41話 窮地

突如として、戦場全体に張り詰めていた空気が変わった。晃明めがけて災害級妖冥が振り下ろそうとした腕が、まるで何かに引き止められるかのようにピタリと止まる。


「‥何だ?」倉橋が小声で呟き、全員が一瞬の静寂に包まれる。あれだけ凶暴に動き回っていた妖冥が、今、何かを恐れるかのように、じっと立ちすくんでいる。


「どういうことだ‥?」陽一が額の汗を拭いながら、冷静に戦況を分析しようとするが、説明がつかない。理由は分からないが、明らかに妖冥の動きに異変が起きている。


その時、誰かが歩く音が聞こえてきた。無造作に、ゆっくりと近づく足音。場違いなほど穏やかで、まるでこの惨劇の中心にいることを感じていないかのようだ。


「誰だ?」竜仙が疑念の眼差しを向けると、瓦礫の隙間から人影が現れる。


その男は、ぼんやりとした微笑みを浮かべながら、まるでこの場がただの散歩道であるかのように悠然と歩いていた。目の前の災害級妖冥に対しても、恐れる様子は一切ない。逆にその妖冥もなぜか怯えるように一歩後退した。


「貴様、何者だ‥?」私が低い声で言うが、男はただ無言で首を傾げた。その後、口元にゆるい笑みを浮かべ、まるで言葉が不要だとでも言わんばかりの態度だった。


妖冥が怒り狂ったように再び吠え声を上げた瞬間、男は一言、穏やかに語りかけた。


「暴れるのはやめなさい」その声は不自然なほど静かだった。だが、圧倒的な力が込もっている。


その瞬間、災害級妖冥がまるで命令に従うかのように、動きを止めた。巨大な体は今や石像のように固まり、妖冥の顔には不安の色が浮かんでいた。


「何が起こってんだ‥?」翔之助が恐る恐る声を漏らすが、誰も答えることができなかった。私達の目の前で、敵は、ただ一人の男の言葉でその猛威を鎮められたのだ。


その男は、私たちに向けて穏やかな表情を浮かべたまま、落ち着いた声で口を開いた。


「来るのが遅れてしまいましたね、申し訳ありません。ですが、江戸がこれ以上荒らされるのは私にとっても少々困るのです」


「一体何者なんだ?」倉橋が喉の奥から絞り出すように問いかける。男はその質問に一瞬考え込むような仕草を見せてから、柔らかく微笑んだ。


「何者か‥そうですね‥」男は少し考え込むような仕草を見せた。


すると、遠くから楓と琉晴が走ってきた。


「ご無事ですか!!」走りながら楓が叫ぶ。私たちはなんとか手を上げて返事をし、彼らがここに辿り着くのを待った。


「災害級の動きが止まったので‥何か起きたのかと思って」楓が言った。その隣で、琉晴は男の姿を見て絶句している。


「お前‥‥」琉晴が手を震わせながら言った。


「どうした?」私が言うと、男は「君たちには一度会ったことがありますね。あの時はお世話になりましたよ」と言った。


「は‥?」私がゆっくりと琉晴に視線を向けると、琉晴は「あいつが栄狂だよ、江戸を襲うって言ってた‥」と呟いた。


「お前が‥?」三浦が言う。栄狂は「ええ、そうですよ」と何事もないかのように振る舞った。


「しかし、なぜお前が災害級を止めた?」陽一が言った。


「私は幕府の支配下に置かれていない、いわば自由な存在です。そして、江戸を襲う計画も私が立てたものです。しかし、残念ながら‥」栄狂はふと災害級妖冥の方を振り返り、軽く首を振った。「幕府と神隠団の対立、そして戦によって私の計画が台無しになってしまいました」


栄狂の口調は淡々としているが、その内容は信じがたいものだった。


「これ以上、幕府やその支配下の妖冥に暴れてもらうのは困ります。皆さんの命をここで奪うつもりはありません。私の本来の目的は江戸そのものを手に入れることでしたからね」栄狂は穏やかな微笑を浮かべたまま、説明を続けた。


「つまり、お前は‥幕府に従わない異常な妖冥‥」晃明が震えながらその言葉を吐き出す。これまで対峙してきた妖冥たちは、全て幕府の制御下の存在だと思っていた。しかし、栄狂は違う。彼は誰にも縛られることがない。そしてその力は、今目の前で証明された。


「うーん‥この大きな妖冥は貴方たちだけでは倒せませんよね。私の家に連れ帰るとしましょう」栄狂がそう言うと、一瞬で災害級妖冥は姿を消した。


「何だ今の?」三浦が言うと、琉晴は「あいつの使う術だ。鏡影迷宮ってやつでな‥俺たちも一度閉じ込められた、異空間みたいなものだ。おそらく災害級を迷宮に閉じ込めたんだろ」と返した。


栄狂は「君は鋭いですね」と微笑む。


「幕府のせいで、お前の計画が狂ったというのか‥」竜仙が呆然としながら問いかける。栄狂は軽く頷き、「そのとおりです。ですから、今はこれ以上戦うつもりはありません。ここで無駄な争いをしても、私にとっては利益がありませんので」と淡々と答えた。


俺たち全員が息を呑んだ。目の前の栄狂が、ただの妖冥ではないことは明白だ。だが、彼は俺たちに対して敵意を剥き出しにすることもなく、理性的な態度を保っている。それが余計に不気味で、どうしようもない焦燥感を生む。


「では、失礼します。私はあなた達の味方ではありませんが、幕府に討ち滅ぼされないよう祈っています。この国を救うのは、どちらかと言えば神隠団だと思っていますので」そう言って栄狂は去っていった。


「災害級が消えたのは良いことなんですけど‥皆さん大丈夫ですか?誰一人立ってない‥」楓が心配そうに言った。


「すまない、全員傷だらけ、血だらけ、疲労困憊、満身創痍だ」蒼真が軽く笑いながら言った。


「鳴海が重体だ。助けてやってくれ」私が言うと、二人はすぐに鳴海のもとへ走った。


鳴海は意識を失っており、一向に起き上がる気配がない。


「鳴海!鳴海!!」楓が何度も呼びかけるが、鳴海は反応しない。


「死んでねえよな?」琉晴が深刻な表情で問いかける。楓は「どうしてそんなこと言うの!?」と怒った。


「待って、息はしてる」風華がほふく前進で鳴海の顔の前まで近づいて言った。


「よかった‥」楓が胸を撫で下ろすが、まだ安心は出来ない。


「ここに留まってると危険です。妖冥が江戸城周辺にまだまだ残っています。動ける僕と琉晴だけで皆さんを守りきれるかどうか‥‥」楓が言った。




      *




 俺たちは馬を降り、江戸城の城郭の目の前までやってきた。


「始めるぞ」冬馬殿が静かに号令をかけた。


それぞれ指定された地点に分散し、俺は冬馬殿とともに幻影の網の設置を開始した。


「準備はいいか?」周りに多数の妖冥が見える中、冬馬殿が確認した。


「はい」


結局、俺は幻影の網を設置できなかったので、冬馬殿の護衛として同行した。


「行くぞ!」


冬馬殿が幻影の網を展開した。空気が一瞬重たくなるような感覚とともに、妖冥たちの視覚と感覚が歪み始める。通常では捉えられない網が、周囲に見えない結界を張り巡らせた。


「よし、妖冥どもが混乱している」冬馬殿は上手く作用していることを確認し、満足気に頷いた。


その後も十箇所ほど網を設置し、俺たちは次の段階に移った。


「よし、これで奴らの知覚は狂った。次の段階に移るぞ」冬馬殿の声に反応して、全員が一斉に動き出す。混乱した妖冥たちは何かを見失ったようにうろたえていた。


無数の妖冥が道に二つの交差点の間に集結し、俺たちの姿を確認できないまま暴れまわっていた。


「いいか?霞月」冬馬殿が俺に確認した。俺は頷き、「今だ!突破する!」と叫び、前方に小爆発の魔術を放った。それに続いて全員が一気に妖冥の陣形を突破し始めた。次々と妖冥を斬り伏せ、無駄なく素早い動きで精鋭特務部隊のいる方角へ向かう。


「後ろだ!!」山崎が叫んだ。巨大な妖冥が俺たちの行く手を阻もうと立ちはだかる。だが、冬馬殿は一瞬の迷いも見せず、刀を振りかざした。


「遅い!」


冬馬殿の一撃が、妖冥の鎧のような硬い外皮を貫く。瞬く間にそれは崩れ落ち、他の隊士たちも一斉に斬りかかることで討伐した。


幻影の網が硬化を発揮している今、俺たちは見えない刃として敵の中を駆け抜けていた。


そして、途中で合流した現地の兵士たちは大喜びしていた。


「みんな!増援がきたぞ!!!!」軍の士気も一気に上がり、妖冥は確実に減少していった。


すると、ずっと暴れていた災害級妖冥の姿が突如として消えた。


「あ?」冬馬殿が江戸城の方向を見て呟いた。「災害級が消えた‥?」


「今すぐ向かいましょう」俺が言うと冬馬殿は頷き、全員で精鋭特務部隊のいるであろう江戸城のもとへ走った。




      *




 僕と琉晴では精鋭特務部隊を守り切れず、徐々に追い詰められていった。


現在、次々と現れる妖冥たちに囲まれ始めている。


「どうする‥?」琉晴が僕を見つめて言った。


「俺はまだ戦える‥」翔之助さんが掠れた声で言うが、立ち上がった瞬間、すぐに倒れてしまった。


「無理をしないでください!!!」僕は叫んだ。


今は雑魚妖冥が集まってきているだけだから何とか持ちこたえているが、一級が現れたら僕たちは一瞬にして無数の妖冥の餌食となる。


「もうすぐ限界だよ!!陽一さん、何か策は!?」僕が叫ぶが、陽一さんは「何も‥思いつかない」と呟いた。


すると、奥から雄叫びと共に大勢の兵士が走ってきた。


「総員、戦闘準備いいいいいいいい!!!!」聞こえてきたのは、副団長の声。「まさか、増援か!?」琉晴が目を輝かせる。


「絶対に助けます!!」兵士たちがそう叫びながら戦う。その声に僕は果てしない輝きを感じた。


段々と兵士たちの姿が見えるようになってきた。僕と琉晴も全力で刀を振り続け、いよいよ残すはあと少し。


そして、冬馬殿の姿が見えると、精鋭特務部隊の全員が「冬馬殿!!!」と立ち上がる。


「いや、立てるのかよ‥」琉晴がため息をついた。


冬馬殿が戦場の真ん中に立つと、その存在感だけで場の空気が一変した。精鋭特務部隊の皆が一斉に顔を上げ、疲れ切った表情にもわずかに光が差し込む。


「皆、よくここまで持ちこたえた!!」冬馬殿の声は深く響き渡り、静まり返った戦場に力強く届く。


「俺はお前たちを誇りに思う。妖冥に囲まれ、絶望しか見えない状況でも、誰一人として逃げなかった。その勇気が、今俺たちをここに立たせているんだ」


「冬馬殿‥‥!」翔之助さんが感動した表情で呟く。彼の目には、戦い抜いてきた苦しみと、ようやく救われたという思いが混ざっている。


「俺たちは負けない。まだ戦えるさ」冬馬殿の言葉に琉晴は小さく頷き、刀を握り直す。


晃明さんも、倒れ込んでいた体を無理やり起こし、言葉をかける。「俺はもう戦えねぇかもしれないが‥副団長の前で、こんな醜態晒してられねぇよな」


冬馬殿は晃明さんに近づき、肩に手を置いた。「同じくこの戦場に立ち、この地面を踏みしめているだけで、戦っているということに変わりはない。俺からの命令は『戦え』じゃない。『死ぬな』だ」


晃明さんは目を閉じ、震えた声で「ありがとうございます‥‥」と絞り出す。


その様子を見ていた僕も、胸が熱くなっていた。


冬馬殿に、この副団長に皆がついていく理由がよくわかった。この人の期待を裏切れるわけがない‥!


僕は「必ず、最後まで戦います!!」と声を上げた。琉晴もすかさず刀を掲げる。


すると、風華も立ち上がり、「神隠団員でいさせてください、これからも」と言って、矢を番えた。


「後は俺たちに任せろ。霞月、ここはお前が防衛するんだ」冬馬殿が指示を出した。


僕はそれを聞いて初めて霞月さんの存在に気づき、一気に肩の力が抜けた。


ただ安心している場合はない、と再び気持ちを引き締める。


始めよう。血戦の後始末を。


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