双離怨録

こどー@鏡の森

第1話

 貴方かわたしのどちらかに男の体があればもっと深く愛し合えたのかしら、というのは彼女の口癖だった。

 愛そのものの実在は疑いもしない言い草だと冷笑せずにはいられなかった。果たして彼女──ヘディテ・ユレンベック伯爵夫人は気づいていただろうか。

 月明かりに浮かぶ肢体は不惑に手が届こうという年齢を感じさせないほどに美しい。同い年であるはずの母のやせ衰え、かさついた手を思い出しては胸を締め付けられる。

「──起きていたの」

 彼女の端麗な顔がこちらを向いた。ディアナはにこりともせずに夫人の縦長の瞳孔を視界の中央にとらえ、見据える。

 爬虫類を思わせる細長い瞳孔のせいか、はたまた執拗な性格のせいか、いつ頃からか彼女は蛇夫人とあだ名されていた。身をかがめる彼女の意図を察し、ディアナはうつ伏せの姿勢から肩を起こす。気だるさを隠す気はなかった。

 蛇を思わせる最大の特徴が──先端のふたつに割れた舌が赤く熟れた唇の間からのぞく。

 目線を下げはしたものの瞼を伏せることはなく、ディアナは夫人の口づけを受け入れた。甘やかな熱と吐息、それから壊れやすい細工物にでも触れるかのようなたおやかな手つきは、王都にまで響く噂話の中の苛烈な蛇夫人の像とはまるで結びつかない。

 長かった寄宿生活を終え、館に戻って数ヶ月。この期間中、噂に聞いた苛烈な言動をたびたび目してきたからこそ、夜半の彼女と昼間の彼女は別の人物ではないのかと思う時さえある。

 いったい何がお気に召したのか、実の娘と同い年のディアナまで性愛の対象とするような淫婦だ。そのくせ愛人に飽きがくればみずから斬って捨てることさえあったと聞く。

 その毒牙に身も心も囚われてしまう前に密命を果たさねば。

 ひいては、ろくに人の出入りもない塔に囚われた母を助け出さなくては。

 律動的な愛撫に抑えきれない喘ぎを小さくこぼしながら、誓いを繰り返し胸に刻みゆく。


 ユレンベック伯爵家は王国南東部の豊穣な穀物地帯を代々にわたり治める名家で、何人もの高名な魔術師を輩出してきた。その大半は騎士団の一角に名を連ねる王都魔防隊の要として活躍したという。

 ところが今代ばかりは才ある者に恵まれず、祖霊たちに愛想を尽かされたのではあるまいかとの評判だった。幸いにも近々の戦事は小競り合い程度だが、隣国から大規模な進軍でもあろうものなら持ちこたえられないのではとさえ言われている。

 そんな中、かつて伯爵家を離れた者との縁談の数々を断り、今代が娶ったのがヘディテ夫人だった。理由には近縁の魔術師の名が挙がることもあれば、若かりし日の彼女の美貌が挙がることもあったが、公には何も語られていない。

知られているのは後継の子には恵まれなかったことと、それから後の夫婦仲の悪さだった。十六で嫁いだ夫人は二度の死産を経て男児を出産するも、この男児も片手分の年を数えることなく夭折してしまった。ユレンベック伯はこの頃には複数の妾を囲い、夫人は夫人で愛人とともに別邸で過ごすようになったという。

 ユレンベック伯は妾との間にディアナを筆頭に三人の子をもうけたものの、そのいずれにも飛びぬけた才というほどのものは見受けられなかった。一方の夫人もディアナと同い年の娘を出産したが、この娘には当然ながら伯爵家の継承権はない。

 娘の方もよくわきまえたもので、食事をはじめとする日常の場で夫人と同席することはほとんどなかった。おかげで事情をよく知らぬ新参の女中などはディアナを夫人の娘と勘違いすることもあるほどだった。

 別宅に寄る際、ディアナは夫人と寝室をともにしていたので、必然的に朝の支度は夫人のそばで行うことになる。夫人は起床に合わせて用意された湯に浸かり、寝ぼけ眼でディアナの一挙一動を見つめていた。

 通気性のよい麻のシャツは前身頃を重ねて紐で結い上げ、腰回りには太目のベルトを巻く。革製の胸当てを一度は手にとったが、食前に身に着けるのは気が早すぎるかと衣装掛けに戻す。

「あいかわらず男の子のような恰好をするのね。狩りにでも行くつもり」

「えぇ、まぁ──少しばかりの鍛錬を兼ねて。この方が動きやすいですし」

 幼年期から成長期手前の寄宿生活の中、ディアナは魔術よりも剣や弓の鍛錬を好んだ。まるで平民出の少年兵のようだと揶揄されることは多々あったが、血筋に期待されるだけの才に恵まれなかったのだから仕方がないと開き直っていた。

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