第5話 引っ越し
問題集の解答ページを開き、答えが合っていることを確認すると遥斗は数学の問題集を閉じた。
壁に掛けてある時計に視線を向けると、10時半を回ったところだった。
数学の勉強を終え、次の英語の勉強に取り掛かる前に眠気覚ましのコーヒーを淹れようと、勉強机から立ち上がりリビングへと向かった。
リビングに入ると、父親の礼司がダイニングテーブルに書類を広げ、何やら書いているところだった。
仕事は持ち帰らない主義の礼司はいつもなら晩酌しているか、ネットでエロ動画を見ているかのどちらかだが、家で書類作成している姿を見るのは珍しい。
息子の存在に気付いた礼司が振り返って声をかけた。
「おっ、ちょうどいいところにきた。遥斗、お前の誕生日いつだっけ?」
「10月22日だよ。まったく、息子の誕生日ぐらい覚えておけよ」
インスタントコーヒーをカップに入れながら、遥斗はぶっきらぼうに答えた。
電子ケトルで沸かしたお湯をカップに注ぐと、たちまちコーヒーの魅惑的ないい香りが立ち上ってきた。
熱々のコーヒーをこぼさないように慎重に歩きながら、礼司の書いている書類を覗き込むと、入学願書や、転学照会書などの文字が並んでいた。
入学願書に自分の名前があるのを見て、思わず礼司に尋ねた。
「何の書類?」
「ああ、お前の転校するための書類だよ」
「転校!?俺が?」
思いもよらない返事に、動揺してしまいコーヒーがこぼれそうになってしまった。
相変わらず重大なことをサラリといってしまう礼司に腹を立てながら、コーヒーをテーブルに置いて椅子に腰かけ転校する理由を聞いた。
「美和さんたちと一緒に暮らす部屋を探してけど、合わせて子供4人だろ。夫婦の寝室も必要だから、5LDKの広さは必要だ。4LDKまでなら賃貸でもいろいろあるんだが、5LDKになるとなかなか見つからない」
「それと、転校するのと、どう関係するんだよ」
「まあ、話を急ぐな。で、一戸建てを視野に探しているんだけど、時間がかかりそうなので、ひとまず子供たちは美和さんの3LDKのマンションに住んで、俺と美和さんはこのマンションで暮らすことになった」
そんな大事なこと一言の相談もなく、礼司は確定事項のように話した。
「それで、美和さんのマンションから遥斗の今通っている学校に通うとなると1時間以上はかかる」
「1時間なら通えないことないよ」
「それは違うだろ。毎日通学という無駄な時間に往復で2時間費やすことになる。これは受験勉強するうえで、大きなハンデとなる。そこでだ、葉月さんの通っている学校ならマンションから歩いて15分ぐらいのようだから、そこに転校することにした。編入試験もあるみたいだが、遥斗の学力なら大丈夫だろ」
鼻の下を伸ばして美和さんとの二人きりの新婚生活を楽しみにしている礼司に、何を言っても無駄だろうと諦め遥斗は転校することを受け入れた。
◇ ◇ ◇
遥斗に別れを惜しむほどの交友関係はなく、淡々と転校に伴う手続き、編入試験、引っ越しの準備をしているとあっという間に3月下旬、引っ越しの当日を迎えた。
引っ越しと言っても家具や家電は向こうの家にもあるので、服など自分の物だけ持って行けばいいので、荷造りは簡単だった。
衣服や本など重たい物やかさばるものを昨日のうちに段ボールに詰め、宅配便で送っておいた。
歯ブラシや読みかけの本、それに勉強道具など、すぐに必要なものだけ旅行用の大きなリュックサックに詰め込めば、引っ越しの準備は完了だった。
リュックを背負うと、リビングで掃除機をかけている礼司に声をかけた。
「じゃ、親父そろそろ出るね」
「ああ、気をつけてな」
家を出るというのに、まるで学校に行くのを見送るかのような返事だ。
今日から始まる美和さんとの新婚生活で、礼司の頭はいっぱいのようだ。
「親父、その掃除機のかけ方だと埃が残るよ。掃除機は引くときに埃を吸うから、往復させながら使うんだよ」
「ああ、そうなんだ。ありがとう。じゃあな」
慣れない手つきで掃除機をかけ続ける礼司を残し、玄関を出て三姉妹の待つマンションへと向かい始めた。
買い物客で混雑している電車の中で、運よく空いている席を見つけた遥斗は席に座った。
平然を装いながら窓の外の景色を眺めながらも、心は今日から始まる新生活に浮き立っている。
あの美人三姉妹とのハーレムのような共同生活。
顔合わせの時の感じだと、こちらの印象は悪くはないはず。
期待しない方が無理というものだ。
しかし、不安もないわけではない。
玲奈さんはちょっとクールだし、葉月さんは頭が良すぎて話が合わないかも。若菜ちゃんは元気すぎてついていけるか心配だ。
新生活への期待と不安が入り乱れながら、電車に乗る事1時間。目的の駅に電車はたどり着いた。
マンションの最寄り駅で降りると、駅前には食品から衣料品まで一通りそろう総合スーパーがあり、その横にある商店街も活気があり住みやすそうな街という印象をうけた。
スマホのナビに従い商店街を抜け、大通りに沿って5分ほど歩き、1本路地に入ったところに目的の5階建ての茶色のマンションを見つけた。
自動ドア前のインターホンで503号室を呼び出すと、玲奈の透き通った声が聞こえてきた。
「は~い」
「川島です」
「今開けるね」
数秒後自動ドアが開き、中へと入る。エレベータの前には監視カメラが設置されており、セキュリティの高さが伺い知れた。
最上階の5階でエレベータを降りると、503号室のインターホンを鳴らした。
薄緑色のニットを着た玲奈が笑顔で玄関のドアを開けてくれた。
フレンドリーな感じだが、一応礼儀として挨拶してから玄関に入った。
「今日から、お世話になります」
「いいのよ。兄弟なんだから、そんなにかしこまらなくても。さあ、上がって」
リビングに向け歩き始めた玲奈の後を追った。
いままでのマンションよりも広く、ソファやテーブルなどの家具は白や黒などの落ち着いた色合いでシンプルながらも上質であることが見て取れた。
高台にあるマンションの最上階ということで、リビングから広がる景色も素晴らしく、新生活への期待は自ずと高まってきた。
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