第1章 #6

 パニックに陥り逃げ出そうとする人々の流れを掻き分けながら進んでいると、嫌でもそれの姿はすぐに目に捉えることになった。


 墨溜まりで巨大なモグラのような形へ捏ねられた怪獣が、後ろ足で立ってビルの間を闊歩している。二足歩行の製か、はたまた黒い粘液が阻害しているのか、動きそのものは鈍重であったけど、時折腕を振り回しては建造物を破壊したり、足下に落ちている自動車などを掴んでは明後日の方向へぶん投げていたりしているので、街への被害は小さくなかった。


(AEのマナ節約のためこのままで来たけど、ここから生身で近づくのは流石に危ないか)


 脂汗をかきながら、スーツジャケットの裾を払って変身ベルト――エクスライザーを晒す。そして、へその直下にあるスキャン装置へPDAをかざした。


「エグゼクター、変身」


 全身がAEの外骨格へと包まれるまで、一秒もかからなかった。エクスライザー、AEの調子は問題なさそうだ。


(まずは逃げ遅れた人がいないか探す。マレフィキウムは刺激しないようにして)


 マレフィキウムが通過したビル群へと急行する。ただ走るにしても、AEのおかげで生身よりも断然早い。


 そして目的のポイントに着き次第、辺りを見回して行き載っている人間がいないか探す。頭部にはプロテクターを兼ねたバイザーが取り付けられているため、周囲を直視することはできない。しかしながらその代わりに、遠近感の再現されたカメラ映像がAEの内側へ投影されているため、視覚に不自由は無い。


 そうして、必要に応じて瓦礫を退かしながら探していると、放り出されている人の手足に気がついた。嬉々として近づく――が、その全貌が露わになるや、私は拳を握って悔やんだ。


「間に合わなかった……」


 見つけたのは、ミイラ状に干からびた上に、表皮が黒ずんだ人体だった。


 高濃度瘴気吸引症候群――通称『マレ病』と呼ばれるこの状態は、マレフィキウムの身体の一部、つまりはあの黒い粘液を浴びると発症するものだとされている。ここまで進行しているということは、直接取り込まれてしまったのだろうか。助かる手立ては既にない。


「ごめんなさい」と言って背を向け、他の生存者を探す。しかし、場所を変えて探して人が見つかったとしても、とうに瓦礫や粘液へ押し潰されて絶命しているか、既にマレ病で手遅れになっているかのいずれかであった。


(生存者が見つからない。生きてる人は逃げおおせたということ……?)


 残って探し続けるべきか、自分も退避するべきか。


 相反する選択肢がいがみ合って煩悶しており、どちらも選べないでいたときだった。


「――誰か! 誰かいませんか!?」


 悲痛な叫びが聞こえた。女性の声だ。


 声の聞こえた場所をAEの機能で割り出し、HMDへ表示する。ここからそう遠くない位置、けれども未だ生存者を探していない場所だった。


 全身に戻るのを感じながら、AEの示したポイントへ急いで向かう。走っているときも助けを求める声は響き続けていた。そして到着してすぐ、声の主と思しき女性を見つけた。私より一回り年上、三十代くらいだろうか。


「助けを求めていたのは、あなたですね?」


 その人は外骨格で身を固めた私の姿に一度面食らっていたようだけれど、すぐに警戒心を解いて「はい」と頷いた。


 彼女は「お願いです」とプロテクターに包まれた腕へしがみつく。当人は足をひきずってはいるが脚部にかすり傷を負っている程度で、逃げるぶんにはそこまで支障はないように窺えた。しかし、彼女が助けを求めた理由は別にあった。


「あの子を……助けてください……」


 その視線の先には、瓦礫に閉じ込められた、十歳にも満たない少年の姿があった。


 瓦礫の隙間から覗いた様子では、少年は衰弱してぐったりと倒れてはいるものの、肺は辛うじて上下しており、今はまだ息があるようだった。ただし、足や腕に黒い斑点が浮かび上がっている――マレ病だ。このまま放置したら取り返しのつかないことになる。


「分かりました。すぐに助けます」


 瓦礫を踏みしだいて少年へと近づく。彼の退路を塞ぐ瓦礫はとても大きく、通常なら成人男性数人がかりでようやく退かせるかどうかというものであった。しかし、今の私はAEを纏ったエグゼクターだから、全力で持ち上げたらなんとか取り除くことができた。そして、倒れている少年を丁寧に抱きかかえて女性の元へ向かう。


「あ……あぁ……ありがとうございます……!」


 女性に少年を託すと、彼女は少年を抱きしめ、わっと泣き出した。途中で目元を拭って涙を堪え、その場から立ち去ろうとした――のだが。


 突如、私達の上に厚い影が覆い被さってきた。


 振り返り、頭上を見上げる。そこには墨溜まりの怪獣がいた。ボタボタと黒い体液をこぼしながら雄叫びをあげる。その様は得物を見つけて悦んでいるようにも見えた。


(まさか、助けを求める声に呼び寄せられて……?)


 原因を考察する時間も惜しく、私は腰に収められていたマルチプルウェポンを引き抜いた。スタンロッドの形をしたそれを即座にハンドガンへ変形させて、マレフィキウムに向かって何度も引き金を引いた。一時的にも、この場から退かせることを期待した威嚇射撃だったが、マナ製の銃弾は黒い体へ飲み込まれるだけで終わった。


「助けて……魔法少女……」


 隣の女性が声を震わせながらそう呟く。けど、その願いはおそらく叶わない。


 淀んだマナの塊も同然であるマレフィキウムを討伐できるのは、マナを自在に活用できる魔法少女だけ。しかしながら、この街の魔法少女は慈善事業じゃない。エンタメ性の高いシナリオと、安全な撮影プランの確立、そして綺麗で可愛い魔法少女のメイクが終わらないことには、彼女は戦場にやってきてくれない。だから、魔法少女は今すぐには来ない。


 もはや打つ手は無かった。


 こちらの威嚇などお構いなしに、マレフィキウムは片足を大きく振り上げた。私達を虫けらよろしく踏み潰そうとしているのは明らかだった。


 いくらAEを纏っていても、圧倒的な質量の前には為す術がない。物陰に隠れたところで、諸共に踏み抜かれるのは間違いない。もっとも、逃走すれば自分だけは踏み潰しから逃れられるが、そのときには助けた生存者が犠牲になってしまう。


(それならせめて、この人達だけでも――!)


 覚悟を決める。AEの中で震える唇を沈めて、隣にいる生存者達へこう切り出した。


「私がマレフィキウムを惹き付けます。すぐに走って逃げてください」


 そうと告げて、救助者の女性と少年から離れるようにして走った。マレフィキウムへ接近すると、振り上げられた足の裏へ向かってハンドガンを連射する。


 AEで何をしても、マレフィキウムに傷を付けられないことに変わりは無い。けれども、注意を引くことなら不可能じゃない。


「マレフィキウム! 殺すなら、私にしろ!」


 ダメ押しとばかりに、低威力ではあるものの、ハンドガンよりはマシな威力のバズーカ砲を撃ち込む。直撃した部分から粘液の雨が降り注ぐ。


 これは幾ばくか効果があったのか、マレフィキウムは足を降ろす先を僅かに調整し、確実にこちらを踏み抜ける位置へ足を構えた。そして勢いよく振り下ろされる。


 マルチプルウェポンを小型のハンドガンから大型のバズーカ砲へ変形させた以上、走って逃げることはもう不可能だった。


(あぁ……私、やっと死ぬんだ)


 死にたかったわけではない。けれど、生きたかったわけでもない。


 自ら命を絶つことには耐えられなかった。だけど、希望を見いだせない未来に絶望しながらこのまま生き続けることにも耐えられるとは思えない。


 だから、他人が犠牲になるなら、代わりに私が犠牲になるべきなのだ。


 マレフィキウムの足が近づく。


 いよいよ終わりの時が近いのだろう。心の奥深くから、後悔の蔦に絡め取られたとある記憶がにゅるりと引っ張り出され、その映像が再生される。


 そこは二人の少女がいる教室。歳はどちらも十五。一人が私、もう一人が乳白色のガラス玉を首から提げた、銀色をしたロングヘアーの女の子。窓から差し込む黄昏時の明かりが、彼女の美しい銀髪をそっと撫でるように照らしている。


 ――ねぇ、ナギカ。


 ――どうしたの、ラン?


 ――一緒にこの街から出て行こうよ。


 彼女の最後の問いかけに、私は何も答えなかった。「うん」と言ってあげられなかった。


 ――そっか。


 寂しそうに笑ってから、こちらに背を向けて教室を出る彼女の後ろ姿が映ったところで、映像は終わった。


(ラン……)


 彼女に「うん」と言ってあげられなかった後悔を抱えて死ぬ。


 これぐらいの罰で地獄へ行けるのなら、甘んじて受け入れよう。その先に彼女がいるかどうかは分からないけど。


 マレフィキウムの足が迫る。私は瞼を閉じて、その時を静かに待った。


 しかし――そのときはいくら待っても来ることはなかった。

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