第9話

 王都までの手紙の往復に必要な期間が五日から六日。以降、目的の二人を引き合わせることができたなら、その時こそが密命を果たす時だと決めていた。

 本宅の門をくぐる直前、あらかじめ預かっていた魔素の固まりに爪先を弾いて作った摩擦を乗せ、背後へと放っておく。摩擦は風を受けてさらに大きくなり、いずれ雷光となって必要な者に知らせを届けるはずだ。

 父のいる書斎にまでたどり着くと、夫人は制止に入った使用人たちを風刃で弾き飛ばして踏み込んだ。

「なんの騒ぎか。……騒々しい」

 二人が顔を合わせるのは何年ぶりのことだろう。顔も合わせないほどの不仲とは言え、父にとっての夫人は存在を無視できるほどの相手ではないらしい。

「もう我慢がならないわ。縁談にこそ反対はしないけれど、せめて十分な準備期間は作っていただきます」

 夫人は居丈高に言い放ち、書棚の前で肩越しに振り返った夫に向けて腕を上げた。細身の黒衣の袖口からは黒檀色の蛇が首を伸ばしていた。

 話し合うつもりすらなく、力づくでも主張を通そうとしていることが明らかな姿勢を見、ユレンベック伯オーリーの手は剣を仕込んだ杖へと伸びる。

 ここが潮時かとディアナは唇を噛みしめ、つかつかと歩み出て夫人を押し寄せ、指先に練り上げていた水球を放った。

「──ヘディテ義母様。その責は……あたしが」

 驚愕に目を見開いた夫人の視線の、その動きにつれて下りた父の目線の先で、水球は粘度をもって広がり、その鼻先と口周りにべったりとしがみつく。

 途端に水膜の向こうにこもった怒号が周囲を震動させ、男は抜き身の剣で斬りかかってきた。ディアナは夫人を突き飛ばし、護身用の短剣で剣を受ける。

 最期の一息さえ満足に吸いきることができなかっただろう男の一撃は、あまりにも弱々しかった。


「……どういうことなの」

 突き飛ばされ、絨緞に手をついた姿勢から体をひねって尋ねる夫人の声は、さすがに動揺に揺れていた。ディアナは何も応えず片足を引き、夫人の正面に向き合って立つ。

 身の周辺に色違いのいくつかの魔素を浮かべたディアナをじっと見つめ、やがて夫人は声を立てて笑い始めた。始まりはひきつったような、中ほどには気でも狂ったのかと思うほどに甲高い、終いには吸気もできずにぜいぜいと吐き苦しむような笑いだった。

「……そんなことが……できたなんて」

 やがて夫人が絞り出すように言った声に、ディアナは無言で目を細める。

 夫人は乱れて落ちた髪をかきあげ、足を引いて絨緞の上にすっと上体を起こした。

「……縁談も虚言なのね。それなら、すべては王都の差し金かしら。そんな力を隠したままで、すばらしいわ……」

 掌を上向け、ゆっくりと両手を上げた夫人の表情には、いまや陶酔の色さえある。

「何も応えてくれないのね。──アリア、あなたも」

 夫人の目はすうっと横へ滑って、書斎の入り口付近にたたずんでいたアリアをとらえた。そしてディアナへと戻った目には、はっきりとした縦型の瞳孔が揺れている。

「……愛しているわ、二人とも。ふふ……」

 ささやくような夫人の声に、ディアナは再び唇を嚙みしめた。

「あなたが愛しているのは──ッ」

「それがいいわ」

 ディアナの言葉を打ち切らせ、夫人は音もなく上げた指先で一際明るく輝く火球を示す。

 ディアナは顔をゆがめて大きく息を吸った後、一度は目をそらし、夫人に向けてそれを放った。頼りなく中空をさまようように進み来た火球を広げた両手の中に収め、夫人は再びうっとりと蕩けるような笑みを見せる。

「あぁ……素敵。こんなところにあった、あの子の──」

 独白めいた声が終わる前に火球は夫人の肌に燃え移り、その縁を舐めるように広がった。最初は高く突き抜けるような女の悲鳴であった声はやがて喉を奥から割るような尋常ならざる叫び声へと変わり、そのうちには野生の動物が荒々しく放つ獰猛な鳴き声のように変化した。

 憑りついた相手の魔素を吸い尽くすまでは決して消えることのない炎は、それが人であった頃の姿さえ留めぬほどに変化した黒い塊と化すまで肉を、骨を蹂躙し続けた。

 ディアナはただただ無言で、その様をじっと見つめていた。


 騒動の声は聞こえていただろうに誰もやってこないことを不思議に思ったディアナが訪ねると、アリアはあっけらかんと自身が手を打ったことを告げた。

「まあ、逃げ出すほどの時間はないかもねぇー」

 どこか呑気な口調ながら、ディアナよりも体力で劣るアリアの息はとっくに荒い。

 本宅を出、茂る低木の中に身を隠すと、アリアは幹同士の隙間に体を横たえた。

「あー、もう疲れたし走れない。あたしはここまでかな」

 息も絶え絶えのアリアの隣に膝をつき、ディアナはその額を手で叩く。

「何言ってるの、一緒に逃げるよ。どうせ王都に出頭したところで、あんたの死霊術は禁忌のもの。──せいぜいが研究動物扱いで、いずれ抹殺されるに決まってる」

 夫妻の殺害はもともとは王都から命じられた密命だったが、ディアナには最初から王都へ戻るつもりはなかった。

 ぱちくりと目を瞬いてディアナを見つめ、感心したように長く息を吐くと、アリアはその場に身を起こす。

「そっか、そっかぁー。じゃあ、いいね。二人で遠くの国まで逃げちゃおう」

 悪戯っぽく笑うとアリアは立ち上がった。

 後方の草原に斥候避けの風刃や水膜をいくつも放ち、二人は改めて低木の中を走りだす。

 手に手をとっての逃亡劇の行く先は、もはや二人自身にさえ分からなかった。

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