Fin
深く呼吸をして動悸を抑え、病室に入る。
「陽和」
上弦が覗く静かな夏の夜、僕は彼女の名を懐からそっと取り出すように呼んだ。
「なに? 岳彦」
呼び声に応えて、陽和は僕の顔を見た。
「高校の時、覚えてる? 入院する前に、手紙で呼び出して、それで」
「ああ、『ぼくとちゅきあってくだひゃい!』ってやつでしょ?」
「なんでおちょぼ口で間抜けた低い声で再現するの。今、滅茶苦茶シリアスな空気で話してんのに」 そして、やっぱり聞かれてた。「アハハ、ごめんごめん。あまりにも岳彦が面白くて、忘れらんないよ。しかし、あれはマジでウケたわ。グヒヒヒヒ」
笑い声を必死に押さえて悶える陽和を見て、僕の中の決心が少し揺らいだ。
このままでいれば、余計にお互い苦しむことはないのしんてい くびきではないか。そう心底の軛が囁いた。
「にしても、今考えたら、岳彦もかなりの物好きだよね。こんな私と一緒にいたがるなんて」
「急に何を言ってるんだよ」
「だってさ、私って変な女じゃん? うるさいし、見た目詐欺の性格だし、腹黒いし、あんまし周りからいい風に思われてない。こんな私と一緒にいたがるなんてさ。やっぱり、岳彦って相当変人だよね」
震えている。彼女の重ねた手が、小さく怯えているように。それを見て、僕の中の何かが吹っ切れた。
「もしかして、岳彦って私のことが好きなの?」
「うん」
即答だった。自分でも驚くほど、考える間もなく口にした。
陽和もキョトンとしていて、暫しの間が空いた。
「ほ、本気?」
「本気だよ」
陽和は動揺していた。
「ウソ。正直、最初に会った時に声をかけたのは、ただの暇潰しだったんだけどなー。いじめられてるのは、見てすぐにわかったよ。だからって同情はしてないし、本当に退屈しのぎにちょっかいを出しただけ。だから、あんたの気持ちなんかこれっぽっちも······」
「わかってる」
僕は陽和の言葉を遮り、そっと手を握った。
「わかってるよ。きみが嘘下手なの」
「え?」
「それだけじゃない。元気で、大人しくいられなくて、つまらないのが嫌いで、やんちゃで、寂しがり屋で、甘えたがりで、バカで、正直で、優しいってのは。前からずっと、わかってたよ」
「岳彦? ふざけないでよ。私は、あんたに······」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
陽和、ごめんね。僕だって、譲りたくないんだ。
「曇天の下の灰色じゃない、きみの彩る綺麗な世界がいい。きみに隣にいてほしい。いつまでも、一緒にいたい」
涙を堪えて、はっきりと口を動かす。でないと、終わらない。
「きみが好きだ。僕と、付き合ってください」
あの日に遡って、一番かけたかった言葉をやっと伝えられた。緊張はしていない。心底の軛は崩れ落ち、僕はようやくやってのけたんだ。
「いいの? 私は、もう······」
「僕も、いい加減はしたくない。聞こえなかったのなら、何度だって言うよ。きみが好きだ。だからずっと一緒にいたい」
彼女の目からは涙が溢れていた。拭いながら、バカ、バカと僕に罵詈雑言を浴びせてくる。でも、陽和は怒っても、悲しんでもいなかった。
「バカ······あんたの方が、バカじゃん······」
そっと抱きしめて、今の今まで溜め込んでいた陽和の全てを受け止める。
涙に溺れた目を閉じると、彼女は僕を離さないように腕に力を込めた。そして、僕たちは奥深くまで沈んでいった。
最後に感じたのは、彼女から流れ込んでくる熱と、この言葉だけだった。
「どんだけ待たせんだよ。······バカ」
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