死体の正体
死体の正体が、高一の頃同じクラスだった桜田花子とは思わなかった。数年も会っていないと気づかないようだ。死人に名前が付いた途端、妙な親近感が心の底に芽生え始める。
自動ドアの手前、黄色いテープの内側で俺は警察から事情聴取を受けていた。黒いコートを羽織った偉そうな刑事が、俺を担当していた下っ端を押しのける。
「刑事の松浦です。知人が亡くなってお辛いでしょうが、事件解決のためにもう少し時間を頂きます。もう一度確認しますが、あなたと桜田さんは、高校の同級生でしたね」
「同級生というだけで、話したこともありませんでした」
動機がないということをアピールしたつもりだったが、かえって疑われたかもしれない。
俺の心配とは裏腹に、松浦は強面の上ににこやかな笑いを作った。
「緊張してらっしゃるようですな」
「まあ、警察の前ですから」
「とはいえ、墜落死体の発見者にしては、随分と落ち着いておられます。幸い──死者には幸も不幸もありませんが、桜田さんは車の屋根がクッションになったおかげで、原型を留めておられました」
俺は落ち着いているのだろうか? 自分でもよく分からない。知人が殺されたとき、もっと慌てるのが普通なのだ。
「刑事さん。桜田さんは、やはりビルの屋上から落とされたのでしょうか?」
ビルから落下する人影を思い出す。仮に犯人が屋上で桜田さんの背中を押したとして、俺はその誰かの判別は付かなかった。……あれは本当に桜田さんだったのだろうか? 人形は死体に被さっていたのだから、普通に考えて人形が落ちたのだろう。
松浦は真剣な表情で、手帳をペンで突いた。
「被害者の首には縦の
「……首吊り自殺ですか」
俺は、昔読んだ絞殺の知識を蘇らせた。
多くの場合、犯人が被害者の首を紐で締めたとき、索条痕は横につくという。犯人は被害者の後ろから近づき首に紐をかけ、被害者が抵抗できないよう紐を引っ張るからだ。人間は腕に力を入れると肘が曲がるため、紐の痕は横になる。そしてこの殺害方法が用いられた場合、被害者の死因は、気道が締められたことによる窒息死となる。一方、首吊り自殺の場合、索条痕は縦につく。自殺者は自身の体重を利用して縦に首を絞めるからだ。この方法を用いた自殺者は、まず頸動脈が締まり、脳に血液が行かなくなって意識を失う。もちろん、重力を利用しない首吊り自殺もあるし、被害者と犯人に身長差があれば、絞殺でも索条痕は縦につくことがある。
「被害者の死因は、紐状のもので首を絞められたことによる
「飛び降り自殺……いえ」 昨晩に首を吊った人間が、飛び降り自殺をするはずがない。俺はすぐに訂正する。「犯人は桜田さんを絞殺した後に、高所から死体を落としたということですか?」
「仰る通りです。犯人は桜田さんを絞殺後、高所から墜落させた。マネキンが形状を保っていたのは、死体がクッションになったからでしょう。四十階相当のビルの屋上からであれば何が落ちても凶器になります。一人の人間を三度も殺すとなれば、犯人は相当な恨みを持っていると考えられますな」
絞殺、墜落死、落下物による殺害。桜田は三度も殺された──? 考えるだけで頭がくらくらしてくる。
刑事はこほんと咳払いした。
「正直に言うと、被疑者──容疑者と言ったほうが聞き慣れていますか──は三人に絞れているのです。あなたの証言のおかげでね」
「俺の証言のおかげと言われても……どういうことですか?」
「階段には監視カメラが設置されていました。映像は確認中ですが、ぱっと見た限りは何も映っていませんでした。ビルに残っていた容疑者は三人です。三人とも事件の時間に関して、エレベータを使用していないと証言しています。その一方で、三人ともエレベータの階表示が動いたと言っています。つまり、犯人はエレベータを使って屋上へ移動したということです」
「エレベータに監視カメラは?」
「数年前に故障してから、直していないそうです」
「外部の人間が犯人の可能性は?」
「ほぼありえない、と見ています。エレベータを動かすには、社員証が必要ですから。カメラの故障を放置できるのは、ある種、社員を信頼しているからかもしれません」
「例えば桜田さんが社員証を持っていて、犯人がそれを使ったとか……」
「桜田という社員はこのビルの社員にはいないのです。もちろん社員証も発行されていない。桜田さん、もしくは外部の犯人が何らかの方法で社員証を手に入れたという可能性は限りなくゼロに近いでしょう。
と前置きしまして、ここで、あなたの証言が生きてくるのですよ。犯人が屋上からマネキン、もしくは絞殺した被害者を落としたのは十九時二十一分。通報が十九時三十分。ですから、犯人が屋上から逃げる時間は九分しかないのです。そして、ビルのエレベータですが、屋上から一階まで丁度八分かかります。通報まで、犯人の猶予は一分しかありません。つまりですよ、もし犯人が逃走しているならば、あなたが現場付近まで来たとき、犯人の後ろ姿、あるいは逃走する車を見ている可能性が高いのです。ビルの隣には立体駐車場など、隠れる場所はゼロではないですが、人海戦術は警察の十八番です。むしろ、ビルに残っていた人間が犯人だった場合の方が、警察にとっては問題なのです」
俺は駅前でぶつかった少女のことを思い出した。しかし論理的に考えて、ビルの屋上からマネキンを落としたのは彼女ではない。学生が社員証を持っているはずがないし、仮にエレベータが使えたとしても、時間的に不可能だ。駅前からビルまで徒歩五分。もし彼女がビルの屋上からマネキンを落としたのなら、エレベータで一階に降りるまでに八分を要する。そこから走ったとして四分で駅前に着いたとしても、十九時三十三分。しかし、実際に僕と彼女がぶつかったのは十九時二十五分である。
彼女が論理的に犯行不可能なら、わざわざ言う必要もあるまい。かえって捜査を混乱させるだけだ。
「佐藤さん。犯行の目撃者であるあなたに、容疑者の面通しをさせていただきたいのです」
「もし犯人の姿を見ていたとしても、距離がありましたし、はっきりと見たわけでは……」
「やらないよりは、やったほうがいい。捜査とはそういうことの積み重ねです。それに、佐藤さんから人影が見えていたなら、犯人からも佐藤さんが見えたかもしれない。犯人が動揺したら儲けもの、くらいの気持ちで十分ですよ」
俺が「それなら」と頷くと、刑事は「それではこちらへ」と入口の自動ドアに手を向けた。
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