第6話 難しいこと
その日、小さくなった喰録を膝に乗せたタイランは、桃の木を見上げるように置かれた揺り椅子に腰掛けていた。
二階の通路を一人で歩いていたときに、身に覚えのない記憶に襲われたのだ。
桃の花弁が吹雪のように視界を掠めたかと思えば、通路にいたはずのタイランの視界に飛び込んできたのは、枝葉を広げる桃の木であった。
出口を探していた時と同じ現象だ。先ほど頭痛に足を止めた二階の通路では、タイランの隣には鏡のかけられた壁があったはずだ。突然の場面の転換に悲鳴をあげそうになって、声が出なかった。何かの記憶を、再び見せられているのだ。そう気がついた時には、タイランの手は男に握り締められていた。
触れ合うつもりはなかったのに。わずかに動揺すれば、耳心地のいい声で何かを囁かれたのだ。
(……何を言っていたんだろう。)
声は聞こえなかった。強く風が吹いて、枝葉が擦れるようにさわめく音に溶けたのだ。指を絡めるように手を繋がれた。温もりまで手のひらが覚えている。腰に回った腕が体を引き寄せるように触れて、それで。
それで気がついたら、喰録を膝に乗せていた。
「守城はこうして、たまに私を甘やかしてくれたのだ」
「うずくまっている俺を助けてくれたことは、感謝している」
丸くなった喰録の滑らかな羽毛を手慰みに撫でる。優秀な妖魔は、タイランがぐったりしている間にドウメキを呼んできてくれたらしい。桃の香りに引き寄せられるように目を覚ませば、ドウメキが覗き込むようにタイランを見つめていたのだ。
「なんて顔をしている」
「……うるさい、あっちへ行け」
「いかぬ。あちらもこちらも、俺の住処ぞ」
不服気なドウメキの言葉に、痛む頭を押さえながら、それもそうかと思った。
ふしばった手のひらが、頭痛を堪えるように歪むタイランの眉間へと触れる。指先からドウメキの体温がジワリと移り、少しだけ痛みがほぐれた気がした。
あの日から、少しずつだがドウメキに心を許すようになった。
それは、素直になるための落とし所を見つけたから。というだけではない。ドウメキからのぎこちない歩み寄りに絆されたところが大きかった。
それでも、口にできない思いを全て吐露したわけではない。こうして慣れぬ労りを向けられると、未だどうしていいかわからない。特に、記憶が重なった後は駄目だった。
「痛みはひいたか?」
「……もう少し、かかる」
掠れた声で小さく呟いた。らしくない。心の中で悪態を吐く相手は己自身だ。
頭が痛いのは嘘ではない。記憶を垣間見たのも事実だ。しかし、ドウメキから心配気な表情を向けられると、勝手に口から余計な言葉が出るようになった。
(俺は、どうして)
ドウメキの手のひらが、そっと視界を覆うように触れた。本当は手を払いのけてやろうとも思ったが、膝に乗る喰録に当たるかもしれないと思い、それをしなかった。
黒い羽毛の上で、小さくなった喰録の体を温めるように手のひらで覆う。手のひらを大人しく受け入れたタイランを前に、ドウメキの目元が緩んだ。それを目にすることはなかったが。
「昔みたいだな」
喉をゴロリと鳴らした喰録が呟いた。心からの言葉のように、懐かしさと喜色の滲む声色であった。
昔。それは、タイランの知らない昔だ。指先を針で刺したような痛みが胸に広がって、じわじわと微睡のような心地は消え去っていった。
喰録の言葉に他意はない。ただ身に覚えのない記憶が重なって、敏感になっているだけだ。本当に求められているのは、タイランの中に眠る記憶の人物。そこかしこに残る残り香を、ただタイランが纏っているだけ。
「……すまん、ちょっと」
「む、どうした。……タイラン?」
「気分が悪いのか?」
ドウメキの手を避けるようにして、背もたれから体を起こす。喰録の金色の瞳に映るタイランの表情は不自然に消えていた。
肺が少しだけ苦しい。この苦しみは、知っている。言葉にできない思いが胸の内側で暴れている時の痛みだ。
ああ、少しだけ泣きそうだ。気を抜くといけない。蹌踉めくように立ち上がるタイランの手を、ドウメキがとった。先ほど見た記憶と同じ、優しい力で、手を握り締められたのだ。
「大丈夫か」
(うるさい、話しかけるな)
心の声は、まるで幼稚な我儘だ。紅い瞳に映さないで欲しかった。握りしめられた手を引くようにして離れる。手に残る体温を握り締めるように拳を作ると、タイランはそのまま二階の中庭を飛び出した。
(面倒臭い、面倒くさくて嫌になる。でも、本当に面倒臭いのは……)
「逃げるな、タイラン!」
「ーーっ」
与えられた部屋へと、篭りたかった。気持ちの整理がつくまで、タイランは一人になりたかったのだ。
それでも、ドウメキの手のひらがしっかりとタイランの手首を握り締めるから、それも叶わなかった。
「タイラン……」
「は、はな、せ」
「駄目だ。話をしろ、俺はお前を笑わぬと言っただろう」
「タイラン……」
心配そうな喰録の声が、涙腺を叩く。ドウメキの力強い手のひらが、タイランに誠意を向けてくる。
ずるい、面倒臭い。嫌だ、だって……どうしたらいいかわからない。
弟の前でも、こんなに泣いたことはなかった。兄という立場だったからこそ、誰にも泣いているところを見せまいとしてきたのに。一体、どうしろというのだ。
(誰かを俺に重ねるくせに、優しくなんてしてくれるな)
子供のように泣き喚いて、主張をできたらどれだけ楽だろう。そう思うほど、タイランの心は乱れていた。
ドウメキや喰録からは知らない優しさを向けられた。だからタイランは駄目になってしまった。
街にいるよりも息のしやすいこの場所で、出口がないことを理由にしてここにいるのだと。二人へと仕方ないを振る舞う己が嫌になる程、タイランはここに馴染んでしまったのだ。
「認めるのが、怖い……」
「タイラン……」
戦慄く唇で、呟いた。あれほど弱みを見せたくないと思っていたドウメキに、タイランは初めて本音を口にしたのだ。
こんなに難しいことがあるのか。そう思うほど、身に起きた出来事をドウメキへと話すことは骨が折れた。
初対面からタイランの動揺を煽る、こんな男に頼ってたまるか。そんな妙な意地の出どころは、男として上等なドウメキに対する劣等感から来たのかもしれない。
タイランは、巫力がないからこそ、誰にも弱みを見せまいと振る舞ってきた。それは強さなんかではなく、出来のいい弟の手前、頼りない兄だと周りから思われたくなかったからだ。
だからこそ、ドウメキの前でも、同じように振る舞った。取り繕うことなら、誰よりも秀でていると思っていた。しかし、先に根をあげたのはタイランの方だった。
「記憶が重なる、か」
寝台の上に横並びで腰掛ける。慣れぬ優しさを前に、タイランの情けない部分が先に晒されていた。濡れた頬を袖で拭う。今更になって、口にしたことを後悔しているのだ。
俯くタイランの真横で、ドウメキだけは生真面目な声色で宣った。
一蹴して、放っておいてくれればいいのに。狭い部屋の入り口を陣取るかのように、喰録までもが猫のような香箱座りでこちらを見つめている。
幼い子供のように俯きだまりこくる。タイランの形のいい頭に、大きな手が触れた。
「っ……」
「お前の頭痛は、病気でもない。記憶が重なる理由も、俺にはわかる」
「わかる、のか……?」
「ああ、しかしな……」
言い淀むドウメキの視線が、こちらを窺うようなものに変わる。
タイランの緊張感を前に、いいあぐねているのだろう。それは、タイランの知らぬ前世が確かに存在すると、口にされるよりも分かりやすかった。
一瞬浮上した気持ちがわかりやすく萎む。顔に影を落とすように、タイランの表情が曇った。知らぬ記憶に怯えないで、気にしなくていいとドウメキに笑い飛ばして欲しかったのだろうか。
都合のいい答えを期待するなど、最初から無駄であることはわかっていただろうに。
「お前の、……お前の言い分を、受け入れればいいのか」
投げやりになった気持ちが、意識もなく言葉となった。震える手が、口元を抑える。剥き出しの心が悲鳴をあげて、ついまろび出てしまった言葉だった。これ以上はいけない。訳のわからない八つ当たりをしてしまいそうで怖かった。
静かに黙りこくるドウメキの顔色を窺うように、タイランの琥珀の瞳がそっと紅い瞳を見上げた。
「……それを、否定してほしいのだろう」
ドウメキの眼差しは、ひどく柔らかかった。
怯えを汲み取るような声色に、タイランは膝の上に置いた手で拳を作る。
知らぬ前世があることを認めるのは、きっと楽だろう。しかし、それはタイランとして生きた今までを否定するようで怖かったのだ。
「俺が、お前の言う守城の生まれ変わりだと言うなら……俺の人格はどうなる」
記憶に、体を乗っ取られるのが怖かった。本音を口にした今、もう後戻りはできないだろう。
ドウメキは押し黙った。問いかけに対する答えを持ち合わせていないのは当たり前だろう。前世が人格を変えるかもしれない。そんな恐ろしい症例が、いくつもあってたまるか。
白くなるほど握り締められたタイランの拳に、ドウメキの手が重なった。力を抜けと言われるように、指の隙間に手が入ってくる。包み込むように温められた手は、少しばかし窮屈だ。
「すまなかった」
ドウメキの表情は、痛みを堪えるかのようにも見えた。きっと、気丈に振る舞っている。そんな表情をさせているのは、他でもないタイランだ。
「今の俺には、気の利いた言葉をかけてやることはできない。それは、お前の思っていることが当たりだと言う意味ではなくて……、なんだろうな、……俺には、人の心を慮るのが得意ではない」
「何が言いたい」
「……すまない。不安にさせているのはわかっている。だが、お前の感じる懐かしさの中に、俺達は存在する。無理に思い出そうとはしなくて構わない。だが、俺がこうしてそばにいることだけは、受け入れてくれないか」
タイランは小さく息を呑んだ。心が痛いのは、ドウメキもまた同じだ。それに、ようやく気がついたのだ。
死んだ守城を待ち続けていたのは、ドウメキだ。そして、タイランを守城の生まれ変わりだと言って、喜んだ。
まるで失われた記憶を補うかのように蘇る、経験のない光景に怯えて気を回せなかったが、タイランはそれを強く否定し続けた。言葉を選ばずに、淡々とドウメキの思い出をないもののように扱った。
信じているものをないがしろにされるのは、痛い。それは、タイランが一番わかっていることではなかったか。
「……すまない、手を離してくれ。落ち着いたから」
「一人で外には出せないが、共になら構わない。気分転換くらいにはなるだろう」
「いいのか」
その言葉に、タイランは顔を上げた。本当はあまり好ましくないのだろう、苦笑いを浮かべるドウメキを前に、少しだけ居た堪れなくなった。
「記憶がお前の感情に影響を及ぼしても、俺がそばにいる。何も怖いことはない」
タイランの言葉を無視するように握り締められる手のひらに、安心してしまった。
血が通っている。ドウメキの手のひらは、己よりもあたたかい気さえした。
「……わかった。」
「ならば今行こう。こういうのは、日にちが開くといけないのだ」
にい、と犬歯を見せつけるように笑う。妖魔のくせに、随分と無邪気な顔をするものだ。
唐突な提案に、ぎょっとする間も与えられない。大きな手のひらに主導権を奪われたまま、タイランは声を漏らす間もなく立たされた。
「まて、そんな急に」
「喰録、背に乗せろ。久方ぶりに湖に行こう!」
「どこの湖だ!」
「タイランが落ちかけた先にある場所さ」
喰録の妖魔らしい顔が、にたりと笑う。相変わらずの複音の声ではあったが、タイランは怖じることなく受け止めることができた。
慣れたのだろうか。そのまま手を引かれるように連れてこられたのは、城の最上階だ。
「嫌な予感がする、ちょっと待ってくれ」
「おや、咥えられるのがお好みならそうするが」
「そうではない! おい、なぜ腰に腕を回す。こら、離せドウメキ!」
成人男性である筈のタイランを、ドウメキは軽々と持ち上げた。伏せるように身を低くする喰録の背へと乗せられると、いよいよ飛び立つことが現実味を増してくる。
妖魔に騎乗したことなんてない。タイランは、焦ったようにドウメキへと視線を向けるが、説明を受ける前に体の距離が近くなった。
「落ちはしないさ。喰録は空を駆けるのが得意なんだ」
「もう少し前に来てくれ。羽根が出しづらい」
人は、意図せぬ状況に陥った時には声も出ないらしい。呑気なドウメキに腹を抱えられるようにして、体を支えられた。
背中に感じる熱から逃げようと身じろぐ。図らずとも、それが喰録の羽根を広げる手助けのようになってしまった。
「待て、本当に待て、これはいけない」
「意地を見せろタイラン。男なら、時には括らねばならぬ腹はあるだろう」
「それは、確実に今じゃな、あ」
喰録が身をしならせるようにして駆け出すと、外を隔てる欄干までの距離を詰めた。
長い黒髪が、ドウメキの顔をくすぐるようにして流れていく。臓器を無重力に任せるかのような不快感が、タイランの身を苛んだ次の瞬間。空中を叩くような音を立てて、喰録の大きな翼が広がった。
「う、うわあああああ‼︎」
「あっはっはっはっは‼︎」
情けなく上がった悲鳴は、山の木霊が返事をした。冷たい空気が肌を撫でる中、近づく青を顔に移したタイランに、ドウメキが高笑いをする。
三度目の泣きっ面を見せたタイランによって、ドウメキは顔面で拳を受け止める羽目になるのだが、それはまた別の話だ。
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