25 樒 1



クローズ・西村川の扉が開いた。

微かにベルの音がする。


「いらっしゃいませ。」


黒高が扉の方を見てその笑顔が止まった。


「黒べえ、久し振り。」


そこにはイケメンの中年男性がいた。

だが髪は乱れて少しばかりパサついている。

何となくすさんだ印象だ。


しきみさん……。」


樒と呼ばれた男はにっこりと笑うと黒高に近寄って来た。


「びっくりしたなあ、お前、店を開いたんだな。」


黒高は張り付いたままの笑顔でいたが、

心の中でごくりとつばを飲む。

前に黄色いネクタイを渡した男性が言った。

もうすぐ樒が出て来ると。

その日が来たのだ。


「樒さん、あの、」

「あれから6年か?」

「え、ええ、どうしてここが、」


樒はにやりと笑う。


「それよりもっと聞きたい事があるんじゃないか?」


黒高の顔が締まる。


「……出所されたんですね。」

「ああ、ひと月ぐらい前にな。」


黒高は頭を下げた。


「お疲れさまでした。」


頭を下げた黒高を樒は少しばかり冷ややかな目で見た。


「そういやあ、誰か来なかったか?

面接するから背広を見せて欲しいとか。」


樒は言う。


「ええ、いらっしゃいましたよ。

お買い上げいただきました。」


黄色いネクタイを渡した男の事だろう。

樒にどう言って良いのか分からなかったが、

実際は買ってはいないが黒高は言った。


「背広買ったのか。」


それを聞いた樒は少しばかり馬鹿にした様に笑った。


「面接をされるというので、お手伝いしました。」

「ふぅん。面接ねぇ。」


興味なさげに樒は言った。


「まあ、お前の店も見たし、またお伺いするよ。

今日はご挨拶だけ。」


樒は気安く黒高の肩をポンと叩いた。

そして樒はすぐに店を出て行ったが黒高はただ立ち竦んでいた。






西亀にしきが死んで一年程になる頃だ。

鶴丸が仕事終わりに店のカーテンを閉めようとした時だ。

外に白高が立っているのに気が付いた。


鶴丸ははっとする。

彼を見るのは久し振りなのだ。

最後に見たのは緋莉と西亀の一年前の葬式の時か。


「白太……、」


鶴丸は唖然とした。

葬式の時に見た彼の姿とは全然違っていたからだ。


ひどく痩せて顔色も悪い。

目だけをぎょろぎょろさせていた。

そして手は傷だらけでその血が服に付いていた。


「おっさん、久し振りー。」


おどけた調子で白高はにやりと笑ったが、

その口の中が黄昏時だからか妙にぽっかりと黒く見えた。


「白太、お前どうしたんだ。」


黒高は緋莉が死んですぐに

白高が家を出てしまったと言っていた。

その後悪い仲間とつるんでいる噂を聞いた。


そして鶴丸は白高の後ろを見た。

以前は彼にはなかったものがそこにある。

どんよりとした闇の様なものだ。


あれは邪悪なものだ。


鶴丸は子どもの頃からそのようなものをしばしば見た。

そしてそれを話しても誰も信じてくれない。

普通の人には見えないものなのだ。


だから鶴丸はそれを見ても人には言わず、

それを見たくないので一人で出来る仕事を選んだ。

このシャツ店からなるべく出なければそれを見なくて済む。

この店は彼が長年かけて作り上げた砦なのだ。


だがこの白高はその見たくないものを背負っていた。


「おっさん、ちょっとお願いがあるんだがな。

家に入れてくれよ。」


白高はにやにやと笑っている。


「その手、どうしたんだ。」

「あー、これねぇ、」


彼は自分の手を何度も閉じたり広げたりした。

その度に手から血が滲むのが見えた。


「痛くないのか。」

「全然。」


彼は手のひらを服でごしごしと拭いた。

服に血の跡がつく。

鶴丸はそれを見て彼の足を見た。

白高はサンダルを履いていた。

ズボンの裾はボロボロだ。


彼はモデルだ。

服もおしゃれでダメージ加工されているものかもしれない。

だが今のこの服はただ汚れて痛んでいるだけの様だった。

そしてそこから覗くサンダル履きの足も血だらけだ。

爪が割れている。


「だーかーらー、家に入れてくれよ。」


白高は鶴丸に近づいた。

彼の息が臭い。


「だ、だめだ、絶対に入れねぇ。

お前、おかしいぞ、病院に行った方が良い。」

「どっこも悪くねぇよ、」

「血だらけだろ、救急車を呼ぶ。いや、警察か、」

「ケーサツなんて呼ぶなよ、おっさん、いい加減に入れろ。」


白高は切れかかっていた。

その時二人の声に気が付いたのか満知がやって来た。


「白ち……、」


満知も彼の代わり様に驚いたのだろう。

彼女の顔色が白くなった。


「おお、満知、相変わらず可愛いなあぁ。

会いたかったよ。

お前に用があるんだよ。」


白高は笑い出す。彼の様子はおかしい。

感情の起伏が極端だ。


「血が……。」


満知が彼に近づく。


「黒を殴ったんだよ。」


と彼は言うと近づいて来た満知の腕を掴み走り出した。

とっさの事で鶴丸はそれを留められなかった。

彼の目の前で満知は白高に連れて行かれた。

鶴丸は追いかけたが間に合わない。


そして一瞬満知と目が合ったのだ。

その目は助けて欲しいと言っていなかった。

久し振りにあった白高に吸い寄せられた目だ。

満知は鶴丸を見たが彼を見ていなかった。


「くそっ、運動不足だ。」


鶴丸は肩で息をしながら呟いた。

そして白高が言った事を思い出した。

黒高に暴力を振るったと。

彼は慌てて戸締りをして黒高のマンションに向かった。


鶴丸が黒高のマンションに着くと鍵は開いており、

中に黒高が血を流して倒れていた。

鶴丸は急いで救急車を呼び警察にも連絡をした。

黒高に暴力を振るった白高は満知を連れて行ったからだ。


すぐに救急車と警察は来た。

そして事情を知らせる。


「緊急配備をします。」


警官がそう言ったが、

鶴丸には嫌な予感しかなかった。


事情を聞かれつつ彼は黒高の病院に向かった。

警察官にはシャツ店の鍵も渡した。

その状況を見てもらうためだ。


もう鶴丸は何が何だか分からなくなった。

そして胸の中にどんどんと不安が広がっていた。




「ちょっと、白ち、待って、私、裸足、」


息を切らせながら満知が言うと、

白高は立ち止り彼女の足を見た。

さっきまでサンダル履きだったが、

白高が無理矢理走らせたせいで脱げてしまっていた。


「あー、ごめん。」


と彼は自分のサンダルを脱いで彼女の足元に置いた。

だが満知は彼の足を見た。

血だらけだ、そして爪も割れている。


「ちょっと、一体何があったの?」


だが満知は先ほど白高が言った事を思い出した。

黒高を殴ったと。

白高はにやにやと笑いながら満知を見ている。

彼女はいきなりぞっとした。


「白ち、私帰る。」


だが白高はそれを聞くと急に顔色を変えて

ビルとビルの間の狭い路地に彼女の腕を掴んで引っ張っていった。


「白ち、痛い。」

「うるせえ、黙ってろ。」


白高が低い声で言った。

そんな言い方を白高から満知はされた事は無かった。

恐ろしい声だ。

彼女は怖くなり何も言えず彼に逆らえなくなった。


そして彼は近くにあった非常階段を登り出した。

古いビルだ。

階段を登る度にぎしぎしと言う。

手すりは錆びていた。


「……白ち、待って。」


白高はぎろりと彼女を見た。


「待てねぇ。

それにお前、黒と付き合ってるんだろ?」

「え?」


突然の話で満知は戸惑った。


「なんで黒ちと?」

「オレ様がいない時は黒と仲良くしてたんだろ?」


白高の話は全く理解出来なかった。

二人は階段の踊り場に着いた。

その手すりに満知を追い詰めて白高は両腕の間に

彼女を閉じ込めた。

彼女の後ろにはぐらぐらとしている手すりしかない。


その時満知は彼の細い腕を見た

そこにはどす黒くなったところが沢山あった。

彼女ははっとする。

あれは注射の後だと。


満知は白高を見た。


その目は濁り以前のような若者らしい

生き生きとした輝きは無かった。

そして奇妙な体臭、臭い息、

彼女は彼が何か良くない事をしているのが分かった。

そしてそのために錯乱しているのだ。

だから妙な事を言うのだ。


「白ち、一体何してんの?」


低い声で満知が聞いた。

白高はにやにやと笑うだけだ。






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