第5話
煩いのは雨音なのか、僕の心臓なのかわからなくなってきた。
頭上を見上げると、傘に飛来して潰れた雨粒の塊から一筋の雫が分離して、ゆらゆらとした線を描いて縁へと滑り落ちていく。
「大丈夫? 寒くない?」
「平気。あの……」
隣の夕梨花はうつむく。こめかみから頬を覆う髪の毛が肩に引っかかってゆったりと曲がり、彼女の表情を見えにくくさせた。
「……陽一くんがいるし」
ちょっと勘違いしそうになる発言だ。
もちろん、コート越しとはいえ隣同士触れ合っていれば体温をお互いに融通することになるから、暖かくなるのは当たり前。
それ以上の意味はないに決まっている。
「そっか。じゃあやっとまともに夕梨花の役に立てたかな?」
「ううん、陽一くんは、今日だけでわたしのためにいっぱいしてくれたよ……?」
「だったら良いんだけど……あ、悪い。ちょっと寄り道」
雨が降っているせいで外の空気がいっそう冷えている。
一刻も早く帰ることが正解。
けれど、夕梨花と再会してから……いや、もっと前から、夕梨花と兄妹になって以降の僕は、いつだって正解とはいい難い選択を取ってしまったように思う。
今だって、たぶんそうだ。
帰り道からほんの少し脇道に逸れると、晴れていようが雨だろうが、暑かろうが寒かろうが毎日その場に立ち続ける自動販売機が現れる。
雨粒が強くなる暗闇の中で光る大きなホタルめいたそれは、コンビニと同じく暗闇を照らして心をほんの少し落ち着かせてくれる。
「夕梨花、コーヒー飲めたっけ?」
「あまり得意じゃないけど、飲めるよ。でも、缶コーヒーは飲んだことないかも」
「そっか。まあ、そうだよな。今は缶コーヒーじゃなくても手軽に飲めて美味しいコーヒーなんていっぱいあるし」
「でも、お母さんがね、仕事柄良く缶コーヒー飲むことあるんだけど、あ、無糖のやつね。それで、『煎れたコーヒーと缶コーヒーは別のジャンルの飲み物で、缶コーヒーを飲みたい気分になる時がある』って言うの」
「ラーメンを食べたいんじゃなくてカップヌードルを食べたいんだ、みたいな感覚か」
「そうかも」
母さんは看護師をしている。昼夜を問わない不規則でストレスフルな生活だから、ジャンクな苦みに癒やされたい時があるのだろう。
「ココアならいけるよね?」
「うん、平気。缶で飲むことはあんまりないけど、お母さんが勉強の時によく入れてくれるの」
「母さんも夕梨花の受験の大事なパートナーだね。じゃ、これ、ポケットの中入れといて。ちょっとは暖まるから」
僕は、夕梨花のコートの左側……僕と密着することになる側のポケットに、120円の即席カイロを押し込む。
「あ、ありがとう。飲むんじゃないんだね」
「そうそう。カイロ代わり。帰ってからゆっくり飲もう。長居したら体冷えるしね。じゃあ行こうか」
再度帰路を目指すと、暖かいココアのショート缶が程よいクッションになって、気恥ずかしさが収まってくれた。
もしかしたら、夕梨花もまた、僕と同じように緊張していたのかもしれない。
「……陽一くんはさ、さっき、カノジョいないって言ってたけど、それって何か理由あったりするのかな?」
「えっ、またそれ蒸し返してくる……?」
これはモテない僕に対する攻撃なのだろうか? なんて考えてしまう。
「そ、そうじゃなくて! あのね、わたし……高校の三年間で、何回か告白されたことがあって……」
「そ、そうなんだ……えー、マジかぁ」
恥ずかしいことに、ちょっと動揺していた。
でも、考えてみれば当たり前のことだ。
夕梨花はまだまだ垢抜けないところはあるけれど、素材はいいのだから。モテたって不思議はない。
それでも動揺するってことは……僕は夕梨花のことを僕に関係のある異性って考えていたっていうこと? 恥ずかしいにもほどがある……。
「でも、全部断っちゃった。あのね、別にその男の子たちが嫌いなわけじゃなくて、わたしには自信がなかったんだよね。ほら、うちってお母さん離婚してるでしょ?」
「……うん」
「お母さん、今はお父さんと一緒にいられて幸せそうだけど、前のお父さんと一緒にいる時はね、いつも苦しそうだったから。離婚するまで大変だったみたいだし」
初めて聞いた話だ。
夕梨花が話してくれなかったから……というより、僕があまりにも夕梨花のそばにいなかったから、聞く機会がなかったのだ。
『兄妹』にすらなれない他人に話すほど、気楽な話じゃないもんな。
「男の人と一緒にいることを不安に感じてたのかも。わたしもお母さんみたいなこと繰り返しちゃうのかなって。わたしとお母さんってスゴく似てるみたいだし。男の人の好みまで似ちゃったら大変だよね」
「待って。母さんにダメ男センサーがあるってことにすると、父さんもダメ男ってことにならない……? 息子の僕が言うのもなんだけど、父さんは母さんのことすごく大事にしてると思うよ?」
「あっ! そ、そうじゃなくて! お父さんはいい人だよ! 体は大きいけど、ちゃんと優しいし、すぐ怒ったみたいな大きな声出すわけじゃないし、野球の試合で負けても機嫌悪くならないから……」
「父親に苦労させられてたんだね。夕梨花が父さんに対してそう思えるなら、母さんにだってちゃんと男を見る目があるってことじゃない? それなら、夕梨花だってそんな心配することないでしょ。気にしすぎだよ」
「うーん、そうなのかも」
微笑む夕梨花だけど、どうも腑に落ちていないように見える。
「だ、だからね、わたしがそういう感じだから、陽一くんも同じようなこと考えてるのかなって……」
「確かにうちも父さんと母親……僕の生みの親は離婚してるから、そういう意味では同じかもだけど……」
僕の母親は、自分の浮気が原因で父さんと離婚した。
母親の自業自得で父さんと別れることになったわけだけど、それ以前から夫婦としてギクシャクしていて、冷えた関係を目の当たりにしていたので、いざ離婚となった時も驚きはなく、氷が水になる流れを見届けたみたいに自然と受け止めることができた。
ただ、好きで結婚したはずなのに嫌いになって裏切って別れるなんて女の人ってよくわからないなぁ、という気持ちは、小学校五年生だった僕の脳裏に強く刻み込まれてしまったかもしれない。
女性不信とまでは言わない。
ただ、女性への偏見をある程度助長してしまった原因ではある。
これまで、異性と関わるたびに身構えてしまっていたのだから。
たぶん、夕梨花に対しても。
だから僕は、ひとつ屋根の下で暮らす血の繋がらない家族に苦手意識を持ってしまい、さっさと上京して一人暮らしすることを選んだのだ。
「でも、どうして僕に話してくれる気になったの? 口にするだけで凄く大変だよね?」
「陽一くんだからだよ」
「僕だから?」
「陽一くんのいいところはね、優しいところだから。このココアもそうだし……今日は、わたしがここに着いてからずっと気を遣ってくれてる。無理やり押しかけちゃったみたいなものなのに」
「失敗ばっかりなのに?」
「その気持ちが嬉しかったの」
「……そう言ってくれると、助かるんだけど」
「だから今も、陽一くんに甘えて言いたいこと言っちゃった。お母さんのこととか、男子が苦手なこととか。わたしの方こそ陽一くんを困らせることばかりしてるよ」
「いや、教えてくれて嬉しかったよ。僕は夕梨花のこと何も知らなかったから。いや、知ることを怖がっていたのかも」
夕梨花が胸の内を伝えてくれたのだ。
僕だけ逃げるわけにはいかない。
「僕が上京することに決めたのは、夕梨花と家族として、一緒に暮らしていける自信がなかったからなんだ。男同士で暮らしてた家に、突然女の子と一緒に暮らすことになっちゃったんだから、僕みたいな人間からすれば本当にびっくりだったからね」
「あっ、やっぱり……」
「なんだ、気づいてたの?」
「うん。でも、陽一くんが言ったのとはちょっと違うかな。陽一くん、あまり目を合わせてくれないし、そっけなかったでしょ。でもそれは、わたしのこと嫌いだからだったのかなって、ずっと思ってたの」
「それはないよ、絶対ないから。変な勘違いさせてごめん。あの、恥ずかしい話をするけど……要するにさ、歳が近い可愛い女の子と一緒に住むって、その緊張に耐えられなかっただけなんだよ。ずっと女っ気のない家庭で育ってたから」
「…………」
あっ、マズい。
なんかこう、露骨に異性として意識してましたみたいなことを言っちゃった気がする。
「わ、わたしだって、同じだよ。知らない男の人と暮らすことになって、ずっと緊張してた。変なことして嫌われたらどうしようって思って、ずっと気にしてたから」
「そうなんだ、夕梨花もそう思ってたのか……」
「わたしの方から言えれば、陽一くんだって気が楽だったのにね」
「いや……」
きっとそれは僕の役目だったんだ。
僕と夕梨花は同じ問題を抱えていた。
だからこそ、お互いに打ち明けられるように、そのきっかけをつくるべきだったんだ。
だというのに僕は、自分がどう思っているのかということしか頭になくて、勝手に耐えられなくなって進学を口実に逃げ出したのだ。
お互いに嫌っているわけではなかったと確認し合ったあと、僕たちは一つの傘の持ち手を二人で握っていることに気づく。
あっ、ごめん! なんて言って、手を離すことだってできた。ちょっと前の僕なら、絶対そうしている。
けれど、今はこのままでいたい気分だったし、夕梨花の方も、なんとなく頬が赤いだけで手を離す様子はなかった。
「な、なんか、ずーっと胸のところでツンツンしてた気持ちが溶けちゃったみたい。すごく、すっきりした。思い切って陽一くんに話してよかった」
「すっきりしたのはいいけどさ、夕梨花はまだ大事な試験が残ってるんだからね? これで終わりみたいな感じになったらダメだよ」
「わかってるよー」
「なんか、緊張感のない笑み……」
「ふふ、そういう口うるさい感じがするところって、きっとお兄ちゃんみたい……なんだよね?」
「うーん、人の話を聞く限りだと、リアル兄はここまで口うるさくないらしいよ。普通に仲が良いか、冷戦状態になるかで極端で、過干渉な兄は結構レアなんだってさ」
「じゃあ陽一くんはレアなの?」
「いや、僕はずーっと『妹』のことを慮れなかったダメな奴だよ。過干渉とは逆じゃないかな」
「そうかも。陽一くんは過干渉じゃなくて親切で優しいし……」
「あっ、そう。うん、いい方に解釈してくれて嬉しいよ」
夕梨花の言い分に気恥ずかしくなってしまうのだけれど、一つの傘に収まって二人ぴったりくっついて歩くことにもはや抵抗がなくなってきていた。
「今日は帰ったら早く寝なね。勉強もいいけど、直前はあまり根を詰めると本番までの体力消耗しちゃうから」
「うん、そうする」
「合格してまたこっち来る時はさ、もっとちゃんとできるようにしておくから」
「部屋の掃除とか?」
「それもそうだけど。……ていうか、僕としてはあれくらいが快適な環境なんだけどね」
「わたしも偉そうに言ってるけど、きっとお母さんのいないところで暮らしたら、綺麗なままの部屋じゃなくなっちゃうよ」
「そうだ。結局、住む家の事はどうしようって考えてるの?」
「陽一くんの部屋に一緒に住めば? って言うのが、お父さんとお母さんの考えみたい」
「まあ、仕送りする身としてはそっちの方が経済的だろうね。一応、安全面も確保されるし」
「わたしも、そうするものって考えてたんだけど、今日陽一くんのところに来て考え変わった。会おうと思えばすぐ行けるくらい近くだけど、同じ家で暮らさない方がいいかなって思ってるの」
「ああ、その方が恋人ができた時にはいいかもね」
すると夕梨花は、傘を握る力をきゅっと強めて、声を震わせ、少しだけ早口になる。
「……そういう目的はないけど、気持ち的な意味でそういう余地はあった方がいいよね? わたしだって、いつまでも男の子を信用しないまま生きてたいわけじゃないから」
「ああ、いいんじゃない? 前向きな方がいいからね」
「競争する?」
「……僕の劣勢が過ぎるな。今まで告白されたことなんて皆無だからさ」
「それだったら……わたし、陽一くんのこと好きだよ? こ、これで一回は告白されたことになるよね?」
「真っ赤になるくらいなら、そんなお世辞言わなくていいんだよ……」
「でも、ウソじゃないから……」
「嬉しいけど変な空気になっちゃっただろ」
「わたしだってがんばったのに。もっと褒めてくれていいじゃない」
「うんうん、偉い偉い」
「普通の兄妹は高校生の妹の頭撫でる?」
「撫でないかも。でも……なんか、あまり気にすることでもない気がする。兄妹のかたちにこだわりすぎるとさ、なんか自滅しそうだよ」
「陽一くんがそうだったみたいに?」
「うん。僕には経験値が足りないから。だから、夕梨花には何が何でも合格してもらって、僕と接しやすい環境にいてくれると嬉しいな」
「じゃあ、陽一くんのために入試がんばるね」
少しは僕らなりの『兄妹』に近づけたかな、なんて思ったタイミングで、アパートに着くことができた。
話に夢中で気づかなかったのだが、雨はだいぶ前から止んでいたらしい。
傍から見れば、雨が降っていないのに仲睦まじく同じ傘に入っている変わったカップルに見えたかもしれない。
アパートの赤茶けた階段は雨のせいかぬかるんでいて、僕は夕梨花が転んで怪我してしまわないように、先に階段に足を乗せて、後ろの夕梨花を向けて手を差し出した。
「ほら。もし転びそうになったら僕を引っ張ってクッションにしてくれ」
「転ばないから平気だよ」
素直にそっと差し出してきた夕梨花の、暖かい手のひらが重なる。
『兄妹』で手を繋ぐのは、どこかくすぐったくて照れくさかった。
それでも、僕らが手を繋ぐのなんてこれが最後なんだろうな、なんて考えると、どこか感慨深くも思えてしまうのだった。
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