点描

平蕾知初雪

第一話


 コルネイユがいつもポケットに忍ばせている煙草は独特な甘い匂いがした。柔らかな酸味をともなったそれは、肺へ吸い込みきらぬ間に鼻腔のなかで儚く溶けてしまう。どこか玩具めいたその香味は、まだ青を残す林檎の果実を想起させる。


 コルネイユが神学校の中等部へ編入してきたのは、鈴蘭を揺らす風が心地良い春の日だった。編入初日の彼は、半袖と長袖のどちらのシャツを着るべきか迷ったかもしれない。

 一方その頃のエマニュエル・ピアフは、後見人である祖父が病に伏したことを知らされ、しょっちゅう気を失って倒れていた。寮監の神父には心労による寝不足のせいだと涙ながらに説明したが、アルコホルが原因だった可能性も大いにある。


 ともかくこの頃のエマにとって、不安と悩み以外のすべては些末なものであり、そよ風のなかに鈴蘭の香りを見つけるような喜びはもちろん、編入生に親切な言葉をかける余裕もまるでなかった。


 ふと、図書館に向かう途中にある大鏡を見たのが六月の終わり。エマの頬は丸みを失い、乾いてくすんでいた。ようやく自らの亡霊のような相貌に気づいたのだ。もともと栗色のはずの巻き毛が、そのときだけはどこか鼠色のように明るさを失って見えたのが不思議で、大鏡の前にしばらく立っていた覚えがある。

 むしろ、それ以外のことは日がな一日思い詰めていたせいで、ほとんど記憶に残っていない。勉強など一切手につかなかったのに、期末試験をどうこなしたのだろうと、それだけは少し知りたい気もする。


 エマには、自分が未だ十三にも満たない、無力で世間知らずの小童だという自覚があった。煙草でもアルコホルでも何でも構わないから、何か縋るものがなければ到底一人きりで生きてゆくことなどできない。

 来る日も来る日も、近く訪れるであろう孤独に怯えていた。


 昔、エマの両親を死に至らしめたのは船舶の事故だった。幸い、幼いエマは隣家に預けられていたため助かったが、両親と同じ船に乗っていた祖父もまた大怪我を負い、今も脚に後遺症を抱えている。以来、祖父とエマは家を売り、慎ましい生活を送ってきた。

 いずれエマはこの寄宿舎で暮らせなくなる。おそらくは卒業するよりも早くに。そうしたら、その先は。

 家賃の当てさえないのにどうして暮らしてゆけるかもわからず、夜ごと膨らみ続ける瓦斯ガスのような重苦しい不安に、じわじわと首を絞められるようで苦しかった。寝ても覚めても心休まらぬ日々が続き、人生で最も歓びから縁遠い夏休みも気づけば終わっていた。


 後から思えばそのせいだろうか。

 新学期に入り、さして親しくもないコルネイユにわざわざ声をかけたのは、気を紛らわせるために煙草をねだったことが初めだったかもしれない。


 コルネイユとエマが神学校で過ごした時間は、振り返って数えれば僅か半年足らずであったが、その間彼にとりわけ親しい友人はいなかったようである。

 とはいえ、「からす」コルネイユと揶揄するようなあだ名が浸透していたくらいなのだから、共同寝室や食堂で言葉を交わすものはいくらかいただろう。

 彼は自堕落な不良でも暴力的な悪人でもなく、あるいは変人奇人の類でもなかった。自習室では退屈そうにあくびをし、ミサのときは面白くもなさそうに飛びまわる蠅を目で追う。彼の黒いまつ毛とサックスブルーの瞳はときどきいたく蠱惑的で美しかったが、天使と称するに程遠い。


 つまり彼の素行を含めた学校生活は、ごくありふれていて、エマを含むその他大勢と少しも変わりないものであった。



 寮監生や神父らの目を盗み、二人はたびたび温室の横を流れる小川へ行った。もしも二人きりになりたいのなら温室の中へ入るのが良いらしい。

 煙草の残香が髪に染みこむと都合が悪いので、エマとコルネイユには風が吹き抜ける小川の脇が最適だった。

 靴下を脱いで流水に足を晒してみたのは二回だけ。川の水は麦畑やそよ風より早く秋めいて、九月にはもう冷ややかであった。


 季節が移ろっても、二人は冷たくも温かくもない会話を繰り返した。

 ただ青林檎を思わせる吐息をひたすら辺りに充満させるだけで、秘密を共有したこともなければ転げるほど笑いあったこともない。ほんの僅か特別な点を挙げるとしたら、二人の少年にとってそのひとときは、決して心地悪いものではなかったということだ。


「きみはマッチを擦るのが好きだな。それは、癖になっているの」

 鴉の羽根のような前髪が片目を覆っているのをかき上げもせず、コルネイユは煙草を挟んだ手でエマの手元を指差した。たった今、わけもなく灯したマッチ棒を摘んだ指先がほんのりと熱い。言われてみればこの熱は、今日初めて感じるものではなかった。と、エマは午睡から覚めたように思い出す。


「火遊びがしたいから仕方なく煙草を吸うんじゃないか。きみは違うのか?」


 コルネイユは珍しく声を出して笑った。とはいえ彼の声はひそやかなもので、乾いた秋風とコルネイユの発した軽い声は随分と相性が良い。いま、風に乗って彼の声は随分遠くまで流れていったのではないか。エマはそんな想像をしながら、短い煙草を唇に咥え直した。


「てっきりエマは科学者気質なのかと思っていた。いつかマグネシウムリボンを校庭の隅で燃やしていたのは、そういうことだったの。勉強熱心ではなくとも芸術家には近そうだ」

「子どもっぽいと馬鹿にされるつもりで言ったのに、きみの評価はなんだか中途半端だな」

 かえって据わりが悪い、と溢しながら、エマは再びマッチの先端に視線を落とす。エマの蜂蜜色の瞳に小さな火が揺蕩って映っていた。そのどちらをも眺めながら、コルネイユは相変わらず愉快そうに微笑んでいる。


「マグネシウムリボンのあの強い光は、面白いから僕も好きだけれどね。炎のような強烈な色を見つけてしまったら、誰でも心惹かれて惑わされるだろう」

 エマは既にいつもの調子に戻っていたので、コルネイユの言葉には応えなかった。相槌を打つ代わりに、青白い煙を口からぽっぽと吐き出す。


「エマ、この炎はなに色に見える?」

 マッチ棒を擦りながらコルネイユが問うた。赤燐のざらつき。小さな火の花が爆ぜる小気味良い音がして、思わずそちらに目を遣ってしまう。

「マッチの火なら、橙かな。いや、どちらかというと青か、紫……そんなに小さくてはわからないよ。理科の授業を始めるつもりか、コルネイユ」

「きみはマッチの絵を描くとき、青や紫の絵具を選ぶかい」


 エマは想像する。真っ白のキャンバスを前にして、逡巡するように絵具ケースの上を動く自らの右手指。最初、ためらいがちに人差し指が触れたのは橙と赤の二本だ。その間も中指と薬指は迷っている様子で、まだ忙しなく動いている。が、それも束の間で、エマの指は最終的にケースの中から一本のチューブを取り出した。


「赤だ」

「だろうね」


 僕は昔から、世界中で赤ほど強烈な色はないと思っている。


 コルネイユの声はときどき、どこか詩をながむような不思議な響きを孕む。それを耳にするたび、エマは夢現の境を見失ったような感覚をおぼえるのだった。


 ――僕の故郷には真冬に咲く薔薇がある。

 毎年、大抵は降誕祭ノエルの頃に蕾が開き始めて、公現祭エピファニの頃には満開になるんだ。雪を被っても平気な花だから、膝上まで積もった新雪を掻き分けて遊んでいると、ふいにその真っ赤な薔薇と出会ってしまう。

 そうすると僕は、僕たちは、ついついから目が離せなくなるんだ。白い雪の中に唐突に現れたその見事な赤に心を奪われて、まるで時が停まったようにね。いつまでもいつまでも見惚れて離れがたくなってしまう。真っ白な雪の中に埋もれて咲く赤色の花弁は、それほどまでに鮮やかで――。



 コルネイユのうたはそこで終いだった。しっとりした黒髪を揺さぶるようにかぶりを振ると、川へ向けて小さくなった煙草を弾き捨てる。

「僕ときたら、もう次の休暇に帰るのが待ち遠しいのだろうな。つい要らない話をしてしまったけど、きみはその薔薇を探そうなんて思わないことだよ。僕の故郷は田舎だし、きみは都会育ちだろうから。一番近い駅へ来るだけでもくたびれて、行き倒れて凍死するのは嫌だろう」


 一瞬、エマの心臓は脈打つことを忘れたのかもしれない。

 コルネイユの青い瞳は房のような黒髪にほとんど隠されていたにも関わらず、まさに射貫くような鋭さでエマを見つめていた。彼はそのとき、確かに警告めいた鉄釘を、エマの顔にかかる巻き毛ごと、きんと額に突き刺したのだった。

 氷のように冷たい釘を頭に突き刺されたエマの脳は、このとき疑似的な死を体験したかもしれない。コルネイユに「帰ろう」と促されるまで、たった一度のまばたきさえできなかったのだから。



 何も特別なことではないのに、どうしてかエマはそれからというもの、コルネイユが話した薔薇のことをずっと忘れずにいた。

 コルネイユが紫煙の合間に漏らすように語っていた、見たことも聞いたこともない真冬の薔薇。重く青く白い雪の隙間から覗く、きっと業火のように赤い花弁。その鮮烈な赤のイメージは、焼印の色でもあったのかもしれない。爛れた赤い鉄でしっかりと押し付けたように、もう二度と忘れることも逃れることもできぬほど、それはエマの脳にくっきりと刻まれてしまった。


 さらに言えば、探してはならないと言われたことまで鮮明に覚えているのに、そういう約束に限って反故にしてしまうのはなぜだろう、と不思議でならない。


 祖父が息を引き取ったのは、冬の休暇が始まってすぐのことである。

 以来エマが学校へ戻ることは二度となく、また、コルネイユと再び言葉を交わすことも生涯叶わなかった。






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