別視点の真相A

 その日の朝、桜田月子は、いつものように姉の部屋に朝食を持っていった。ノックしても反応が無いのはいつものことだ。しかし、いつもとは何かが違っていた。どこが違うのか、言葉では説明できない。敢えて言うなら空気が違った。


 月子は思い切ってドアノブを捻った。姉は首を吊って死んでいた。


「お姉ちゃん……?」


 姉は高校で虐められたことをきっかけに、ほとんど自室から出なくなっていた。


「……二川龍太」


 二人が高二の冬、姉と二川龍太は付き合っていた。学年が上がった頃、二川の取り巻きの女子生徒たちがそれを知って、姉を虐め始めた。


 その後、少女漫画のような展開は訪れない。


 不登校になった姉を裏切り、二川は、虐めの主犯、取り巻きのトップの女と付き合い始めたのだ。


『同窓会に行くの?』


『少し覗いてくるだけ。あいつらが、不幸になっているのを確認してくるんだ』


 女の方はホストに嵌って借金が嵩んでいるらしい。


 二川は……?

 服飾系の会社に就職していた。成績も上々で、彼がデザインした服のファッションショーも話に上がっているらしい。

 

 姉はストーカー紛いの行為に手を染め、二川の不幸をひたすらに探した。

 

 見つからなかったから、この世界にうんざりしたんだと思う。

 

 

 姉は日記を付けていた。二川のことが、事細かに書かれていた。二川の職場や近くの立体駐車場、お気に入りの赤い車は修理に出していて、現在彼は社用車を借りて出勤していること。計画に必要な情報は全て知ることができた。

 

 まず、床に広がる排泄物を片付けた。姉の身体を吊り縄から降ろす。汚いTシャツの姿のままではいけない。タンスから上下揃った下着を、クローゼットから姉が昔着ていた白いワンピースを取り出す。せめて、誰かに見られても恥ずかしくない姿にしよう。化粧を施した後、身体を折り畳んでキャリーバッグに詰めた。

 

 日が昇って朝になっていた。私はコンシーラーで隈を隠し、普段通りを装って登校した。友人の佐藤七海が、コンシーラーに気付いたときは少し焦ったが、「ゲームをしていて夜更かしした」と誤魔化した。

 

 自宅に帰ってすぐ、月子は姉の黒いコートに袖を通し、革手袋を身に着けると、キャリーケースを持って飛び出した。二川が勤めるビルに到着したのは十九時頃だった。


「二川龍太、高三の春、お前が私にしたことを覚えているか?」


 姉のスマホから電話をかける。ひゅっ、という二川が息を吞む音が聞こえた。


「世間に晒されたくなければ、私の言うことを聞け」


『……言う通りにすれば、俺を許してくれるのか?』


「許すわけないだろ。だが、見逃してやる。金輪際、お前には関わらないと約束してやる。まず車の鍵のナンバーを教えろ。それから、その鍵をエレベータに置け。そこまでできたら、次の合図まで待っていろ」


 死体の移動はエレベータと早さ勝負になる。先に落下死体を偽装することにした。立体駐車場の一階で、聞き出したナンバーの白い小型車を見つける。「ごめんね」と祈りながら、私は姉の死体を、駐車場の五階から落とした。


 エントランスホールに駆け込み、上矢印ボタンを押した。エレベータでの移動には社員証が必要だが、呼ぶだけならば問題ない。二川が置いた車の鍵を回収する。


 死体を入れていたキャリーケースに、着ていたコートを突っ込んだ。ショーウインドウの三体のマネキン、真ん中のものにキャリーケースを持たせて、エレベータに突っ込む。


 再び二川に命令する。


「屋上に向かえ。エレベータにマネキンを乗せてあるから、そのマネキンを裸にして屋上から落とせ。以上だ。これでお前は解放される」


 二川が屋上に着く前に死体の移動は済ませたい。マネキンが屋上から落下した瞬間には、この場所から離れてアリバイが成立するのがベストだ。そのために制服を着てきた。


 時間との勝負、深呼吸をする暇すら惜しい。月子は運転席に乗り込みエンジンをかけた。振動が腹の奥に伝わってきて、胃液の嫌な酸っぱさが食道を迫り上がってくる。


 首筋に冷や汗が流れた。初めての操作だったが、父が運転する姿を覚えていた。シフトレバーを動かし、アクセルを踏む。予定通り車は動き出した。


 ビルの入口、自動ドアの手前でブレーキを踏む。急いでドアを開け──

 

 どん──頭上から音がした。

 

 表裏の分からないマネキンの頭が、月子の耳元に垂れていた。衝撃の余韻が、三半規管にまだ残っている。


 月子は、一目散に駆け出した。身体の内側が熱くなって、手袋をスカートのポケットにしまう。肺と肝臓の痛みは気にならなかった。それ以上に復讐を果たした達成感に満たされていた。

 

 ──いや、これは復讐じゃない。本来、彼が負うべき罪だ。あるべきものはあるべき場所へ。それの何が悪い?

 

 帰る途中、人にぶつかった。恋人に振られた後のような、悲しい顔の男の人だった。

 

 ようやく自宅に着くと、月子は玄関で倒れた。仰向けになって、酸素を肺に取り込む。

 

 人形を落とした犯人と被害者を絞殺し墜落させた犯人……警察は同一犯と考えるはずだ。二川が姉を殺した犯人となるのは、もはや時間の問題だった。

 

 人形は罪を被せるために落とされた──


 

 姉の葬式中も授業は進んでいる。忌引き明け、月子は七海に休んでいた分のノートを写させてもらった。授業中、先生に当てられることもない。ただ時間が過ぎていく。

 

 帰り道、月子は誰かにつけられていることに気付いた。警察ではなく、素人だ。そろそろ家に着く。月子は防犯ブザーに手を伸ばす。


「待って。怪しい者じゃない。俺は七海の兄で……とにかく、防犯ブザーから手を離してくれ」

 

 男が両手を上げて、飛び出した。


「七海のお兄さんが、私に何か用ですか?」


「君さ、お姉さんの転落事件の現場にいたよね」


 男の言葉を聞いて、月子は恐る恐る防犯ブザーから手を離した。


「何を言ってるんですか?」


「惚けるなよ。あれは確実に君だった」


「何を根拠に?」


 事件現場に私がいた痕跡は残っていないはずだ。犯行中は指紋を残さないよう、手袋をしていた。


「駅前で俺のスマホ、拾ってくれたでしょ」


 男はジップロックに入れたスマホケースを月子の目の前に掲げた。


 そんな……この男のスマホを拾ったのは、手袋を外した後だ。指紋が──月子は無意識に自分の指先を握っていた。

 

 今、彼を逃がすわけにはいかない。


「話が長くなりそう。お茶くらいなら出すけど」


「丁度、喉が乾いてたんだ」


 月子は男を玄関を上がらせ、ダイニングに案内した。ポッドのスイッチを入れる。お客様用の紅茶を探す振りをして、包丁を隠し持った。


「どうぞ、紅茶です」


「どうも」男はティーカップを摘んで、紅茶を少しだけ啜った。「ずっと、駅前でぶつかった女の子のことが忘れられなくてさ。制服が妹と同じ高校だったから、簡単に調べられたよ。事件現場の近くにいた被害者の妹……これはもう、事件に関わっていないはずがない」


 男は私の計画をなぞるように話していく。



 十九時頃(十八時五十七分)──君、桜田花子の死体を持ってビル前に到着。立体駐車場で、車に死体を落とす。二川は命令に従いエレベータのボタンを押す。

 十九時頃(十九時一分)──二十階、二川がエレベータに車の鍵を置き、エレベータと鍵だけを屋上へ。

 十九時五分──エレベータが屋上に到達する。君はエレベータを一階に呼ぶ。

 十九時十三分──車の鍵、一階に到着(一往復目)。君はショーウインドウのマネキンをエレベータに置き、その後、車をビルの入口に移動。二川とマネキンはエレベータで屋上へ。

 十九時二十一分──二川、屋上に到着。マネキンを落とす。その後、エレベータで二十階へ。君はビルから逃げる。エレベータは自動で、一階へ。(二往復目)

 十九時二十五分──駅前で俺とぶつかる。(ビルから駅前まで徒歩五分、走ったため一分短縮)

 十九時三十分──俺、ビル前で死体を発見、通報。



「そうそう、エレベータを呼ぶだけなら、社員証がなくても可能なんだね。刑事が社員証をかざしたのは、エレベータに乗った後だった」


「……何の話?」


「そうか、君は刑事さんに会っていないのか。


 もしかしたら知らないのかな、エレベータのボタンは拭われていた。二川は機転が利くやつだ。指紋が残っていれば、警察はすぐに彼を逮捕できたのに……君にとっては残念だね。


 俺は、君が二川龍太を犯人に仕立て上げた可能性の方が高い、と睨んでいる。実はマネキン人形が落ちる瞬間、屋上で一瞬だけ光った何かを見たんだ。屋上には人工の光はなかった。つまり、犯人は何か光源を持っていたということだ。証言では、事件が起きたとき二川は電話をしていた。彼は真犯人から電話で命令を受けており、電話をしながら犯行に及んだ。俺が見た光の正体はスマホの画面だった」


 ──失敗した。


 そこまで分かっているのに、この男はどうして私の前にいるのだろう? 彼はこの推理をまだ警察に言っていない。


「何が目的?」


 男の要求によっては、月子は彼を刺すつもりでいた。


「俺、女の子のうなじが、凄く好きなんだ。前の彼女には、気持ち悪いって振られちゃったんだけど……」


 男は立ち上がり、少しずつ月子との距離を詰めてくる。五本の指の腹が、蛞蝓かつゆのように月子のうなじを這った。月子は包丁を落としていた。


「お姉さんのうなじは凄く良かった。高校一年のとき、俺は彼女の後ろの席だったことがあってね。授業も聞かず、ずっとうなじを眺めていたんだ」


 撫でられた肌が、内側からぞわぞわした。耳朶だじに、男の荒い息がかかる。


 彼が黙ってさえいれば、警察は二川を殺人犯として捕まえるだろう。月子はそれだけを考えながら、男の愛撫を受け入れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る