第12話 日常
朝6時、朝のトレーニングに出かけていく若菜の玄関のドアを開ける音で遥斗は目を覚ました。
隣で眠る葉月を起こさないように、そっとベッドから起きる。
昨晩日付が変わるころまで葉月とシャーロックホームズについて語り合っていたので、まだ眠気が残っている。
日中は暖かくなってきた4月半ばとはいえ、まだ水道の水は冷たい。
その水で顔を洗うと眠気も一緒に洗い流されていく。
洗顔が終わると、遥斗は化粧水の瓶を手に取った。
ちょっと前までは顔を洗った後タオルでごしごしすればよかったが、今は違う。
タオルを押さえつけるながら擦らずに水気をとり、その後に化粧水、乳液、日焼け止めと順に塗っていく。
貴重な朝の時間を奪う、ルーティンが増えてしまった。
サボりたい衝動にも駆られるが、そのたびに玲奈の「美は一日して成らず。されども、一日にして崩れる」という言葉が脳裏に浮かんでくる。
その言葉通り、化粧水をつけたときの肌の感触が少しずつ柔らかいものに変わっているのを遥斗は感じていた。
この部屋に引っ越してから女子の隠れた努力を知り、見る目がかわってしまった。
朝のスキンケアを終えた遥斗は、弁当作りに取りかかり冷蔵庫を開けた。
中から昨日の残りのかぼちゃの煮つけと、常備菜の人参シリシリを取り出し、お弁当に詰めていく。
空いた隙間にミニトマトとブロッコリーを詰め、最後にもう一品オーブンで焼いておいた竹輪のツナマヨネーズ焼きを詰めお弁当は完成した。
お弁当に続いて朝食の準備に取り掛かろうとしたとき、目を覚ました葉月がリビングに姿をみせた。
「おはよ。何か手伝おうか?」
「おはよう。それじゃ、コーヒー淹れてくれる?」
「うん」
緑色のパジャマ姿のまま葉月は電子ケトルに水を入れ、お湯を沸かし始めた。
遥斗は朝食用に目玉焼きを作るために、冷蔵庫を開け卵を取り出しフライパンを温め始めた。
「おはよん!」
紺地のパジャマを着た玲奈が、にこやかなあいさつと共にリビングに入ってきた。
「今日の朝は、ちょっと冷えるわね」
玲奈はそう言いながらティッシュをとり鼻をかむと、そのティッシュを自然な動作で床に投げ捨てた。
「玲奈さん、使い終わったティッシュはちゃんとごみ箱に捨てて!」
「え~、だって面倒。遥斗片付けておいて」
ソファに座りテレビを観始めた玲奈はテレビから視線を外すことなく、遥斗の抗議を受け流す。
美意識を自分に全フリしている玲奈は、住居への美意識はゼロでゴミは投げ捨てるし、使ったものは片づけない。
自分の美以外に関心を持たない玲奈に、これ以上何を言っても無駄だと悟った遥斗は仕方なくティッシュを拾い上げた。
ティッシュをゴミ箱に捨てていると、今度はキッチンの方から葉月の「キャー」という悲鳴が聞こえてきた。
遥斗が慌てて駆け寄ると、葉月の足元には黒い海が広がっていた。
「どうした?」
「ごめんなさい、淹れたコーヒー運ぼうとしたら落としちゃった」
マグカップは強化セラミック製のため割れることなく、コーヒーと共に床に転がっている。
遥斗は急いで洗面所に向かうと、雑巾を手にして台所に戻った。
葉月は一歩も動かず申し訳なさそうに立ちすくんだままだった。
遥斗は雑巾で床にこぼれたコーヒーを拭きながら、葉月に声をかけた。
「ここはやっておくから、トースターでパン焼き始めて」
「うん、わかった。ありがとう」
毎朝、葉月は遥斗を手伝おうとしてくれるが、その度になにかしら失敗してしまう。
余計な手間が増えた朝ごはんづくりもようやく終わり、テーブルにはそれぞれの朝食が並んでいる。
玲奈は小松菜とバナナのスムージにヨーグルト。
葉月と遥斗は、パンと目玉焼きとカフェオレ。
若菜には、大盛ごはんとハムエッグ。
料理を作り終えた遥斗がエプロンを外したとき、玄関の開く音が聞こえた。
若菜が朝のトレーニングを終え帰ってきたようだ。
若菜はリビングに入ってくるなり、テーブルに置かれてある朝食に目を輝かせた。
「ただいま。朝練終わって、ご飯ができてるなんて最高だね」
「いいから、服着て」
トレーニングから帰った若菜は、ジャージもTシャツも着ておらずスポブラだけだ。遥斗は若菜の脱ぎ捨てたTシャツを拾い上げ、投げつけるようにして渡した。
「え~、だって熱いんだもん」
葉月はスポブラだけでリビングをうろつくことに抵抗がない。
姉妹だけの生活の時はそれで良かったかもしれないが、今は遥斗がいる。
「その姿で、朝ごはん食べられても目のやり場に困るだろ」
「私は困らないよ。なんなら近くで見る?」
またTシャツを手にもったったままでスポブラだけの若菜は、遥斗の前に立ち、誘惑するかのように豊満な胸を見せつけた。
上目づかいで誘ってくる若菜を抱きしめたい衝動に駆られるが、それをするとこちらに向けて殺意のある視線を向けている玲奈と葉月を敵に回すことになる。
理性を必死に働かせて、遥斗は葉月を押し返した。
「お願いだから、服を着て」
遥斗のお願いに、渋々と若菜がTシャツに袖を通した。
毎朝繰り返されるこの光景に、遥斗は辟易しながも三姉妹とのやり取りに楽しさを感じていた。
◇ ◇ ◇
3時間目の終わりのチャイムが鳴った。
古文の先生が慌てて今日の授業のまとめを話しているが、生徒たちは気もそぞろに、早く終われと念じている。
「それでは、このラ行変格活用はテストに出るからしっかりと復習するように!それでは、終わります」
「起立、気を付け、礼」
やや食い気味に日直の生徒が号令をかけ、3時間目の授業が終わり昼休みが始まった。
遥斗はお弁当箱を片手に持ち、橘さんたちのもとへと向かった。
机を4つ合わせて食べる橘さんたちとのランチタイムがはじまった。
「いただきます」
「今日も川島さんのお弁当美味しそう!」
「そう思って、多めに入れてきたから食べる?」
「うん」
3人の箸が、遥斗のお弁当箱の竹輪のツナマヨに伸びた。
「う~ん、美味しい。ちょっぴりカレー味なんだね」
「ツナの魚くささを消すために、隠し味に入れてる」
「美味しい。今度お母さんに作ってもらおう」
「自分で作るって言わないところが美佳らしいね」
これもほぼ毎日繰り返される光景。でも、こういったやり取りに遥斗は楽しさを感じていた。
「ところで川島さん、今度こそカラオケ行こうよ」
「週末は家のことで忙しいって言っても、ちょっとぐらい時間はあるでしょ」
佐藤さんと鈴木さんが非難めいた口調で、遥斗をカラオケに誘った。
「あ~、いや、その、カラオケは苦手で」
カラオケなんて、考えただけで顔がひきつる。でも、誘いを断ってばかりだとカドが立ちそう。
「苦手だからこそ、練習しなきゃ」
橘さんに逃げ道をふさがれた遥斗は、渋々日曜日の午後ならとOKを出した。
橘さんは両手をあげながら、喜びの声を上げた。
「やったー!川島さんの私服が見られる」
「普通だよ。普通」
「そんなこと言って、その普通が可愛いんでしょ。あ~、今から楽しみ」
「えっ、川島さんとカラオケ行くの?私も行く!」
橘さんの話声は大きく筒抜けで、それを聞いていた他の女子生徒たちも反応した。
「カラオケ?俺も行く!」
「ダメ!女子会なんだから、男子はお断り」
「あの~、私も一応男子なんだけど」
「いいのよ。川島さんは。じゃ、日曜日1時に、大通りのビックマイクね」
思いがけず女子6人とカラオケすることになった遥斗は、困惑の表情を浮かべていた。
みんな私服に期待しているけど、いたって普通なんだけどな。
あとで葉月に相談してみるか。
遥斗はお弁当のかぼちゃの煮つけを頬張りながら、葉月の顔を思い浮かべていた。
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