弔と愛

紫鳥コウ

弔と愛

 お手洗いから出たところで、ひとりの女性とぶつかりそうになった。目元の涼しい彼女は、かすかにほほえんだ。僕はつられて軽く頭を下げた。父の知り合いにこんな美しい女性がいただろうかといぶかしんだが、葬儀が始まると後ろの席に確かに座っていた。涼子という名の女性は、父の同僚の娘らしく、入院をしている両親の代理で来たのだという。

 僕たちはこの港町からローカル線に乗り、駅員さんのいない四方を山に囲まれた無人駅で降りた。不思議と一本だけ種類の違う樹が山にあり、この一帯の情緒を乱していた。それに、喪服姿でここにいることも、この風景と調和していなかった。

 木造平屋建ての彼女の家は、いまは独り暮らしだということもあって、閑散かんさんとしていた。玄関には蜘蛛の巣がかかっており、庭は手入れがなされていなかった。だけど、彼女の部屋は綺麗だった。掃除が行き届いているだけではなく、ほどよいくらいの物が、きちんと区画された箪笥たんすや収納ケースのなかにしまわれており、衣裳の置き場もうるさくなかった。

 網戸にくっついている蝉が、扇風機の羽根の音を打ち負かしている。それに頓着する様子もなく、彼女は着替えて、裸になった僕の横へと座った。

「クーラーはないの?」

「ここは、涼しいのよ。夜も朝も。いまがちょっと暑いだけ」

 布団を敷くことはなく、ざらざらとした畳の上で、静かに求め合った。夏の蝉は、庭の松の木に何匹もとまっているだろうし、家のあちこちには、何匹ものむしがうごめいているに違いない。しかしこの部屋には、二匹の獣しかいない。


 夕暮れ。駅まで送ってくれた彼女に――涼子に口づけをした。夏の夕陽の味がした。葬儀のときには潜ませていた、この情熱的な顔にもう一度口づけをしようとしたら、もうお別れだからと牽制けんせいされてしまった。名残惜しさはなかったが、父を失った切なさを急に感じはじめた。しかし涙よりも正直な部位が実存していた。

 港町は蜜柑を溶かしたようにきらめいていた。そして、僕の実存も燃えていた。かもめが飛んでいると思ったら、船が港へと帰っていく光景であることに気付いた。半月が顔を出していた。燃えたものは、いつまでも燃えたままだった。


 五年後。泉鏡花いずみきょうかの小説のなかで一番好きなものを、生徒たちに教えた。読んだのは一年前だったから、おさらいをした。その時、ふと浮かんできたのは、彼女の姿だった。しかし、彼女の家への行き方をすっかり忘れていた。幻影……そんなことさえ思った。

 夢を見た。あの駅……駅員さんのいない駅から彼女の家へ歩いているはずなのに、どこまでも畔道あぜみちが続いていく。蝉の音のあまりの騒々しさに、身体が倒れてしまいそうになる。あの一本だけ種類の違う樹も見つからない。しかし、そのことを心地よく感じている自分がいた。


 同級生が死んだ。不眠症のせいで重くなった身体にむちを打ち、葬儀へと向かった。新幹線のなかでも、まんじりもできなかった。

 よほど顔色が悪かったのだろう。「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのは、ずっと笑っていられるようにしてあげたいと思ってしまうほど、マジメな表情が似合わない女の子だった。きっと歳が十くらいは離れていると直感したが、聞いてみると、大学を卒業してしばらく経つとのことだった。

 その晩、一緒に寝た。事が終わると、すんなり眠ることができた。この子と付き合いたいという気持ちが、こころの奥底からき上がってきた。だから朝になると、そのことを伝えた。見事にフラれてしまった。一夜だけの関係じゃないと困るのだと彼女は言った。もう彼氏がいるのだと。

 それからも不眠症が続き、今度死ぬのは自分ではないのかと思いはじめた。だけど、死んでしまえば、この苦痛から解放されるのかもしれない。そう考えると、涙が止まらなくなった。


 しかし、次に鬼籍きせきったのは、妹の方だった。妹には彼氏がいた。さぞかし悲しいだろうと思い声をかけた。電話が鳴った。そしてこのオトコはイヤらしい笑みを浮かべて、「俺、浮気してたんすよ」と、遺族に対して言い捨てた。

 このオトコの浮気相手は、葬儀場まで彼を迎えにきた。彼がトイレに行っている間に、僕は彼女へ――双葉へキスをした。


 大学院生だという双葉は、アルチュセールの研究をしているのだと言った。その哲学者のことを知らなかったので、入門書を買って読んでみた。だけど、彼女のことを理解する手助けにはならなかった。双葉のことを知ることができるのは、他愛ない会話からだけだった。

 両親も最愛の妹もいない。ひとりきりで生きていく――はずだった。しかし僕は、双葉と結婚をすることになった。かなり年上の僕との結婚の話に、双葉の両親は、難色を示した。しかし何度も話し合いを重ねた末に、快く承諾してくれた。

 博士課程を修了してから、なかなか研究職にありつけない双葉は、僕に申し訳ない気持ちをかかえているとのことだった。だけど、そういうことを口にするときは、双葉をきしめて、大丈夫だよとささやいた。

 こうしたやりとりをした日は、必ず一緒に寝たし、事が終わると、ぐっすり眠ることができた。悪い夢を見たことは一度もない。



 〈了〉

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