第9話 張り裂ける気持ち

 気落ちすることはない。喰録はそう言ってくれたが、タイランが無関係を振る舞えるような状況ではないことは確かだ。

 あれからドウメキは、頭を冷やしてくると言って出かけてしまった。突き放されるようなことを言われたわけではない。それでも、普段とは違うドウメキの様子は、動揺を煽るのには十分だった。


(何があったか、と聞くのはまずいだろうか)


 喰録から渡された桃を口実に、タイランは自室へと戻った。

 あの場から遠ざける気配りは、本当に妖魔かと思ってしまうくらいに手慣れていた。

 窓際に置いた桃に、日差しが当たっている。薄く色づくそれが特別に甘いことなど、ここにきてから十二分にわかっている。そのはずなのに、タイランは食べたいとも思わなかった。


──── これをあげるから、あっちに行ってなさい。

 呼び起こされる、幼い頃の記憶。あの時も構えないからと、両親からは口実のように桃を渡された。

 守城として、九魄に選ばれたヤンレイに教育を受けさせるためだ。きっとタイランは邪魔だったのだろう。一人で食べた桃の味は、今でも覚えている。


「少し、似てるな」


 寂寥感は、声に滲んでいた。無意識だとはいえ、タイランはドウメキを怒らせてしまった。

 こんな時に限って、記憶が蘇ることはない。いつもそうだ。どうせお前はわからないだろうと、望んでもいない気の使われ方をする。

 疎外感というのは、打ち解けたと思えば尚更に強く感じるものだ。ドウメキを怒らせたのは、間違いなくタイランである。

 何も知らないままでいられるわけがない。


 琥珀の瞳が、シノワズリ調の扉へと向けられる。

 複雑で美しい格子模様を前に、牢屋のようだと思っていたはずなのに。もうここは、すっかりと部屋になった。あんなに出口を探していたことも忘れるほどに、タイランは珠幻城に馴染んでしまった。


「ここが俺の家というなら、気を使わなくてもいいのだな……」


 声をかける勇気がないままに、行動を起こすのは不義理だろうか。それでも、今の己にできることといえば、記憶を取り戻すことくらいしか浮かばなかった。

 書庫に行けば、何かわかるだろうか。枯山水の中庭が美しい、タイランの気に入りの場所。

 初めて足を踏み入れた時から、あの場所は不思議と馴染んだ。

 だからこそ、そこに行けば何か手掛かりが得られるのではないかと思ったのだ。


 部屋を出る。雷紋模様にくり抜かれた見事な装飾が、天井を囲むように施されている。吉祥模様がいくつも飾られた城の中は、広くて静かだ。

 与えられた自室から、中庭を挟むようにして反対側にある書庫へ向かうべく、タイランは黒く磨かれた床を踏み締める。

 部屋と同じ格子模様が施された窓が、等間隔で連なる。窓枠を額縁のように見立て、様々な角度から目にする中庭の景色は実に美しかった。


 二つの角を曲がり、たどり着いた書庫。古紙の匂いが心地よく、タイランは扉に触れたまま、ほうと息をついた。


(好きだな、この場所)


 静かな音を立てて、扉が閉まる。引き寄せられるように歩みを進めたのは、窓際の本棚だ。右側には、大理石で作られているのだろう小上がりに、大きな花瓶が置かれている。

 天井から垂れ下がった雲鶴模様の描かれた布が、飾られた大輪の花に色味を足している。

 白く、大きな花弁を持つ花の名を知らない。しかし、その芳醇な香りは柔らかに書庫を包み込んでいた。

 何かを祀るようにも見える一角には、香炉があった。小上がりの奥、布に守られるようにして置かれていた白い陶磁器には、地梅樹模様が青く描かれている。


「あれは……」


 琥珀の瞳がそれを映した瞬間、じんわりとした熱がタイランの後頭部に浸食した。


「ぅ、……っ……」


 また、記憶が戻るのか。


 この瞬間が苦手だ。不快感を堪えるように眉を寄せると、壁を支えに小上がりへと腰を落ち着けた。

 少しだけ、気持ちが悪い。薄い手のひらは、大理石の表面を確かめるようにして這わされる。楽な姿勢をとりたかった。冷たいそこに頬を合わせるようにして横たわると、聞こえてきた雨音のような耳鳴りに身を任せる。


 怖い、一人でいたくない。俺がそばにいると言った、ドウメキが隣にいないのだ。

 タイランの手が、天井から垂れる布端に触れた。目を瞑り、思い出すのは猩々緋の羽織だ。指先が記憶している、ドウメキの衣服の感触を思い出そうと必死だった。


──── この香炉は、お前をしまい込むものだ。

「は、……」


 ドウメキの声が、タイランの鼓膜を震わせる。整ったかんばせに、白い手のひらがそっと触れた。


──── 妖魔の考えることは怖いな。


 タイランによく似た声が、ドウメキの言い様に笑う。

 夕暮れの赤い光が、格子窓の影を床に焼き付ける。色味を濃くした書庫の床を撫でるように、白い深衣の裾が擦れた。

 力強く、大きな手のひらが腰に回される。帯の上からでもわかる力の強さで、体の距離を縮めるように引き寄せられる。

 ドウメキの香りを近くに感じた。安心を覚える距離は、それだけ心を許していると言うことだろう。


──── これは、お前の骨壷だ。

「っぁ、……!」


 どくり、と心臓が跳ねる。胸の苦しい感覚が、守城のものなのか、己のものなのかがわからなかった。

 記憶と現実の境目が曖昧だ。夢を見ているような微睡みに身を任せる体は、耳朶をくすぐるドウメキの声を素直に体に染み込ませる。


(こつ、つぼ……)

──── こんな狭い中に俺を閉じ込めておくつもりか

──── どこにも行くな守城。お前はこの城で、心穏やかに生きればいい。


 ドウメキの手のひらが、そっと守城の手を握り締める。あの桃の木の下で感じた手の温度と同じだった。守城の細い薬指を、鮮やかな火炎がぐるりと一周した。ドウメキの執着を感じるその妖力は、熱を伴わない炎を金環に変える。


──── 粋なことをする。


 白い指先の根本に飾られた金色がぴたりと嵌り、守城の薄い手のひらは震えを抑えるかのように握り込まれた。

 黒髪に隠れて、表情は見えなかった。それでも、縋るようにドウメキの厚い胸板へと額を寄せる姿は、口にできぬ思いに胸を焼かれているようにも見えた。

 視界が、猩々緋の赤で染まる。力強い腕によって抱きすくめられたのだ。

 行き場のない守城の手は、存在を確かめるかのように背に回された。ドウメキの服を握りしめる手の強さが、守城の胸中を代弁しているかのようだった。


(苦しい、なんだこれ、感情が流れ込んでくる……)

──── なんでお前なんだ

──── 俺だからだ、ドウメキ


 腕の拘束は、わずかに緩められた。高い位置にある顔を見上げれば、紅色の瞳は守城へ向けられていた。

 視界が霞む。もしかしたら、泣いているのかもしれない。ドウメキの瞳の奥に映る守城を確かめたくて、真っ直ぐに見つめ返した。

 鼻先が触れ合う距離だ。唇を、互いの呼気が撫でる。大きな手のひらが、長い髪に指を通すようにして後頭部に回った。

 頭を傾けるように重なった唇の感触は、少しだけ濡れていた。


(もっと、……)


 胸が痛い。まるで、水面を求めて泳ぐ小動物のような心地だ。苦しくて、息ができない。

 喘ぐような呼吸音が己のものだと認識すると、意識は深く落ちるようにして景色を変えた。


──── 山主。


 その声は、反響音を伴って聞こえてきた。守城の声だ。深い山の奥、大岩で閉ざされた岩屋戸を前にして、守城は一人で立っていた。

 僅かな隙間から滲む、重だるい空気。穴を塞ぐ大岩を押し退けようとして、内側から圧力をかけているのだろう。

 太いしめ縄が巻かれた大岩は、時折揺れる地面に合わせるように、紙垂しでを震わせていた。


──── 苦しいな、山主。


 白い手のひらが、大岩に触れる。

 ざらつく表面を労るように撫でると、そっと額を寄せる。何かを祈るようにも、悔いるようにも見える守城の姿は、タイランの記憶を色濃く反映させる。


(なんだこれ、この、感覚は……)


 手のひらから伝わるのは、山主の感情だろうか。これは、深い悲しみだ。苦しい、寂しい、ここは嫌だ、もう独りはいやだ。

 幼子が啜り泣くような、そんな哀感が伝わってくる。


──── 俺の巫力では、お前の痛みを軽減してやることしかできない。

(なんだ、なにをいっているんだ……)

──── 必ず助けてやる。俺が、お前をそこから出してやるからな。

(まて、どういう……)


 タイランの意識は、吸い寄せられるように引き込まれた。暗く、狭いここは岩屋戸の中だろうか。

 不明瞭な視界の中でも感じる。眼の前にいるのは、山主と呼ばれた紅い瞳をした祟り神だ。

 呪いが、螺旋を描くようにして纏わりついている。思わずタイランが手をついた壁には、夥しい程の文字が刻まれていた。


──── 今は、十三。俺が、十四つめの禊だ。


 守城の声が聞こえた。その瞬間、タイランの背後の岩は大きな音を立てて破壊された。

 慌てて振り向く。岩屋戸の出口に光が差していた。タイランの眼の前には、毛を逆立てて威嚇する喰録が、守城を守ろうと羽根を広げていた。

 顔が見えない。一歩踏み出し確かめようとした瞬間、タイランの体を飲み込むようにして背後から獣の口が現れた。

 黒く染まる視界、振り向けば、かすかに見えた獣の喉奥に、杭が刺さっていた。


──── 喰録、散。

──── いやだ、守城……‼︎


 喰録は悲鳴と共に、黒く大きな体を消していた。巻き添えにしないように、守城が守ったのは歴然であった。

 黒い砂嵐のようなものが巻き起こる。丸く切り取られた光の出口に一人佇む守城の姿を、遮るかのように吹き荒れた。

 黒い影が、意思を持つように千切れて蠢く。わずかな隙間から見えた守城の姿は、タイランによく似ていた。


(え……)

──── その杭を抜け。あとは任せた。

(まって、まってくれ!)

──── お前が、最後の俺だ


 守城は、柔らかく微笑んだ。向けられた言葉は、タイランがここにいるのを知っているような口ぶりだった。

 岩屋戸の壁中に描かれていた文字が、壁を覆う夥しい数の虫のように蠢く。それらは唐突に動きを止めたかと思うと、空気を貫く鎖のように守城へ向かって素早く伸びる。

 守城は、受け入れるかのように両手を広げた。白い手のひら、薬指に光る金環がチカリと光ったことに気がつくと、タイランは目を見開いた。


 (ダメだ、待ってくれ。任せるって、どういう)


 タイランの内側から膨らんだ感情。それは、張り裂けそうな思いだった。

 これは、守城が押し殺した感情だ。苦しい思いは涙となってタイランの瞳からボロボロと溢れていく。

 指輪を贈られ、心が震えたこと。気持ちを通わせてなお、遠ざけなければいけなかった想い。

 後悔、残して逝くドウメキへの、強い無念。

 苦しい、苦しくて、痛い。泣き叫びたいだろう心を押し殺して、守城は微笑んでいるのか。

 生きながらえる努力は許されない、強い呪いに殺されることを理解してもなお、凪いだ瞳で受け入れる。

 守城は、微笑む。到底間に合わないのを自覚しているくせに、タイランは必死で手を伸ばした。

 守城の体を縛る文字の一文、それは祝詞のようだった。本来なら、神へと捧げられるべきそれが、守城の体から自由を奪う。

 タイランの体が、思考が深い闇に飲み込まれていく。背後から迫る大顎が、やめろと叫ぶタイランの声を遮るように守城の体へと牙を向ける。

 山主の悲鳴のようなものが響いた気がした。暗闇の中、稲妻のような光が走ると、タイランの意識は夢から覚めるように引き上げられた。




「……ふ、……っ」


 気がつけば、睫毛は濡れていた。どうやら涙を流していたらしい。冷たい大理石に額を押し付けるようにして蹲る。

 手のひらが震えていた。喰録なら、何か知っているのだろうか。彷徨う手が、記憶を辿るように小さな骨壷へと伸ばされたその時。

 薄い手のひらは掬われるように、大きな手によって握り締められた。



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