9
ひっそりと静まり返った広場に、一匹の黒い柴犬が入り込んできた。
歩くたびに尻尾が左右に揺れて、整った毛並みが風に揺れている。
芝生の上を軽やかにしばらく歩いていた柴犬、
「……身を隠す、ということを勉強したのはほめてやろうかの。じゃが、お前さんがおるのはわしの方からして風上じゃ。犬に匂いで気づかれないと思うておるようでは、まだまだ合格は与えられんというものじゃ」
そう言って、四郎右衛門は広場の真ん中にあるパルクールコートを見た。
コートの中に人がいるようには見えない。
ただ、風に流れて漂ってくる匂いが、フウマはそこに隠れていると語っていた。
「フ、おもしろい。生意気に挑発しておるわい」
さっきまで閉じていた扉が開かれていて、四郎右衛門の前で風に揺れていた。
四郎右衛門はゆっくりとコートの中に入る。
いくつも置かれたコンクリートブロック、
「ほれ、お前さんの誘いに乗ってやったぞい。次は何をするのか、わしに見せてくれんか、フウマよ」
四郎右衛門の声がコンクリートにぶつかって跳ね返ったとき、四郎右衛門のすぐ後ろのコンクリートブロックから少年が飛び出してきた。
「ほれ、そこじゃろ」
四郎右衛門がタンタンっとバックステップで下がり、ブロックから飛び出してきた少年から距離を取った。
少年は四郎右衛門を追いかけて走るが、いかんせん動きが遅すぎる。四郎右衛門は呆れたように少年に話しかける。
「これでは場所を変えただけで、さっきと同じではないか。フウマよ、それでは……ん?」
そこで、四郎右衛門は目を細めた。
「わしが近づくのを待ち構えて、フウマが考えなしに飛び出して気負ったと思うておったが、」
四郎右衛門は、必死で手足をばたつかせて追いかけてくる少年の姿を見た。
少年は明らかにフウマより大柄で、でっぷりとした体格をしていた。さらに、服の上に、さらにTシャツを首から通していて、走るたびにそれがひらひらと揺れている。
「お主、だれだ?」
その少年から感じる匂いは間違いなくフウマのものだったから、四郎右衛門は全く疑っていなかった。
「なぜ、お前さんからフウマの匂いがしとるんじゃ」
四郎右衛門の疑問に、これが答えだと言わんばかりに、首だけ通したTシャツが、マフラーのように揺れた。
「まさか、フウマの服を着とったんか!?」
「今だよ、フウマくん!」
ふうふうと荒い息を繰り返す少年、コニシキが叫んだ。
次の瞬間、
「覚悟しろ、クロエモン!」
それまで息を殺していたフウマが、上半身はだかで飛び出してきた。
10
「じゃあ、ぼくは四郎右衛門様の注意をひくために、おとりになればいいってこと?」
四郎右衛門が広場に戻ってくる数分前――。
コニシキとフウマは、パルクールパークの中で、作戦を確認していた。
「そうだ。とにかくお前が気を引いて、あいつの背後を取ったところで、おれが襲いかかる」
「でも、できるかなあ。四郎右衛門様って、鼻もすごく良いから隠れていたって、ああ、あれはフウマくんじゃないな、無視していいな。って思われちゃうんじゃないかな」
「ああ、そうか」
それなら、と、フウマはおもむろにTシャツを脱いでコニシキに渡した。
「それなら、こいつを振り回すか、首から通すかしてくれ。そうすれば、お前からおれの匂いがして、犬ジジイはお前をおれだって勘違いするはずさ」
コニシキはTシャツを受け取ると、素直に首を通した。コニシキの肩幅よりもだいぶ小さいフウマのTシャツは、コニシキの首元でマフラーのように揺れた。
「で、でも、大丈夫かな」
コニシキは困り顔を浮かべた。
「出ていく前に四郎右衛門様に見つかっちゃうかもしれないし、お前フウマくんじゃないだろうって、噛みつかれるかもしれない」
「それじゃ、本当の犬じゃないか」
フウマはコニシキの肩をばしりと叩いた。
「いいか。おれがあいつに触ることさえできれば、お前も試験を受かる作戦がある」
「ええっ、そうなの?」
「だけど、そのためにはおれがあいつに触ることが絶対に必要なんだ。おれ一人じゃ絶対に無理だけど、お前がいてくれれば二人で合格できるかもしれない」
「ぼくがいれば……」
「おれからしたら、忍者の試験を受けたことがあるお前だけが頼りなんだ」
フウマは気合を入れるように裸の胸をバシバシ叩くと、パルクールパークの扉を開けて中へと入っていった。
金網で囲まれた空間に入る直前、フウマはコニシキの方を振り返った。
「信じてるぜ、コニシキ。一緒に合格しよう」
11
コニシキの目の前で、フウマがコンクリートのブロックを越えて、四郎右衛門に飛びかかった。
四郎右衛門がずっとコニシキの方を向いていたおかげで、フウマが飛び出した場所は、四郎右衛門まであと3mくらいしか離れていなかった。
「覚悟しろ、クロエモン!」
フウマの動きは素早かった。
「
しかし、四郎右衛門の動きも同じくらい早かった。
「おとりを使って近くまで距離を詰めるとは、存外やるのう」
四郎右衛門は一番近くにあった、コニシキの胸くらいの高さがあるコンクリートブロックを駆け上がった。
ブロックの上からは隣のブロックや飛び移れそうな足場がある。いずれも四郎右衛門からしたら、平らなところを走るのと同じくらい簡単に、ジャンプすることができるだろう。
「このままじゃ逃げられる」
コニシキは両手を握りしめて、こめかみに当てた。まるで自分の頭から知恵を絞り出すように、握りこぶしに力を入れる。
「だめだ。だめだ、それはだめ。フウマくんは、ぼくを頼りにしてくれたんだ」
コニシキは両手の指を絡み合わせると、口の中でぶつぶつと呪文を唱えた。
「一緒に合格しようって言ってくれたんだ。フウマくんに答えなきゃ」
コニシキが呪文を唱えると、足の裏から火がこぼれるように現れると、一気に燃え広がった。
「
足元から吹き上がった火はあっという間に大きな炎の渦となり、コニシキの周りを赤一色に染め上げた。
「これは……!
いきなり広場に立ち上がった火柱に、さっさと逃げてしまおうとしていた四郎右衛門も目を奪われる。思わずコンクリートブロックの上で足を止めたとき、
「スキあり!」
四郎右衛門の足元にフウマが手を伸ばして飛びつく。
その指先が足先に触れる寸前で、四郎右衛門は空中に飛び出した。
「惜しかったのう。お前さんがどこまで考えとったか知らんが、小西の
そうさけぶ四郎右衛門に向かって、フウマは再び石を投げつけた。
石は四郎右衛門の体には当たらず、すぐそばの鉄骨に当たって甲高い音を立てたのを見て、フウマはポケットから巻物を取り出した。
「――代わり身の術!」
フウマがそう言った瞬間、フウマの体は空中に躍り出た。
すぐ目の前に、空中を跳ぶ四郎右衛門の姿が見える。
代わり身の術が、フウマが投げた石とフウマの場所を一瞬で入れ替えたのだ。
「どうだ、犬ジジイ!代わり身の術、使いこなしたぞ」
「なんと……!」
目を丸くする四郎右衛門の背中に向かって、フウマは思い切り手を伸ばすと、
「うおお、届け!」
四郎右衛門の黒い毛並みに触れた。
フウマの指先に、暖かく、意外とゴワゴワした毛並みの感触がした。
フウマと四郎右衛門は、もつれ合うようにして地面に落ちた。四郎右衛門は軽々と着地したのに対して、フウマは受け身を取れずに転がっていく。
「ぐえーっ」
「うむ。驚いたぞ、
四郎右衛門の声は、普段よりも少しだけ上ずっていた。
そのとき、フウマががばりと体を起こして、さけんだ。
「こっち来い、コニシキ!!」
「う、うん!」
その声を合図に、炎が渦を巻く中を突っ切って、コニシキが走ってきた。
フウマも、コニシキに向かって走り出す。
「おい、聞いとるのか!」
四郎右衛門が口をとがらせるが、二人は無視した。
「何なんじゃ」
このとき、四郎右衛門は二人が何をしたいのか分からなかったせいで、少しだけ動きが固まった。
「フウマがわしに触れたことが嬉しくて、ハイタッチでもするのかの」
そんなことを考えたが、そのとき、あることに気が付いた。
代わり身の術は、触ったものと使用者の場所を入れ替える。
そして、代わり身の術の使用者であるフウマが最後に触ったものは……。
「ま、まさか!」
「今更気が付いても、遅いっての」
コニシキが目の前に来たところで、フウマはニヤリと笑った。
「代わり身の術!」
四郎右衛門とフウマの位置が入れ替わった。
コニシキの目の前に四郎右衛門が現れた。
「しもうた!」
四郎右衛門は足をばたつかせるも、一瞬でコニシキが抱きかかえるように受け止めて、捕まえた。
「よっしゃあ!!」
フウマは両手を天高く突き上げた。
「やったー!……あ!し、四郎右衛門様、失礼しました!」
コニシキも喜びのあまり、四郎右衛門を抱えたまま両手を上げた。
そのせいで、四郎右衛門は再び空中に放り投げられる目に遭った。
「……こいつは、一本取られたわい」
四郎右衛門は空中で一回転して地面に降り立つと、ゆっくりと息を吐いた。
「代わり身の術は自分の身を守るため、攻撃されたときに近くのものと入れ替わる術じゃと、多くの忍者が思うとる。わしとてそれくらいにしか使わんと思っとったわい。それをあの小僧、わしを攻撃するために使いおった」
四郎右衛門は目を細めた。
「はっは、おもしろいやつじゃのう。忍者になるのが楽しみじゃわい」
その言葉を聞いたフウマがバッと振り返ると、四郎右衛門の鼻先に指を突きつけた。
「そ、そうだ!今、おまえに触ったんだから、おれとコニシキは試験に合格したってことでいいんだよな!」
四郎右衛門は首を傾げた。
「ま、合格ってことにしておこうか」
12
それからしばらく後、再び広場に人が集められたとき、その人数は20人以下になっていた。
その前に分身の術を使った数十匹の四郎右衛門が現れると、2頭が合わさって1頭に、合わさった2頭がまた1頭になり、というように次第に数を減らしていく。
最後の1頭になった四郎右衛門がお座りの姿勢を取ると、その場にいる者たちの顔を一人ずつ眺めて言った。
「今この場におる者を、1次試験の合格者とする」
四郎右衛門がしわがれた声で言うと、ほっとしたようなため息が人の間のあちこちから聞こえた。
「ううむ、まあまあ残ったのう」
四郎右衛門はだれの耳にも聞かれないよう、小さな声で言った。
「ほんとうは1次試験のうちにもう少し減るじゃろうと思うておったが、今年の候補者は優秀じゃて」
四郎右衛門は続けた。
「2次試験は明日、同じ場所、同じ時間より始める。明日の試験に合格したものを晴れて宮之台御用隠密と認める故、各々はげむように。では、解散」
四郎右衛門がそう言った瞬間、その場にいた人間のほとんどが一瞬で消えた。あとに残された数人の中には、フウマとコニシキが残されていて、二人は互いに顔を見合わせた。
「ほんとうに合格しちまったな」
「初めて1次試験に合格しちゃったよ……大丈夫かな、明日も試験受けなきゃいけないんだよね」
フウマがつぶやくと、コニシキは不安そうな表情を浮かべた。
「あったりまえだろ?そうすりゃ、お前も晴れて忍者になれるじゃねえか。もうばあちゃんにとやかく言われることもなくなるぜ」
「ああ、そうか……うん、そうだね」
コニシキはどこか感動したように言った。
「じゃ、おれ帰るけど、明日また学校でな」
「あ、うん。そうだね。また明日、一緒に頑張ろうね」
コニシキにひらひらと手を振ると、フウマはスタスタと家に向かって歩き出した。
しばらく歩いて、駅へと向かう人ごみがちらほらと見え始めた頃、そういえば、とフウマは足を止めた。
「おれの下駄箱に手紙入れたやつ、結局だれだったんだ?犬ジジイか?あのモミジってやつか?」
少し考えたが、結局だれのしわざか分からなかったので、フウマは手紙をランドセルの中に放り込んで、家へと帰っていった。
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