諦めてしまった願い事

レスタ(スタブレ)

彦星は語らう

 朝起きて、家を出て、いつもの駅になにか違和感を覚えて、そこでようやく、七夕がとっくに過ぎ去っていたことに、気がついた。


 改札を通り、階段を下り、駅のホームで立ち尽くす。

 スマートフォンを確認してみると、今日の日付は七月十日。

 飾られていた笹と短冊は、三日前には姿を消していたというのに、それに気が付くのに随分とかかってしまったらしい。


 また、やってしまったな、と俺は思った。


 ここ最近は、ずっとそうだ。

 カレンダーに書かれていないような行事は、それがあったことにすら気付かず当日を終えてしまっている。


 六月十六日父の日、五月十一日母の日、三月十四日ホワイトデー、二月十四日バレンタインデー、二月二日節分。

 数を数えればキリがない。

 どれもこれもが気が付くのは当日の終わりか、はたまた数日後か。

 何度も何度も繰り返しているのに、性懲りもなく俺はまた繰り返してしまったらしい。


 ため息を一つついて顔を上げると、反対側のホームに男女二人の高校生が目に映った。

 仲良さげに会話する彼らは、どこか初々しい。

 ときおり視線を合わせてはすぐに逸らし、手と手が繋がりそうな距離のまま静止した姿は、まるで逆光のように眩しい。

 線路を二つ挟んだ先にいる彼らの表題はよく見えないが、頬が赤らんでいるように見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。

 彼らもまた、今は撤去されてしまった笹の葉に、自分の願いを添えたのだろうか。

 初々しい彼らの距離感は、その願いが叶ったからなのだろうか。

 それはきっと、彼らのみが知るところなのだろう。


 俺は目を逸らし、天を仰ぐ。

 ホームの間から覗く青空は、雲一つない晴天だった。

 ここ数日は、ずっと快晴だ。

 きっと七十二時間前のこの空で、彦星と織姫は静かに年に一度の出会いを果たしたのだろう。


 アナウンスが鳴り、特急列車がけたたましく目の前を通り過ぎる。

 灰色の機体には、疲れ切ったような、くたびれたような、だらしない着こなしの社会人が一人だけ映った。

 それは誰でもない、俺自身だった。


 七夕、短冊、願い事。

 気が付けばそれらは全て終わっていて、俺は今日もまた社会の歯車になろうと自らの歩みを進めている。

 重苦しい日々、明日に怯える毎夜、繰り返される日常。

 ───そんな日を送る中で、俺は、いつから、願うことを諦めてしまったのだろうか。


 七夕は、今や願い事を願う日へと形骸化している。

 七夕に願いを短冊に記す理由を、由来を、経緯を誰も知らない。

 俺だって知らない。だけど、人々は願うのだ。

 自分の望みを、願いを、叶う訳がないと知りながら、短冊に書き記すのだ。

 それが七夕だから。それがもしかしたら、叶うかもしれないから。

 普通の人は、そう思い、願うのだ。それが普通なのだ。


 ……だけど比べて、俺はどうだ?

 一週間前、駅に飾られていた笹と短冊を見て、なにを思い、なにを感じた?


 ───なにも思っちゃいやしない。


 ただのいち風景として、何事もないように通り過ぎていた。

 電車に張られている広告を見るような目で、それを見過ごしていた。

 短冊に願いを書く子供達の笑顔に、見向きもしなかった。

 七夕が終わって三日後に、「あぁ、そういえばあったなぁ」としか思っていない。

 薄情な人間だ。

 俺はいつから、願うことすら諦めてしまったのだろうか。


「じゃあ、お願いしてみて」と誰かが言う。

「叶って欲しいことを、言ってみてよ」と誰かが言う。


 それに対して、俺は、なんだろうな、と考える。


 俺の願い事はただ───


「ただ?」


 ただ、なんなんだろうか。

 俺には何も、思いつけなかった。


 昔はたしか、すぐに願い事が出てきていたような気がする。

 いくつもの、きらきらとしたような願い事を、口にできたような気がする。

 だけど、今の俺は、端的に言えば擦り減っていた。

 繰り返される同じような日々と、このまま死んでいくんだろうなという確信から、どうしようもなく衰弱していた。

 願うことすら諦めてしまった今の俺の頭では、何一つとして願いが浮かばなかった。

 何一つとして出きやしなかった。


「だからこうなったんだよ」と誰かが言う。

「だから一人になったんだよ」と誰かが言う。


 それに対して俺は一人、納得する。

 願い、なにかを求めることすらしなかったから、こうなったのか。

 何一つとして希望を口にしなかったから、みすぼらしい今があるのか。

 納得した。

 俺はひどく納得した。納得してしまった。


 おそらくきっと、限界はずっと前からきていたのだろう。

 そして破滅は、ずっと前から決まっていたことなのだろう。


 俺はきっと、このまま生きていても、カレンダーに書いていない日の行事に気が付くことはない。

 今までそうだったように、日々を蔑ろにしていたように、それを何度も何度も繰り返してしまうのだろう。

 もう、治らないところまで来ていたのだ。

 ずっとずっと、壊れていたのだ。


 なら、もういいか、と俺は思った。

 もういいだろう、と俺は思った。

 そう思うと、後は楽だった。


 途端にスッと身体が軽くなり、世界が明るくなる。

 アナウンスが流れ始め、よく聞き馴染んだ音声が聞こえる。


『黄色い線の内側まで、お下がりください』


 電車が来る。

 俺は反して歩みを進める。

 最後の一歩は、とてもとても軽やかだった。


 衝撃と共に意識が消えゆく中、俺が最後に思ったのは、奇しくも一つの願い事だった。


「やり直したい」という、いつかに諦めてしまった、どうしようもない願い事だった。


 ◇


 朝起きて、家を出て、いつもの駅になにか違和感を覚えて、そこでようやく、俺は夢を見ていたのだと気が付いた。


 改札を通り、階段を下り、駅のホームで立ち尽くす。

 スマートフォンを確認してみると、今日の日付は七月十日。

 果たして俺が見たあの夢は、これから起こる未来なのか、それともただの夢なのか、どちらなのかは判断できない。


 まぁしかし、しかしだ。

 俺が七夕をなかったかのように過ごしてしまったことだけは真実だった。


 反対側のホームには男女二人の高校生の姿など見えないし、特急列車だってこの時間帯には来やしない。

 だけど、またいつものようにカレンダーに書いていない行事を忘れていたことだけは事実だった。


 俺は確かめるように天を仰いだ。

 空にはさざ波のような雲が浮かんでいる。

 そんな空をみて、俺は綺麗だな、と思う。

 決して自分を惨めだとは思わなかった。


 そうだ、あの夢はきっと、俺にとって都合が悪い方向へと傾いた悪夢なのだ。

 俺は臆病者だ。自死などできない。する勇気もない。

 電車がやってくる寸前の線路に、稀に飛び込みたくなる衝動はあれど実際に飛び込むことなどあり得ない。

 だからあの夢はきっと、ただの悪い夢なのだ。

 そうでなくても、或いは心の奥底に眠っていた深層心理の具現化だ。


 ともかくとして、俺は願い事を考える。

 純粋に、自分が思っている通りに考える。


 俺の願い事はただ───


 ただ?


 夢で最後に願った通り、俺はやはりただやり直したいだけなのだろう。


 いつの間にか諦めてしまったけれど。

 七夕はとっくに終わってしまったけれど。

 短冊も笹も用意できていないし、七夕の願い事は誰が叶えてくれるのかさえも忘れてしまったけれど。

 あぁ、どうか、お願いだ。


 俺はスマホを再び手に取り、連絡帳を開いてとある番号をタップする。

 スマホを耳に当て、呼吸を整えながら耳を澄ます。

 いくつかのコールの後に、声が聞こえた。


「やぁ、久しぶり。うん。また、忘れちゃってたよ」


「うん、今回もひどいね。気が付くのに三日後かかった」


「そうだね。でも、ようやく君の言ってたことが理解できたんだ」


「うん、うん。ごめん、ありがとう。それじゃあ、また」


 スマホをポケットにしまって、今日も俺は人を社会の歯車に変える方舟へと歩みを進める。

 だけどその足取りは軽く、世界は眩しかった。


 俺は帰りに、スーパーマーケットにでも寄ろうと思った。

 あったらだけど、七夕ゼリーを二つ買って帰ろうと、そんなことを俺は思った。


 七月十日、水曜日。

 なんの変哲もない平日は、俺にとって、三日遅れの七夕になりそうだった。

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