#3
鬱屈として、僕の体は陽和を前にして動かなかった。呆けていると、仕事帰りに立ち寄ったのだろう天根父が来ていた。
「岳彦くん······」
囁くように僕の名を呼び、隣に座った。
「その、連絡しようかどうか迷ったんだが、どう話せばいいのか、わからなくて······すまない」
「なんで、あなたが謝るんですか? おじさん達の方が、部外者の僕よりもっと辛い筈ですから、そんなこと言わなくてもいいんですよ」
じーちゃんの葬式に行ったことがあるが、なんの感情の揺れ動きも無かった。誰かに対して、ここまで悲しむのは陽和が初めてだ。
「医師の話だと、陽和の病気は―――」
天根父は、医師からされた説明を話してくれた。
『
これが、陽和を蝕む病の症状だった。
その症例は、新月だと意識は清明でなんの障害もないのだが、満月になるとその逆。段々と意識が薄れていき、体さえも動かせなくなっていく。ついには、死体と変わらなくなるのだそうだ。
「なんですか? そのふざけた病気は」
「私も、最初は信じがたいと憤慨したよ。だが、日に日に陽和は弱っていってね。今日がその満月なんだよ。そしたら、こんなことに」
夕焼けの傍らに浮かぶ月は、確かに満ちていた。そういう奇病なのは、本当のようだ。
「おばさんは?」
天根母の心境を訊いた。あの人は陽和とは真逆の性格で、無口で少しネガティブな空気を漂わせていたから、どう思っているのか心配だ。
「妻も、最初聞いたときには同様に怒っていた。だが、実際に目の当たりにしたら、今の君よりひどい状態だよ。失神して、今度は鬱になりかけている」
やっぱり。耐えられなかったのか。
僕も、かなり危ういラインだよ。これが悪夢なら、とっとと覚めてほしい。
「まさか、君が来てくれるとは思わなかったよ。連絡してなかったとはいえ、娘のことをずっと待っていたのかい?」
「そうですね。彼女の口から、『恥ずかしい』なんてらしくない単語が出たのが気になって。さすがに、待たせ過ぎてしまいましたけど」
「そうか。それでも、嬉しいよ。陽和も喜んでいるさ。また来てくれたまえ」
僕の肩に手を当ててそう言い、天根父は病室を出ていった。
夜が更けても、僕の腰は上がらず不動のまま。そこに、見回っていた看護婦が来た。
「あのう、もう少しで面会時間が」
「······すみません。すぐ帰りますので」
まだいたい。そんな気がした。 今一度陽和に振り向いて、僕の想いはようやく固まった。
それからは、毎日通うように心掛けた。
今日あった出来事、友達との雑談を話して、彼女の心の居所を確かめる。
下弦までの五日間は、明確なリアクションは無いものの、日に日に指や眉などの部位が微々ながらに動いて、陽和はここにいるという意思が感じられた。
半月ともなると、ベッドからは抜けられないが、会話が可能になった。口調は片言気味ながらも、生き返ったような陽和の気色(きしょく)豊かさは、春の訪れのようで温かくかつ喧しい。だけど、それだけで次の日が楽しみになる。 そして、新月。この日に訪れると、風に吹かれる彼女の姿を最初に見る。
「今日はいい見舞い日和?」
いつもの口癖から始まり、気を抜くと嬉しさで涙を流しそうになる。
「なになに、泣いちゃうの?」
「泣かねーよ!」
そんな趣味はないのに、からかわれるのが楽しい。
「今日は外に行こーよ」
「いいの? 医者の許可は?」
「ふっふっふ、とってあるよ!」
ドヤ顔でサムズアップしていたが、やはり陽和はやらかした。
誰にも気づかれずに脱走して、街を歩き回った。菓子を奢らされ、公園で散々遊んで、帰ると二人共怒られる。
こんなことがありながらも、陽和はニコニコが止まらなかった。
「いやー、遊んだ遊んだ」
「巻き込まれた被害者がここにいるんだけど?」
「あはは、ごめんごめん」
他人事と思いやがって。いつものことだけど。
「そう言えば、今日は新月だったね」
陽和は外を見ながらそう言った。その表情は、どこか儚げだった。
「どうかした?」
野暮だとわかりながらも、僕は訊ねた。
「病気のこと、お医者さんから聞いた。今日みたいに月が隠れてないと、岳彦と外で遊べないんだよね」
少し陽和の表情が暗かった。
「らしくないよ。そんなの、とっとと治して退院すればいいじゃん。いつまでも待ってるからさ」
「······ありがとう」
そう言ったときの彼女は笑顔だったが、いつものとは違うように見えた。穏やかで、柔らかで、綺麗な笑みだった。
その日からは、下り坂。
新しくなった月が満ちてくると、陽和は遠退いていった。上弦を境に、日に日にベッドから出られなくなっていって、声も聞けなくなって、冷たくなっていった。
闇夜を照らすあの満月を、今の今まで、これほど嫌な存在だと思ったことはない。他人にとっては光を恵んでくれるが、陽和を拐っていってしまう。 確かにかぐや姫だ。だからこそ、余計に憎たらしい。
「それでも、私は嫌だなんて思ったことはないよ」
いつかの陽和はそう言っていたが、僕はそうはいかなかった。彼女が彼女でなくなる数日は、胸を抉られている感じがするんだ。
「でも、月見ができないのはちょっと損かな。お餅とか食べれないし、満足に和の風流を楽しめない」
呑気にも程がある。少しは自分の身を案じてほしい。なんでこいつは、こんなにも清々しく前向きに考えられるんだよ。
そういうところなんだよな。鬱陶しいのに、陽和を許せているのは。だからこそ、いつまでも彼女にはいつまでも彼女らしくあってほしかった。天根陽和という少女が、続いてほしかった。
そんな僕の理想に反して、現実はさらに乱暴になった。高校二年になっても、陽和は退院することはなく、未だに月に囚われ続ける毎日を送っていた。
そして僕も、数日はなんとか耐えて、数週間はまだ我慢できた。数ヶ月ともなると、慣れてきていた。一年以上も経つと、自分でもわかるくらいにおかしくなっていった。
彼女が静かに眠っているときでも、僕は突きつけられた現実から背けないように向き合って、変わらない日常を贈ろうとしていた。だが、いつの間にか人形相手に喋っている感覚だ。
虚しい。馬鹿馬鹿しい。何をふざけているんだ。胸の内で真っ黒な泥水が渦を巻いている。
前までに抱いていたものは、それにすっかり埋まってしまった。掘り返したら、どうしようもなくなりそうで怖い。
気づけばまた、目の前が灰色に戻っていた。いや、もっと酷い。
モノクロだ。
木枯らしが吹く十一月上旬。珍しく、天根母がいた。ここで会うのは初めてだ。
「こんにちわ」
挨拶をすると、天根母は深くお辞儀をして返した。 今日は満月が浮かぶ。陽和は機械の手を借りて、ぐっすりと寝ている。
天根父とは何度か会ったことはあるが、天根母は初めてな気がする。陽和に話をしたかったが、親がいると色々と気まずい。そう思い、病室を出ようとした僕を、天根母は呼び止めた。
「岳彦くん、ちょっといい?」
声を聞くのはいつ以来だったか。天根母は無口で暗い印象だ。声を発しているところは、あまり見たことがなかった。
僕の母曰く、少しシャイだけどお菓子作りが上手で、暇な時によく教えてもらっているのだとか。
二人きりで話すのは初めてだ。だからか、少し緊張する。
場所を、陽和のいる病室の近くの自販機前に移して、天根母は頭を下げた。
「まずは、いつも娘と仲良くしてくれて、ありがとう」
「どうしたんですか? 急に改まって」
それよりも、僕は天根母が心配だった。以前、天根父が話していたことを想起していたからだ。
見ていると、一層影が濃くなった印象がある。
「あのね、たださ、その、申し訳ないなって、思って······」
肩に垂れた黒髪を指で巻き取りながら、天根母はそう言った。
「申し訳ない? ああ。別にいいんですよ。これは僕が好きでやってるんで。それより、僕はあなたが心配だ。おじさんから聞いてますよ。その、おばさんが······」
「わかってる。でも大丈夫だよ。岳彦くんのお陰で、少しは立ち直れたから」
今の天根母の謝礼には、疑問符が上がった。僕が何かしたのだろうか。
「岳彦くん、陽和があんな風になっても、毎日毎日、寄り添ってくれた。私は岳彦くんのそういうところに励まされたの。親として、本当に情けないことを······」
「そんなことありませんよ。陽和だって、喜んでくれてると思いますよ」
声を震わせ、その場にへたりこむ天根母に寄り添う。
部外者の僕が言えることはもう無い。天根母がどんな思いでいたのかなんて、計り知れない。
比べて僕は、ただ陽和のいない日常から脱却したかっただけだ。現実を受け入れていると自覚している。だけど、本当はまだ怖いんだ。本心は、来たくなかった。 それなのに、天根母は僕をいい人間として捉えてくれていた。親子揃って、どれだけ純粋なんだよ。
「ありがとう。岳彦くんみたいな子が、陽和の友達になってくれて、本当に嬉しい。でも、だからこそ、ごめんなさい······」
また謝られた。
なぜそこまで、胸を押さえて苦しそうに謝罪するのか。
次の一言で、全てわかった。
「陽和は、もう······家には、帰ってこないの」
この話の先からは記憶が曖昧で、気づくといつの間にか天根母は帰っていて、僕は陽和の病室に戻っていた。 満月が登って、街の夜景が目に入ったが、この場景を綺麗とは少しも思えなかった。
しばらくすると、看護師が体調チェックをしに訪れた。
「すみません、少し離れてください」
看護師の指示に従い、入り口付近に立つ。天根母の泣く姿を思い返して、恐る恐る訊ねた。
「彼女の病気って、治せますか?」
看護師は静かに作業をするだけで、答えてはくれなかった。しかし、出るときに横切った際、「お気の毒に」と囁いた。
「なんだよそれ」
陽和はこれを知っているのだろうか。知っていたとしても、彼女はめげずに向き合って······いや、違う。安心させたかったんだ。変わらない元気な姿を見せて、悟らさせないために気を遣っていたんだ。
「ひでぇ」
どこまでもふざけた奴。どこまでも鬱陶しい奴。それでいて、とても輝いている奴。僕は、そんな彼女に惹かれた。
天根陽和によって彩られたものが霞み、滲み、滲む、滲んでいく。
············いやだ!
僕はワガママになった。
できる限り彼女の傍を離れないために、高校卒業後すぐに一人暮らしをすることにして、病院の近くにあるビデオレンタル店でバイトも始めた。小太りな店長は支配者面で、僕との相性は最悪だ。
毎日毎日、飽きもせずに不満をぶつけるように新人の僕に無理な仕事を押し付けてくる。
「あの豚店長、いつかぜってー弱味握ってクビにさせたる」
「おう! しちゃえ、しちゃえ! そんな分からず屋は世間のクズだ!」
変わらず陽和は笑ってくれる。
愚痴を言えば、一緒に陰口を叩いてくれる。苛ついたら、一緒に拳を突き上げてくれる。
陽和の内情を知ってから、僕は泣くのをやめた。彼女の前では、病のことを忘れるくらいに下らない若者となって、少しでも安心させようと徹底するために。
逃げたいと何度も思った。挫けそうにもなった。見ていられなかった。辛かった。そんな数多の弱音の中でも一番嫌だったのは、それで終わりたくなかったことだ。一分一秒でも、彼女の傍にいたい。ほんのひとときの取り溢しもなく、天根陽和との時間を過ごしたかった。時には高校時代の友人を連れてはわいわい話して、同じく入院している老若男女とも接する。
春には桜の花吹雪、夏には祭りの花火、秋には紅葉と銀杏、冬は銀世界。四季折々の場景に紛れて、いつかのように二人で病院を抜け出して遊び回った。子供の頃を思い出すように、笑って、はしゃいで、ふざけて、怒られて、やめられずにまた抜け出してを繰り返す。
忘れようのない思い出を、次々に増やしていった。 陽和は満足げにしていたが、僕はそうでもなかった。 なにより、僕には未練がある。まだ、彼女からの返事を貰っていない。いや、そもそも始まってもいないか。
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