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四月二十二日、朝。窓には一昨日と変わらない風景が切り抜かれている。差し込む晩春の陽射しに目を細めながら、けたたましく鳴る目覚まし時計を止める。
あの不思議な体験からは特になにもなく、普段と変わらない日常が流れている。身体にも特に変化はない。本当にこの身に起こった出来事だったのか、それともやはり、疲れ果てた先に見た幻想だったのか。
とにかくもし、あれが本当に起こったことなのだと確認するには、ウミカの言っていた『明日の夜』……つまり今日の夜に、昨日の朝と同じように着衣のまま湯船に沈んでみるしかない。
忘れないよう机に置いてあったメモ帳にそのことを記入し、朝食を食べることにした。
朝食と言っても、一つのサンドイッチとインスタントの味噌汁だけである。我ながら随分と質素で安上がりな奴だなと思うが、これで十分足りるので、仕方がない。
お湯を沸かして容器に入れ、割り箸でかき混ぜる。
「いただきます」
そう呟いてサンドイッチを齧る。レタスとハムの食感に若干、ムッとしながらも食べ進める。そう言えば俺、昔、野菜嫌いだったわ……。あんまり慣れないことするもんじゃないなぁ。
そうしみじみ思いながらも、ふとウミカの言っていたことを思い返す。『過去を変える』……小説や映画、アニメの世界でしばしば行われる夢物語のようなその事象。それが現実に起こるなんて微塵も思っていなかった。でももし、それが可能ならば――
朝食の残骸をまとめてビニール袋に入れ、講義までの時間を絵に使うことにした。色鉛筆と描きかけの画用紙を机の上に広げる。そこで、あの日は気づかなかったことに気づいた。
画用紙に広がる、ある女性の絵。それはどこかで会ったことのある、記憶の奥底に沈んでいたものをかき集めて書いてあったはずである。でも、その女性はどこか、昨日会ったばかりの、ウミカによく似ている……。
多少驚きはしたものの、ウミカが自身を『深層心理の投影』と称している時点で合点がいった。少し不思議ではあるが、やはりあの世界は自身の『深層心理の投影』であり、知らず知らずのうちにその輪郭を絵として表していたのかも知れない。
「なら昨日見たものを思い出しながら描けば上手くいくのか……?」
その時、絵馬に電流走る。言い回しはまるでどこかの賭博黙示録の漫画の一場面のようであったが、まさにそんな感覚が、自身に宿った。これならばイケると直感した。
その調子のまま絵に濃淡、各パーツにあの世界のリアリティを落とし込む。陽射しのないあの部屋の、あの奇妙に温かな光。今まで絵の女性に感じていた異世界感から一変、やけに挑発的で生意気な親近感。あとは――
――あれ、なにか足りない。今までサーファーが波に乗るようスイスイと進んでいた手が止まる。……いや、きっとあの世界、そしてウミカとの時間が少ないからこそ生まれた停止だ。気にすることはない。
俺は本格的に手を止め、勢いと流れで描いていた絵を、椅子から立ち上がってより俯瞰する形で眺める。……うん、前よりもより、しっくり来る。今までなかった奇妙なリアリティも生まれた。完成は近いのかも知れない。
もう一度椅子に座り直し、画用紙と色鉛筆を片付ける。予定よりだいぶ早く切り上げてしまったため、手持ち無沙汰になってしまった。今まで描いていたからかやけに興奮しバイタリティ溢れる自分を落ち着かせるため、散歩に出ることにした。
玄関の鍵をかけ、マンション三階からこつこつと降りる。散歩がてらコンビニに寄ろうと思い、坂道を下って大学よりさらに先の道を行く。
山々に囲まれ閉塞感がするこの町に、開放感をもたらす薫風。盆地だからか、昼間に近くなれば初夏と言って良いほど温度が上がる。それとは逆に夜は冬を引きずっていて、背きたくなるような寒さだ。この温度差、引っ越してきて一年経っても慣れない。
そもそも出身が静岡県切絵町という御前崎市に近い海辺であることから、この山梨県葦野市の閉塞感溢れる山々は身体的にも精神的にも合わない。なんで来ちゃったんだ俺は……?
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかコンビニに着いていた。自動ドアをくぐって店内へと入る。春の終わりを告げるような青々しい店内BGMが流れている。
特に買うものは決めていない。ひたすら、ぶらぶらと店内を右往左往して商品を眺める。買い物はこうでなくっちゃあな。
誰かと来るでもなく、誰か知り合いに会うわけでもなく、ひたすらに一人。結局俺は、一人のこの時間がたまらなく愛おしい。でもやはり、寂しくもある――いいや、ナイーブになったって良いことはないぞ、俺!
そう思い、勢いよく炭酸ジュースと菓子パンを手に取りレジへ進む。会計を終え、店の外でキャップを一捻り。軽度の破裂音と泡の勢いを殺すように飲み口にがっつき、喉の渇きと孤独を飲み込む。
スマホを取り出し時刻を確認する。デジタル数字は『12:30』を表している。家に戻って講義の準備をしなくては。
「よし……行くか」
そう呟き、歩き出す。
……ちなみにその後、道中にある踏み切りで足止めを喰らって授業に遅れそうになったことは、秘密である。
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