第2話

「髪を伸ばして、少しくらい女の子らしい格好をすればいいのに。きっと可愛らしいわ」

 夫人が湯から上がるのに合わせ、周囲に控えていた女中たちはほとんど音もなく駆け寄ってくる。柔らかな綿生地で滴る水分を吸い取り、白粉を薄くはたく。

 手慣れた、それでいて緊張に強張った動きで夫人の身支度を整える彼女らの動きにはお構いなしに夫人は豪奢な金髪を振り回し、伸びをし、髪先を眺めては指先から飛ばす鋭い風の斬撃で傷んだ髪の先を切り飛ばしていた。夫人の呼んだ風の余波が女中の肌を傷つけ、赤い筋が走っても彼女らは声ひとつ上げない。決して慣れなどではなく、必死にこらえているだけだ。彼女らの表情をちらりと盗み見るだけでよく分かる。

 夫人に近い年頃の女体を見る機会などそう多くはないが、美しい人だとは思う。双胸はたわわな果実のように実り、肌はなめらかな陶磁器のよう。鋭い眼光を放つ縦長の瞳孔にこそ違和感はつきまとうが、伯爵家の他からも数々の求婚があったという話は、あながち嘘ではないだろう。

 あの美しさの一割ほども優しさに変えることができていたなら、と惜しむ声があったことをディアナはふと思い出した。

 昼間着であっても夫人は濃い色のドレスを好んだ。この日は瞳の色に近い紫紺色を身にまとい、ディアナを伴って隣室へと移る。

 向かいの席に座るディアナの挙動を見つめ、夫人は悩ましげなため息を吐いた。

「あなたときたら、いつも自分の都合でしかこちらには来ないけど。呼び寄せるくらいは簡単なことなのよ? 行儀作法でも刺繍でも、習わせることはいくらでもあるもの」

 月に数回は訪れているというのに、都度の夜の相手だけでは物足りないとでも言うのだろうか。それともディアナが自身の都合で訪れているだけというのが気に入らないのか──ディアナは何も気づかないふりをして、緩く首を振った。

「習いごとならご自分の娘になさったらいかがです」

 夫人が愛人との間にもうけた娘、アリアはディアナの二月後の生まれだ。寄宿学校にいた頃、ディアナとアリアは血のつながらない義理の姉妹としてほとんど行動をともにしていた。

「まあ、嫌よ。あんな陰気臭い娘」

 夫人は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をした。食卓のパンを手にとり、しなやかな指先で割ろうとして、さらに眉間の皺を深くする。

「……パンが硬い」

 普段よりいくらか低い声のつぶやきが終わる前に室内には鋭い風の音が躍り、食卓から落ちた銀食器がけたたましい音を立て、そして夫人の背後では細い悲鳴が誰かの名を呼んだ。

 ディアナは伏し目がちに瞬き、ため息を呑み込む。話題をそらしただけつもりが、余計な一言になってしまったようだ。

 得意の風霊術で舞い上がった食卓の敷布を忌々しげに叩いて落とし、夫人は頭を振った。丁寧に結い上げられていた髪の一部がほどけ、その背に踊る。

「忘れるところだったわ。──お母様に会いにきたのだったわね」

 ディアナは目を上げ、不機嫌を隠そうともしない夫人を正面から見据えた。

「……えぇ。そういう約束なので」

 夫人は返事もせずにどこからか小さな鍵を取り出すと、それに長く息を吹きかけ、ディアナの目前に投げて寄こした。硬いと言ったパンを食卓に放置したまま席を立ち、寝室に引き上げてしまう。

 壁際では女中が髪を振り乱し、倒れた同僚のものらしい名を呼んでいた。夫人が苛立ちまぎれに吹き荒らした風の刃に体を裂かれ、一瞬のうちに絶命したようだと遠目からでも見てとることができた。

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