇を撫でる。


「ドウ、メキ……お、俺は、……」


 タイランの震える唇は、うまく言葉を言い表すことができなかった。本当は、何を見たのか聞きたいのだろう。それでも、タイランの気持ちを慮って口にもしない。

 記憶の中に、確かにドウメキは存在するのに。

 タイランが前世に怯えること。それは、ドウメキが守城と過ごした日々を否定するものだ。

 だからドウメキは、タイランの心が落ち着くのを待っている。身のうちの寂しさを押し殺して、律しながら寄り添う。

 心の奥底に眠る懐かしさを、ドウメキ一人で守り大切にしようとしているのだ。

 

「嫌なら、拒め」


 その言葉は、否定をしないでくれというドウメキの懇願にも聞こえた。大きな手のひらで、無理強いをすることだってできるだろう。それでも、ドウメキは尊重してくれる。この涙の理由が、ドウメキへの怯えではないか。そんな無駄な心配までして。

 ずるい。タイランは、それはずるいと思った。

 ドウメキの瞳が本当に映しているのは、守城の面影だろう。そう言って拒んでやりたいのに、痛みを堪えるように微笑まれたら罵ることもできないじゃないか。

 素直にならなくては、いけないじゃないか。

 細い喉が、肺で焼かれた吐息を漏らす。泣いて、体が熱くなって、胸が痛い。こんなに辛い感情は初めてだった。

 求めるように腕を伸ばした。ドウメキへ向けて、ゆっくりと。

 細腕を、逡巡を交えた大きな手のひらがそっと掴む。体を引き寄せるだけに意識した力の強さで、タイランは優しく起こされた。

 座っていても、頭ひとつ分は大きい。ドウメキの太い腕が、書庫で見た守城の記憶のようにタイランの背中へと回った。

 薄い体を閉じ込める。守城を抱きしめたときよりも遠慮がちなドウメキの動きに、その身を任せた。

 目の前に猩々緋の赤が広がる。流れた涙の一粒が布地に染み込むのを誤魔化したくて、額を預けるかのように肩口に顔を埋めた。


「一人で泣かせて、すまない」

(言わないでくれ、惨めになってしまう)


 同じだ。きっと、先ほどの記憶がそうさせるのだろう。大きな手のひらが優しく頭を撫でるだけで、縋りたくなってしまう。

 抗い続けた守城の記憶の重なりを、都合よく受け入れようとしている。ドウメキに、心を許されたいと願ってしまった。


「少しだけ、このままがいい。お前がここにいるだけで、俺は妙な気持ちになってしまう」

(俺も、大概にずるい男だ……)


 二人がいる書庫は、守城とドウメキが互いの気持ちを確かめた場所だ。

 香炉だと思っていた骨壷が、静かに眠る場所。人の骨を入れておくには余りに小さなそれを、ドウメキが大切に祀る場所。


 守城は死んだ。だからタイランはここにいる。

 その事実が当たり前だとわかっているのは、死に際の守城に託されたからだろうか。

 膨れ上がるドウメキへの感情が、触れ合った場所からじわじわと浸透してくる。


「お、おれは、……」

「大丈夫。お前は、タイランだ」

(そうじゃ、ないのに……)


 言わせている。タイランは、ドウメキに、そう言わせてしまっている。

 何も間違いではない。本当はこれが求めていた正解のはずなのに、ドウメキの口から否定をされると胸が苦しい。

 身の内側に宿る守城の記憶が、郷愁にも似た不思議な感覚が、前世を信じたくないタイランをじわじわと追い詰める。

 ドウメキの求める守城にはなれない。その事実が、気持ちの行き場をなくすのだ。


「お前の、お前の、あるじになりたい……お、おれは、お前の……っ」


 鼻水が邪魔をして、うまく喋れない。情けない声で紡がれた醜い気持ちを、ドウメキはどう受け止めるのだろうか。

 タイランの語彙力では到底表せない複雑な感情が、涙となってボロボロと溢れた。

 なんて、狡猾なのだろう。ドウメキの心に目を背けたくせに、今更何をいうのか。

 巫力がないから、守城になることは叶わないだろう。それでも、ドウメキの唯一になりたいという気持ちに嘘はなかった。


 夕陽が差し込む書庫の中、守城はドウメキの腕の中に閉じ込められていた。抱き締める腕の力の強さが、守城へ向けた苦しいほどの思いを代弁しているかのようだった。

 ドウメキの特別な思いが、タイランにはひどく羨ましかった。


 キュウ、と喉が鳴る。弱くなった。タイランは、優しさに触れて弱くなってしまった。

 突き放さないでくれ、縋らせてくれ。女々しくて構わない。それでも俺は、お前の心に入りたい。

 気持ちを吐き出すことが下手なタイランの、必死がそこにあった。

 ドウメキの背中へと回した手が、縋り付くように猩々緋を握り締める。

 


「……俺の守城は、山主に殺された」


 背中に回ったドウメキの腕に、力が籠もる。肺を圧迫されるほどきつく抱き締められた。

 このまま溶け合って、混じり合ってしまえばいいのに。そんな馬鹿な考えが、頭をよぎる。


「生まれ変わりのお前が、また守城になったら……また、殺されてしまったら、俺は」


 記憶の中の守城は、生きて帰るを約束しなかった。ドウメキの心は、そのせいで過去に縛られている。そんな鎖を、タイランが解いてやることはできるのだろうか。 

 

「俺には、守城を守ることができなかった」

「でも、今俺はこうして生きてる」

「それを喜んだら、お前は悲しむだろう」


 なんて悲しそうな顔で微笑むのだと思った。

 生まれ変わりを受け入れたくない、それは確かだ。タイランとして生きる今を見てほしい。

 しかし、一人残されたドウメキの心の傷を知ってしまったからこそ、前世でもある守城の存在を強く否定することはできなかった。

 これは同情なのかもしれない。それでも、ここで見た記憶が現実を知らしめてくる。

 図らずとも過去の守城によって、タイランは頑なな気持ちをほぐされた。すぐに受け入れることはできないが、理解することができたのだ。


(その笑みは、俺に向けられてない)


 これは、嫉妬だ。こんなに切ない顔を、タイランを通して向けられている守城への、子供じみた嫉妬。

 

(好きになってしまった、俺は、こいつが……)


 胸の内側から膨らむ甘い痛みが、声となって溢れてしまいそうだった。震える唇を引き結ぶ。タイランのささやかな心の変化は、ドウメキへは伝わらなくていい。

 タイランは決意した。それは、この想いの行き場を与えるために前世を受け入れること。

 たとえそれが自己満足で終わろうとも構わなかった。

 ドウメキと守城は、今のタイランよりも長い時を重ねてきた。その年月に、タイランが敵うはずがない。

 前世が守城だというのなら、タイランは、その守城を越えなければいけない。

 なら、タイランがドウメキにできること。守城ができなかったことを成し得るのなら、それはただ一つしかない。


「俺は、死なない……、死ぬなら、お前も道連れにしてやる」


 あの時、記憶の中の守城はドウメキを守った。山主と対峙して、己の身が滅ぶことを知った上でドウメキを生かそうとしたのだろう。

 妖魔は守城と共にある。それなのに、守城が死んだ日にドウメキは置き去りにされたままだ。

 覚えている、あの夜の感情。守城がドウメキと思いを遂げたあの日の夜の、切ないまでの感情が濁流のように流れ込んできた。

 この腕に抱く男を、守城は男として守りたかったのだろう。

 妖魔の主としてじゃない、一人の男として守りたかった。言葉で口にしなかったのではない、できなかったのだ。

 守城は、今のタイランのように口下手だ。こんなところまで思い出さなくてよかったのに、ドウメキの体が震えていることに気づいてしまったから、言うしかなかった。


「俺は、お前を置いて行ったんじゃない、生きてほしかった」

「タイラン……無理をするな」

「あの時の俺は、男としてお前に背を向けた。口下手なのは、お前が一番知っているだろう」


 タイランの頬を、ドウメキの髪が撫でる。肩口に顔を埋めるように、熱い吐息が肩を温める。

 大の男が二人して縋り合うなんて、酷く滑稽な話だ。そう笑えたらよかったのに。タイランは声を震わせながら、ゆっくりと吐露した。

 

「俺の記憶は、お前のものだ。俺が持っているよりも、お前の方が大切にしてくれる」

「死んで、欲しくなかった。俺はお前を、守ってやることができなかったんだ……っ」

「お前を、信じていたからこそだ」

「その言葉は……、受け取れぬ。俺は、お前を……っ……」


 苦しそうに、喘ぐように懺悔をし続けるドウメキを、タイランはきつく抱き締める。その腕を、緩めるつもりはなかった。

 腕が吸い付くように離れがたいのは、守城の気持ちが重なっているからだろう。


「器を、小さくすれば死なないと思っていた。あれは、俺の祈りだった」


 タイランの肩口から熱が離れる。ゆっくりと顔を上げたドウメキの目元は、赤くなっていた。

 濡れた眼差しは紅玉のように美しい。その視線が向かうのは、香炉だと思っていた守城の骨壷だ。

 

「手の骨くらいしか、入らないだろう」

「体を失うまでのことに、なってほしくなかった」

「先に用意するなんて、お前の思考は怖いな」

「昔から、そればかり言うな」

  

 ドウメキの守城は、薬指の骨しか残らなかった。山主と対峙して、体のほとんどを消失した。

 静まった岩屋戸の前に、守城の指は金環ごと、ポロリと落ちていたという。

 タイランの見た光景のその先を、ドウメキの口から語られる。それがこんなに辛いことだというのは、守城は知らない。


「金環は、どうしたんだ」

「……俺にとっては、忌諱すべきものだ」

「でも、捨てられなかった」

「……あれを縁に、お前が戻ってきた」


 タイランの頬に、ドウメキの手が触れた。引き寄せられるように視線が重なる。まるで、指輪に囚われるなというようであった。


「……ドウメキ?」

「……俺は、今この時に縋りたい」


 告げられた胸中に、タイランは無言で広い背中を撫でた。言葉がでなかったのだ。

 まだ、ドウメキの言葉に対する誠実な答えを見つけることができていない。それでも、肌の触れ合う部分から滲む痛いほどの思いに、胸が苦しくなったのは確かだ。

 タイランが告げた守城の心の内側は、冬の残香のように澄み切った想いをドウメキへ届けた。

 胸の痛みを堪えるように微笑む。そんなタイランの目元を撫でると、ドウメキはゆっくりと顔を近づけた。

 鼻先が触れ合う。互いの呼気が、唇を撫でる距離だ。ドウメキの香りが肺を満たして、思わず吐息が漏れた。

 鼻先をずらすように唇を寄せられた瞬間。タイランは何をされるのかを理解した。


「ど、っ……ま、待ってくれ」

「なぜだ」

「つまり……そ、そう言うことをしようとしたのか」


 慌てて、己の口元を隠すように手で押さえる。狼狽えるタイランの目の前で、不服そうなドウメキの表情だけが素直だ。

 唇が、口元を隠す手の甲に落とされた。触れられた場所が熱い。じわじわと顔を赤らめるタイランの挙動不審な様子が照れから来ることを理解したらしい。

 頬に触れていたドウメキの手のひらが、優しくタイランの手を外した。


「接吻など、経験はいくらでもあるのだろう?」


 いつもの嫌味な笑みではない。ドウメキが伺いを立てるようにそんなことを宣うので、それがタイランの胸の奥の柔らかい部分を刺激する。

 

「そ、その通りだ。だが、今はっ、ぅぶ……っ」


 タイランの言葉を聞き終えるよりも先に、ドウメキの顔が近づいた。肩に手を添えられて、緊張がタイランの体の動きを鈍くする。

 思わず瞼を閉じて身をすくめていれば、齧り付かれたのは己の鼻であった。

 あっけにとられたように、タイランが動きを止める。鼻の頭を赤くしたまま、ポカンとしている姿を前に、ドウメキは吹き出すように笑った。





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