第40話 十年後
窓の外には気持ちの良い五月晴れが広がっている。
時計代わりに点けているテレビからは「今日は降水確率0%の快晴です」とさわやかな女子アナの声が聞こえてきた。
もうすぐ玲奈が起きてくるはず。遥斗は予めコーヒー豆をセットしていたエスプレッソマシンの抽出ボタンを押した。
ブーンという機械音が鳴り響き、琥珀色の液体がカップに注がれ始めた。
「おはよ」
予想通りテレビから7時から始まるニュースのオープニングテーマ曲が流れてくるのと同時に、玲奈の明るく透き通った声が聞こえた。
「おはよう」
「気持ちのいい天気ね」
遥斗と話しながら玲奈はヘアバンドを外すと、そのまま床に投げ捨てるように落とした。
遥斗が慌てて駆け寄り、拾い上げる。
「だから、何度も言ってるでしょ。使ったものは元に戻して」
「いいじゃん、遥斗が元戻しておいてよ。ところで、今日のスケジュールは?」
玲奈は何食わぬ顔で予定を聞いた。遥斗は壁に掛けてあるカレンダーを見ながら答える。
「10時から撮影スタジオの楽屋で雑誌の取材そのあとドラマの撮影で、16時から事務所で次のイベントの打ち合わせ。9時にタクシー予約したから、それに乗って撮影スタジオに行ってね」
「わかった」
若者に人気のモデルから人気女優に成長した玲奈は、順調に仕事も増えてきており予定を書き込んでいるカレンダーは真っ黒だ。
所属事務所には正式なマネージャもいるのだが、朝からマネージャーの声を聞きたくないという玲奈の希望で、毎朝その日の現場まで送り出すのは遥斗の仕事になっている。
トボトボと鈍い足音を響かせて、葉月が眠たそうに目を擦りながら起きてきた。
「おはよ」
「葉月、おはよ。また徹夜?」
「ううん、徹夜じゃないけど、1時過ぎに良いアイデアが思いついて夢中で書いてたら4時過ぎまで書いてた。それからちょっと寝たけど、まだ眠い」
「もう少し寝ておけば?」
「締め切り近いからね。それに、寝ている間に遥斗が出て行ってしまうの嫌なの。朝はちゃんと挨拶したいの。エスプレッソダブルで頂戴」
葉月はテーブルに腕を乗せて伏せながら、横目でエスプレッソを入れる遥斗の様子を見つめている。
葉月は大学卒業後は専業作家になり、その後いくつか文学賞を受賞して売れっ子作家の仲間入りをした。著作がいくつもドラマ化や映画化され知名度は上がってきたが、いまだに素顔や詳細なプロフィールは公開せず覆面作家のままだ。
遥斗は淹れたてのエスプレッソをテーブルに置いた。
「あんまり、無理するなよ」
「え~だって、書きたい世界がいっぱいあるの。それに続きを待ってるファンもいるから頑張る」
人気作家の葉月の元には執筆依頼が殺到している。遥斗が窓口になって、ギャラに見合わない仕事や作風に合わない仕事は断っていが、それでも半年先までスケジュールは詰まっている。
パタパタと大きな足音を響かせて、若菜が朝練から帰ってきた。
「ただいま!」
体が火照っている若菜は部屋に入るなり、Tシャツを脱ぎ捨てた。上半身はスポーツブラだけの状態で冷蔵庫を開けた。
「若菜、目のやり場に困るから上着着てよ」
グラスに注いだ麦茶を一気飲みした若菜は平然な顔で遥斗に近づいた。
「別に気にしないから、思う存分見てもいいのよ」
若菜は見せつけるように、頭の後ろで腕を組んで体をねじる悩殺ポーズをとり、目のやり場をなくした遥斗はそっぽを向いた。
そんな遥斗に若菜はさらに追い打ちをかける。
「今度のオリンピック終わったら、子供作ろう」
「朝から、そんなこと言わないの」
「あら、夜だったらいいの?」
若菜は胸を遥斗へと押し当てる。返答に困った遥斗は、顔を真っ赤にして押し黙った。
「あっ、だったらわたしも今の連載が終わったら、子供作りたい」
「え~だったら、ドラマが終わったら私も」
葉月と若菜が遥斗を取り囲む。
「も~、早くご飯食べないと遅刻しちゃう」
三姉妹の包囲網から逃げ出すと、遥斗はテーブルについて朝ごはんを食べ始めた。
一緒に暮らすようになって10年以上が過ぎた。住んでいるマンションがタワーマンショに変わったが、三姉妹との関係は変わらない。
慌ただしく朝食を食べ終えた遥斗は、自室へと戻りルームワンピースを脱いだ。
グレーのタイトスカートを履き、白のフリル付きブラウスを羽織る。着替え終わったところで、メイクへと取り掛かった。
遥斗は結局、女の子を止められなかった。
高校を卒業した時、就職した時、タワーマンションに引っ越した時、男に戻るタイミングは幾度もあったが、女装したままでも周囲は自然と受け入れてくれたので、ずっとそのままだ。
いつも一番早く家を出る遥斗を、いつも三姉妹は玄関先で見送ってくれる。
「それじゃ、行ってくるね。玲奈は9時のタクシーに乗って、葉月のお昼ご飯と若菜のお弁当はキッチンに置いているから」
「わかってるって。それじゃ、いってらっしゃい」
靴ベラを使いヒールを履いている遥斗に、玲奈が声をかける。
ドアを開けたところで振り返って、「行ってくるね」といい遥斗は家を出た。
◇ ◇ ◇
駅のホームで玲奈がモデルを務める大きな化粧品のポスターは通勤、通学客の目を引いていた。
多くの人の視線を集め、中には足を止め見入っている人もいる。
遥斗はちょっと誇らしい気持ちになりながら、ポスターの前を横切り改札を抜けた。
駅から歩いて数分の場所にある雑居ビルの3階、エレベーターを使うことなく階段で上がってきた遥斗はフッーと一息ついてから、「筧法律事務所」と大きく書かれたあるドアを開けた。
「おはようございます」と挨拶しながら遥斗が事務所に入ると、礼司が書類から視線をあげ「おはよう」と挨拶を返してくれた。
司法試験合格後、一年間の司法修習が終わると遥斗は礼司と同じ法律事務所に就職した。
ここなら女装したまま働くことに、理解を求める必要はない。
突然のお尻を撫でまわされる感触に振り返ると、北村先生が微笑んでいた。
「若先生、おはよ。今日もお尻のハリがいいね」
父親の礼司と区別して遥斗のことを若先生と呼ぶ北村先生のセクハラは日常茶飯事だ。弁護士とは思えない倫理観で、隙あらば触ってくる。
「も~、セクハラで訴えますよ」
「対価型ハラスメントとは無関係だし、行為の違法性阻却事由が成立してるよ」
「それって、主観的な不快感を軽視しすぎじゃないですか?」
「社会通念に照らせば、これくらいは合理的な発言でしょ?」
北村先生は悪びれる様子もなく、自分の席に座った。
毎朝の恒例行事も終わったところで、遥斗も自席について仕事に取り掛かった。
西日が事務所に差し込み始めたころ、倒産した会社の債務整理のための書類を作成しているとき、電話の着信音が鳴った。
スマホの画面をみると玲奈からだった。
何だろう。時計を見ると16時を過ぎていた。スケジュール通りだと、玲奈は事務所で打ち合わせをしているはずだ。
通話ボタンを押すと、玲奈からの悲痛な叫びが聞こえてきた。
「お願い遥斗、いますぐ事務所に来て、助けて欲しいの」
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