第二話
濡れた紙の上でインクが滲むように、空はゆっくりと藍色に染まり始めている。透けるほど淡い雲の隙間に、エマは剣のような
エマが知り得る限り、最も三日月に似ている形といえば、切り落とした爪の欠片だ。孔雀青色のタイルの上で白い爪くずを見つけたら、きっとこの空のようになるはずなのに、月を見てすぐ爪切りのことを思い出すことは滅多にない。
物心ついてから飽きるほど見ても月はいつも綺麗だった。それも不思議といえば不思議だが、エマが爪のような月を見て美しいと感じることも不思議だ。少なくとも、月を見て美しいと思うより先に爪の切り屑を連想したことはない。
果たして世の中の固定概念と呼ばれるものは、こういった感情も含まれるのか。
こういう考え方もある。
あのぼんやりとした衛星も、指で触れられるほどそばで見ると、人の心を惹いてやまない鮮烈な色をしているのかもしれない。
どのみち正解を求めるすべはなかった。エマにはもう教えを乞う相手も教科書もない。無機質なベッドがずらりと並ぶ共同寝室も、マグネシウムリボンをくすねた理科室も、それを燃やした校庭も、こっそり手紙を回す静かな夜も、青林檎の匂いがする煙草をふかす友人も、夕日の光を反射する小川、その上に穏やかに影を落とした古い温室もすべてない。
エマにとって過去は、きっと口の細長い一輪挿しの花瓶のような形をしているものだった。中に落としたものを取り出したくても手が入らず、ただ覗き込むことしかできない。きっとそうしているうちに、何が入っていたかは忘れてしまう。きっとそんな花瓶だ。
エマは手中に大切に握っていたものを、そっと外套のポケットに仕舞いこんだ。コルネイユの名前が書かれたメモだ。傍から見ればほとんど塵と区別のつかぬ、学校で使っていたノートの切れ端である。
不安に溺れてアルコホルをあおっていた頃のことなので覚えていないが、おそらく夜か授業中、こっそり筆談で遊んでいたのだろう。
学校の荷物をまとめて処分する直前にこれを発見できたのは、エマにとってほとんど奇跡であった。
エマは「コルネイユ」というあだ名について、てっきり鴉のような長めの黒髪が由来だと思い込んでいたのだが、その筆談の跡から別の理由を知ることとなる。
メモから判明したことは、コルネイユはド・コルボー男爵家とかいう貧乏貴族の末裔らしいこと。さらに、彼は「玻璃の峰」と呼ばれる辺鄙な山間部で生まれ育ったこと。
エマはこれまでコルネイユの姓などすっかり忘れていたので、これには新鮮に驚いてしまった。
短く断片的な筆談からエマが察するに、どうやらコルネイユという呼び名は当初、ド・コルボー男爵家の芋臭さを嘲笑う意味合いを帯びていたようだ。
もしかすると彼に親しい友人がいなかったのは、どうにも中途半端な出自のためだったかもしれない。よく目立つサックスブルーの瞳と整った容姿ゆえ一目置かれている節もあったが、それでも本当の意味での高貴な子たちとコルネイユは似ても似つかなかったのだから。
それにしても、こうしてノートの落書きの断片から、ほとんど妄想のような推測ばかりしているのは随分とおかしなことだ。エマも彼らと確かに同じ時間、同じ場所に居たはずなのに、春にはどんな話をし、夏には何をして遊んだかをこうまで覚えていないとは。
少ない手掛かりから想像ばかりしているのは、まるで後世の歴史学者のようである。
そう例えれば笑い飛ばすこともできるだろう。けれどエマは、寂しさと仄かな悔恨が、心臓にこびりついて片時も剥がれずに在ることを、無視し続けることはできなかった。
祖父の葬式のときはまだ幾分かましだった。脳は恐れていた不安が現実化したことでなぜか満足気であり、高揚したのか麻痺であったのか、妙に思考が鈍化していたように思う。
それに、喪服を着て涙を流しているあいだ、エマは可哀想で哀れむべき孤児であることを、何者かから許されていたような気がした。漠然とした悲しみ以外のあらゆることを、何も考えずに済んだとも言える。
けれどそれが落ち着いてくると、今度は次第に失ったものの多さに気づき、落葉のように虚しい寂しさが募ってゆく。
実際のところ、エマが寂しさに苛まれるのは孤独のためではない。もちろん祖父の病のせいでもない、と今は思う。
祖父が亡くなる何ヶ月も前から、エマは自分のことも、大切に持っていたはずの何かも、友人も、そのとき流れていた水も、風も、時間も、目の前に存在し、エマが全身で感じることができた様々なものを、おのずから手放してしまった。あの春の頃、エマにはまだ失わずにいて良いものが数多あった。
指図されたわけでもないのに、早々に手放し、失うことを始めたのは、他ならぬエマ自身である。
祖父が死んだとき、エマもじきに死ぬつもりだった。他の道がないこともないけれど、どれもが果てしなく困難で、生殺しのような苦痛を伴うものばかりのような気がして、実質的には死を選ぶほかないように思われた。
死ぬはずだったのだ、本当に。
それが図らずも、田舎育ちの編入生を揶揄う相談の記録がエマに小さな希望をもたらすこととなる。
死を望む気持ちが完全に消失したわけではない。けどれ、どうせ死ぬなら一度旅をしてみたい。
エマはこれまで旅行をする機会に恵まれなかった。旅先で家族を亡くした由もあり、脚の悪い祖父が遠出を厭っていたためである。しかしながら、それはあくまで祖父の都合であった。祖父の少ない遺品を片付けながら二、三日ばかり思考を巡らせてみたが、エマの心は旅に出ることを恐ろしいとは思わない。
どこか知らない場所へ、一人で行ってみても良いのではないか。生まれて初めてのことであったが、エマはごく自然にそう考えた。
孤独と困難から逃れるための死を始点に、不思議な順路で「旅」という答えを導き出すことは、世間で言うところの自暴自棄かもしれない。
とはいえエマの脳はいたく長い間、不安と孤独、そして死のことばかりを考えていたというのに、突然そこへ楽しげで楽観的な趣の「旅行」という閃きが降ってきたことには自分自身少し驚いた。
エマが死を受け入れたことを引き金に、いつも時計回りに動く脳が逆さに回り出すような、何らかの錯誤が起きたのかもしれない。
公現祭を間近に控えた一月の折。当然ながら資金は少ないが、行き先は一つしか思い浮かばなかった。
白雪の中で美しく咲くというあの薔薇をひと目見たい。
本音を言えば、まだ秋の香りが濃厚に漂う頃から、ずっとそれのことを考えていた。白い雪原に一点、ぽつりと血を垂らしたような紅。あるいは
エマは見知らぬ駅で汽車を待ちながら、何度も三日月を探した。
知らない土地ばかり走る鉄道、名前も知らぬ山と葡萄畑が広がる余所余所しい風景、それに耳慣れない駅員のアクセント。すべてがエマに素っ気ないなかで、月だけはいつも通りの見知った月である。今日ばかりは晴れていて良かった、と、臆病な胸をそっと撫でおろした。
二十時過ぎに夜行列車へ乗り換えた後、エマはほとんど眠らなかったが、疲れは感じなかった。
朝日がいつ昇ったのかは定かでない。東の空は、煙管から吐き出される蒸気によく似た薄墨色の雪雲に覆われていたのだ。
身体を動かしたくなり車両を行き来していると、気の良さそうな老夫婦にどこへ行くのかと尋ねられた。
「玻璃の峰です。友達の生まれ故郷だから」
夫妻は頷きながら、示し合わせたように顔を見合わせた。
「ああ、玻璃の峰。一度だけ行ったことがある」
「晴れた日だったからね。どこもかしこもすっかり凍り付いていて、町中すべてが硝子でできたように見えたものだよ」
「幻想的な光景だった。実に忘れがたい」
「それはそれは綺麗だったけれど、一月は雪が多いから」
「あそこへ行くのは難儀だろうな。駅の近くで車を見かけたら乗せてもらうと良い」
「あの辺りの子どもたちは皆そうしているみたい」
「もう駅に着くようだよ」
「ええ、そろそろね」
「くれぐれも気を付けてお行きなさい」
「気を付けて」
交互に喋る夫妻に礼を言い、エマは水筒を鞄に仕舞って下車の準備をする。
「でも行かないほうが良いんだよ」
「そう、きみは探そうとしてはいけないよ」
エマが汽車を降りる直前、エマの耳に再び先ほどの夫妻の声が聞こえた。
「見つけないで」
ごうごうと汽車は走り去ってゆく。汽笛の音が鳴った。玻璃の峰は塔のようにそびえ立つ山々の合間にあるという。
深呼吸をすると肺が痛むほど空気が冷たい。頭上からひらひらと落ちてくる雪は、不思議と柔らかで温かく感じられた。想像していたよりも寒さが穏やかなのは、風がないせいかもしれない。
エマは綿菓子のような息をほうと吐きながら駅を出た。早朝の道はほとんどが新雪に覆われたままで、エマが歩を進めるたび足の下できゅうきゅうと鳴く。初めて聞く音ではないが、こんなに大きくはっきりと聞こえるのは初めてで少し驚いた。
――白い道の上に自分の印を刻みつけることは。
エマは想像する。この見知らぬ道を行くことは、エマが遠くからここへ訪れたことを誰かに報せる儀式のようであった。
点描 平蕾知初雪 @tsulalakilikili
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