第4章 #8

『そのまま階段を下っていけば、問題の地下フロアへ――』


 階段を下っている途中、プツリと通信が切れてしまった。呼び掛けても返事がない。向こうから切ったとは考えにくいから、おそらくはこの区域に妨害電波が発せられているのだろう。


「ここからもっと気を引き締めていかないと」


 通信が切れたことによる心細さを、独り言で和らげながら歩いていると、地下フロアに到着した。


 小部屋や分かれ道がそれなりにあった印象の地上一階とは異なり、地下はこじんまりとしているように感じられた。階段と直接繋がっている広間にあるのは扉一つと倉庫だけ。このフロアの使途は、とても狭い用途に限定されているのではないかと推測された。


「エイリがいるとすれば、ここしかなさそうだけど」


『実験室』と書かれた部屋。どうにも嫌な響きを含んでいる場所だ。ドアは特に頑丈な作りではなかったので、外骨格によるパンチで鍵を壊して押し開けられるように出来た。


「どうか、どうか、どうか、どうか……!」


 早くエイリに会いたい気持ち、無事でいてほしい気持ち、そして――ここにいてはほしくないという気持ちがせめぎ合う中、私はゆっくりとドアを開いた。


 ドアの先はヒトが一人通れる程度の通路が延びていた。


 通路を進んで行くにつれ、通路を照らす光が白熱灯から赤黒く朧気なものへと変わっていく。実験対象になっているものに無用な刺激を与えないようにするため、敢えて光の色を変えているのだと考えられたけど、それにしては機械的に放出されている明かりではないように感じられた。目に入れるだけで心臓の柔いところを握られるような、そんな不気味な光だった。


 そして通路の奥には小部屋が設けられていた。


 空間を満たす赤黒い光は、部屋の内部を一望する妨げとなった。部屋と通路の境目から一望しようにも、あらゆる物体が赤く黒く染められたシルエットとしてしか目に映らない。


 それにこの部屋には、形容しがたい入りがたさがあった。足を踏み入れようとすると、全身が拒絶を訴えるのだ。ここには天敵が巣くっている。野生動物じみた原始的な本能が、私に語りかけてくる。


 しかしながら、エイリが居るならこの部屋が最も可能性が高いのは事実。だから私は、引き返そうとする身体を無理矢理に動かして、この異様な空間の中に足を滑らせた。


「う……あ……」


 一歩踏み出してすぐ、足の裏におぞましい感触を覚えた。


 重やかな動作で見下ろすと、足下には黒く淀んだ粘体があった。


 いや、足下だけではない。床も壁も天井も、この部屋の至る所に、墨溜りのような粘体が粘り着いていたのだ。さながら、ここが自分たちの巣であると主張するかのように。


「なに……なんなの……」


 これは、マレフィタールだ。経験と直感が共に声を揃える。


 黒ずんで干からびた、かつて人間だった物の骸。肉塊。マレフィキウムに襲われて犠牲になった人々の、無惨な姿が想起される。


 今すぐに引き返したいという怯えが、怖気が、嫌悪感が、腹の底をかき混ぜてくる。けれども、私は無視を決め込んだ。もしもここにエイリが居たとしたら――私が引き返したらもう、無事ではいられない。


 怖気を堪えながら、部屋の奥まで歩みを進める。そして、見つけた。青いクラシカルロリータに身を包み、とんがり帽子を被った少女――エイリの姿を。しかし。


 彼女は、部屋の奥で悍ましき粘体になぶられていた。


「……ぅぅ、ぁぁ」


 少女のあえぎ声が蠢く。


 十字状へ磔にされていた彼女の四肢に、淀んだ粘体が絡みついている。まるで、彼女の心身をしゃぶり尽くそうとしているかのように。


 彼女の白い素肌は、今や真っ黒に染め上がっていた。粘体と――マレフィキウムと同じ色だ。顔の上半分は仮面で覆われており、今もまだ露わになっているのは喘ぐ唇のみであった。


 理屈を立てて考えるまでもなく、直感する。


 エイリは、『怪人』に仕立て上げられようとしているのだと。


「嘘でしょ、エイリ……」


 目の前の出来事を、現実として捉えるまでに時間が掛かった。


「エイリ……エイリ……ねぇ、エイリ……」


 手遅れだったのか。どうしてもっと早く来てあげられなかった。もうダメだ。


 目にしているだけで、私を責め立てる想像が胸の中のキャンパスへ書き殴られていく。恐怖の筆致、怨嗟の色、憎悪の形。それらは私の胸を深く抉りたてた。


「ううん……助けなきゃ……!」


 マスクの内側で奥歯を噛み、拳を震わせては彼女へ近づく。


「助ける、助ける、助ける、助ける――」


 必死の願いを繰り返し声に出し、何度も手を伸ばす。


 外骨格の手が彼女に纏わりつく粘体を引き剥がしていく。けれども、いくら剥がしたところで新たな粘体が這い寄り、振ってきて、登ってくる。


 いくらやろうと状況が一向に変わることはない。際限なく繰り返される賽の河原に無力感を覚え、マスクの裏が濡れていきそうになった頃、囚われの少女の小さな口がぽつりと開かれた。


「ナギカさん……そこにいるんですか……」


 手を止めて、顔を上げる。


「エイリさん……!」


 地獄に垂らされた細い糸を掴む心地で呼びかける。


「わたし、気がついたら運ばれてました……実験台になるみたいなんです……マナを作れない魔法少女で怪人を作るとどうなのかって……」

「大丈夫、大丈夫だから。私がすぐに助けるから。だから、だからあともう少し待ってて」

「無理なんです……もう……」


 少女のか細い声は、諦念を帯びていた。


「このマレフィタール……わたしの気持ちが引き寄せているみたいなんです……何もかもどうでもよくなっちゃった……そんな気持ちが……その気持ちを読み取って、こっちにおいで、一緒になろうって集まってきていて……仲間がほしいみたいなんです、この子達……」


 粘体がエイリの身体をぐちゅぐちゅとなめ回す。まるで、彼女は自分達の所有物だと主張しているかのように。


「師匠が死んだんだって分かった時、わたしの人生がフッと終わってしまった……そうとしか思えなくなったんです……」


 彼女の師匠は……カトレアホワイトは、魔法少女に設定された寿命を迎えて、あの黒い樹木に取り込まれた。彼女に会うことは、もう誰にもできない。


「これから待っているのは、師匠の形をした穴がぽっかりと空き続けた……報われることの決してない日々……その中で生きることになるくらいなら……わたし残りの人生なんて……こうやって食わせてしまえばいいって……」

「そうだね、貴方の師匠は……絹綾ランは、もうどこにもいない」


 ランが死んだことは、私にとっても悲しくて辛い。こういう形で知りたくなかったし、彼女を殺した世界に対して、憎悪だって抱いている。あの日、彼女の誘いを断った私自身も、呪われるべきなのだと。


 だからと言って、エイリの苦しみは私には分からない。理解できるなんて絶対に言えない。私のちっぽけな想像の中にエイリの感情を押し込めて、知った気になるのは傲慢だ。そんなこと、ライフル弾に頭を吹っ飛ばされるべき腐れた大人がすることだ。


 だけど。この想いだけは、私の中の真実は、彼女に伝えないわけにはいかなかった。


「それでも、エイリ……貴方はここにいてはいけない……ううん、ここにいてほしくない」

「でも、この世界にはもう……師匠は……いないんです……!」


 クラシカルロリータの衣装が、急速に黒く滲んでいく。


「私の帰る場所なんて、どこにもない……!」


 粘体がぼとり、ぼとりと、天井から絶え間なく落ちてきて、自分達の世界へエイリを攫っていこうとしていた。


 そうはさせない。彼女は、徒花エイリは……お前達の物じゃない。


 表面的な絶望だけを見て、責任を持たずに同感して奈落へ引きずり込もうとするお前達に、徒花エイリは相応しくない。


「人に生きろって言っておいて、勝手に逝こうとしないで!」


 粘体がひしめくエイリの身体へ、私は一歩歩み寄る。


「たとえ、マレフィタールに飲み込まれても、怪人になっても、絶対に心の底まで追いかけて、容赦なく引きずり出してやるから」


 変身を解く。


 肉眼で彼女の身体を見て、涙よりも濃厚な腐臭を吸い込んで、生理的嫌悪に嬲られる感覚を肌身に沁みさせる。


 怒れる粘体が私の耳目に絡んでくる。四肢を蝕もうと粘ついてくる。口の中に入ってきては悶絶するほどの苦味を舌へ刷り込んでくる。けれども、私はさらに一歩を踏み出す。


「カトレアホワイトがいなくても、私がいる。だから――」


 絶望に塗れたエイリへ腕を伸ばす。


 聡明で、強がりで、生意気で、実際に強くて、でも寂しがり屋で、身体に通る芯は年相応に細く脆くて、とても愛しい彼女を両手で抱きしめる。


「私を、生きる理由にして」


 あぁ。こんなに穢らわしい物に纏われていても、知恵と激情に温められた熱を、とてもだ着心地の良い柔らかな肉感を、加減を誤れば折れてしまいそうな儚げな骨の感触を、この手に感じることができる。


「私の居場所は貴方の居るところ。貴方の居場所は私の居るところ」


 そうだ。


 徒花エイリは、私の女だ。


「私のもとに帰ってきて――徒花エイリ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る