宝石を舐める

固定標識

暗中模索

 宝石を舐めるような心地だった。

 ひんやりと甘酸っぱい幻覚が舌下で滑って、仄かに唾に透明が灯る。

 それは、どれだけ美しく指先で照る星であろうと、用途を違えばただ体液に塗れ穢れるという事実を克明に映し出す様だった。

 我々は用途を違えた。

 我々は要領を違えた。


 人魚の肉を削いで喰おうと提案したのは神山だった。彼は高慢にも不老長寿を求めたのである。では俺は人魚の鱗を剥いで売ろうとむくれた手を持ち上げたのは設楽だった。彼はきっとどんな宝物よりも高値で売れると黄ばんだ歯を見せた。

 二人の眼が私を見た。欲の泥に濡れた瞳は、闇の中でも爛爛と輝くようであった。傷塗れの水晶が神経に繋がって不自由にも眼窩にポカリ足を滑らせ逃げられない。

 そんな幻影を焼き付けられたのは恐らく、私の眼が悪くなったからなのだろう。健全な瞳を持っているというのに、今以上を望まずにはいられない旧友に嫌気が差したのだ。

 泥水晶が私を見た。私が何物を欲するのか、おれの意に添わぬことは言うまいか、そんな風に巻き上げられて、四枚の耳は直角に立ち上がる。

 それならば私は絵を描こうと宣った。

 瞬間二人の視線が立ち上がる。期待でもするみたいに彗と尖る。

 アバラの内の青い針は静電気のように散った。

 嗚呼君たちの水晶は、未だ過去の私を見ているのだ。神山と設楽は前傾姿勢になって鼻息荒く続きを求めた。

 私は長い息を吹いた。そして吟じるみたいに気取って述べる。

 頭の泉に浮かべるのは人魚の無残な姿。肉も鱗も剝ぎ取られ、その上で何を求めるわけでもない。

「そもそも人魚なんて、そうおるわけがないのだよ」

 神山と設楽は神妙な面持ちをした後に、プと吹き出した。唾が飛散する。

「お前よう、そりゃあ当たり前じゃないか。人魚なんているわけがない。こんな与太話に真剣に解答するなんて、お前の真面目は学生時代から全く変わっていないじゃないか」

 神山はこみ上げる面白さに輪郭を溶かしながら言った。

「全くその通り、人魚なんておるわけない。おったら俺たちはどれだけ楽になることか」

 設楽は涙を流して笑い転げて、おどけて倒れ込む。狭い六畳半に埃が舞って、水垢だらけのグラスの水面に落ちる。煩わしさに瞼をしかめて、しかし心中は穏やかに小さな泉のほとりにあった。

 かつて我々が夕陽を追いかけて辿り着いたあの秘密の海辺には、最早一切の不思議も秘密も隠されてはいない。我々が不思議も秘密も、追い求めなくなってしまったからである。

 現在の我々は途方もなく貧しかった。明日の希望、展望、何も見えず一寸先は深淵の最中にして一歩先は奈落への一方通行が開けていた。圧倒的に光に欠如した我々の生を、それでも傾くならば前方にと背中を押すのはかつての誓い、かつての夢。

 学生時代、神山は言った。

『なに故、明日はやってくる?』

 私と設楽は首を捻った。なに故って、それは日が沈みまた昇るからではないのか? そんな簡単な問いを我々に投げかけるほど神山は愚かではなかったし、彼が我々を舐め腐っていたわけでもない。だから全く判然としなかった。

 二体の案山子の角度に視線を沿わせて、神山の水晶は煌めいた。

『なに故かって、教えてやろう。俺たちが望むから明日が来るのだ。望まぬ明日が訪れることを夜明けとは言わない。何時だって俺たちは明日の太陽に願いを込めなきゃならんのさ』

 それが学生の仕事だ。

 言い切って神山が制服の乱れを正す。いつか必ずこの日の元の国を動かしてみせると胸を張る神山の背は高く見えた。

 設楽は頭が良かった。私の何倍も頭が回る。でっぷりとした腹に支えられて、食った分だけ頭のベアリングに油が差されるようだった。彼も神山と同じくして官僚を目指していた。なに故だと問えば、神山が目指しているからだと言う。私は呆れ笑った。すると絵描きよりマシな夢だと意地を張られた。

 私と設楽はお互いに互いを過大評価していた。きっとあいつは夢を叶えるだろうって、なんとなく信じ込んでいたのだ。だから応援もしなかったし、夢半ばで道を断たれたと知ってなお、励ます言葉すら出てこなかった。信じられなかったのだ。

 私たちは変わってしまった。

 夢の見方を間違えた。

 私たちには確かに才能があって、けれどもどうにも恵まれないだとかそんな言い訳がましいことを情けなく空っぽの夜空に放り投げることが許されるのであれば、きっと別の道を目指していればもっと満足に生きていたはずなのである。

 しかし宝石を舐めるように我々は、望まぬ明日を遠ざけようと、今日も齷齪と未だ嗚呼こんな一夜が墨の書き損じの様に伸びてしまえば。なんて──

 人生が延びれば良いと、例えその結果細く薄く短冊よりも薄弱に、星の視線に耐えられずとも我々はそんな夜を望む。

 何時人魚を捕まえに行くかい、と問われ私は首を振った。

「私はいいよ、絵は……君たちが捕まえてきたのを見て描こう」

「よしなら張り切ろう。久方ぶりにお前の絵が見たい」

「あいあい」

 腕まくりをする神山の筋肉は餅のでっぱりくらいに薄くって、やはり変わってしまったのだと悟る。対して設楽の腹は今も昔も変わらず丸い。中身は空気の浮き輪のように。

 蛍光灯のぴかぴか照らす狭い缶の中に、のんきに弧を描く丸い世界がありました。

 泥中で輝く水晶の蓮の開花を、私は望んでおりました。


 設楽の死は問題なく入水自殺として処理された。遺書があったからである。

『こんな日々に嫌気が差した』と、

 しかし神山は設楽を諦めるようなことはしなかった。神山貴志は、最後まで神山貴志だった。

 故に設楽に手を伸ばさずにはいられなかった。

 二度の葬式は日を置かず開かれ、参列者は時雨のように影と立つ。無限の影の群れの中で、しかし荒唐無稽に回遊する思考があった。憎悪に似た褐色の昂りは夜光虫の大群となって、頭の中心で重く膨れては、雨の前兆のように神経を濡らした。

 ところで人魚には魔性の魅力があるらしい。

 曰く人を惑わせると。

 私は気付いた。恐らくこの平面の社会においてただ一人、設楽正継の死に疑念を抱いた。

 彼は人魚に惑わされたのだ。

 ──違いない。

 理想の金型は私の薄弱で惰弱な意志を固めてしまって、あらゆる自由であったはずの思想と生存は盤石と固められた。

 最早疑うことなど必要ないほどに。

 私も人魚を探そう。

 そう、心に決めた。





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