桜の樹の下には
京葉知性
桜の樹の下
僕は桜の樹が好きだ。この桜の樹の下には屍体が埋められているからだ。
桜の樹の下に死体が埋められているというのは想像の産物に過ぎないが、しかし確かにこの公園の桜の樹には死体が埋められている。
昔話をすることにしよう。
あの頃の僕は若かった。僕に桜の良さは判らなかった。
しかし桜ではなくても、その頃の僕にも華があった。それはそれは美しい彼女がいた。
彼女との時間はその頃の僕にとっては素晴らしいものだった。
彼女の笑みを見て僕も笑い、彼女が好きなものを一緒になって楽しんでみたりもした。
彼女は映画が好きだった。だから映画館に二人で行って、いろんな映画を見た。
あの映画は素晴らしかった。あの映画は駄作だったなんて二人で楽しんでいた。
僕の家で彼女と一緒に昔の映画を見たりもした。だいたいは彼女が薦める名作を借りて見ていたが、時々タイトルすらもまともに見ることをせずに借りたものを見るなんてこともあった。
彼女と一緒にDVDのレンタルショップに行く時間は私服のひと時だった。
彼女と森の中にポツリと咲く桜の木を一緒に見に行ったこともあった。
彼女は靴が擦れただの歩き疲れただの言って歩かないと言ったので、最終的には僕が負ぶって行った。
あの桜は本当にきれいで、言葉では言い尽くせない神秘的な美しさだった。彼女も、この桜の樹の下なら埋められてもいいな。と冗談めかして言っていた。この前見たの映画のことだろう。
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
僕は就職活動に講義や課題に忙殺されて、彼女との時間を取れなくなっていった。
僕は最大限の努力をして彼女との時間を確保していたのにも関わらず、彼女は僕への不満を少しずつ募らせていたようだった。
彼女に会えないのは僕だって苦痛だったし不安だった。彼女は魅力的で美しかったから他の男に取られてしまうのではないのかと、強い嫉妬心に駆り立てられたりもした。
不安になった僕は、たびたび彼女に訊いてみたりもした。
そのたびに彼女はすこしめんどくさがりながらも、私がもし浮気してたら桜の樹の下に埋めてくれて構わない。と言っていた。
彼女が別れを切り出したことは無かった。だけど僕たちは大人になるにつれてどんどんと疎遠になっていった。
毎日のように会っていた僕達だったけれど、僕が大学四年生になったころには月にニ回ほど、僕が社会人になった時には月に一回会うかどうかで、僕が社会人として二年目になるころにはすっかり会わないまでになっていた。
しかし僕はまだ、心のどこかで彼女との関係を信じて疑わなかった。
残業続きで癒しも無く疲れ切っていた僕は仕事の帰り道に彼女を見た。
左手の薬指に華やかな指輪を嵌めて、かつて僕に見せたような楽しそうな笑顔を隣に歩く男に魅せていた。
日に日に増える残業や上司からの理不尽な怒りよりも、その彼女の笑顔が僕を一番傷つけた。
僕は、隣に歩く男を心の底から嫉妬の炎で焼いた。
気持ちの整理には時間を要した。彼女と過ごした時間の長さを思えば、それはむしろ少ないぐらいだったが。
僕は久々に彼女に電話をした。関係に蹴りをつけようと彼女を呼び出した。
集合場所は桜の樹を指定し、時間は仕事があるからと夜を指定した。
駅から歩いて一時間はかかっていた桜の樹も、いまや駅が近くにできて十分足らずで着くようになっていた。桜の樹もいまや公園の開発が予定されるほどになっていた。
桜の樹に彼女が先に待っていた。美しさは昔と見劣りしなかった。
彼女は僕を見つけることはできなかった。一度目が合ったが彼女はついにそれが僕だと気づくことは無かった。
穴を掘るのは本当に大変だった。あそこは公園の予定地だったので、普通よりも深く掘らないといけなかった。
それでも彼女との約束を果たすのに僕は労力を惜しまなかった。
僕はそれから毎日のように夜になっては桜の樹のもとへ訪れた。僕たちの埋もれて失われた十年間を掘り起こすために。
桜の樹の下には 京葉知性 @keiyouchisei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます