6

「ちくしょう!ちょこまか逃げてんじゃねえよ」

 フウマは肩で息をしながら叫んだ。

「どうしたどうした。大きなことを言っとった割に、案外だらしがないのう」

 四郎右衛門しろえもんはフウマから少しはなれたところで再び横になり、のんびりと尻尾を揺らした。

 啖呵たんかを切ってからたっぷり10分、フウマは広場の中を逃げ回る四郎右衛門を追いかけ回していた。

 フウマが全力で走っても、四郎右衛門は常にフウマの数メートル前を走り、フウマが疲れて足を止めると、わざわざ目の前に戻ってき尻尾を揺らしてみせた。

 それに怒ったフウマが再び走り出すと、軽々とその手を避けて、絶対に触れない距離まで遠ざかるのだ。

 そんなことを繰り返しているうちに、ついにフウマの方が音を上げて、芝生にごろりと転がった。

「くそ、全然追いつけねえ」

「はっはっは、だらしのないやつじゃ」

 四郎右衛門は笑い声を上げると、とことことフウマの横まで歩いてきた。

「忍者とはその名のとおり“しのもの”である。どんなに苦しいことがあろうと耐え忍び、任務を行わなければならん。また、忍という字は刃の下に心という字を書く。これは、」

 四郎右衛門の講釈こうしゃくは、途中で途切れた。

 少しずつ近づいてきた四郎右衛門をじっと見ていたフウマが、いきなり跳ね起きると、四郎右衛門に飛びかかったのだ。

 四郎右衛門が後ろに跳び退くと、フウマはいつの間にか地面から拾い上げて、手の中に隠していた石を投げつける。

 四郎右衛門が後ろに跳ぶのを見計らっていたように、石は四郎右衛門の体に吸い込まれるように飛び、

「おお!よっと――」

 黒い毛並みにぶつかる寸前、四郎右衛門は軽々と体を回転させた。

 四郎右衛門の体に当たりそこねた石は、芝生の上に転がった。

「ちっ」

「こりゃ!ワンちゃんに石を投げるでないわ」

「普通の犬に石なんか投げねえよ。お前は例外だ!」

 さっきまでの疲れ切っていた姿はどこへやら、フウマはロケット花火のように勢いづいて走り出した。

 再び鬼ごっこが始まった。

「はっはっは、ガッツがあってけっこうけっこう。面白いのう、フウマよ」

 四郎右衛門は軽やかに芝生を横切ると、出口にある、「U」を逆さにしたような車止めの下をくぐり抜けて、広場を飛び出していった。

 そのすぐ後ろで、フウマが車止めを飛び越して駆けていく。

「変な余裕見せて、あの犬ジジイふざけやがって。見てろよ、絶対ギャフンと言わせてやるからな」


 7


 広場から出て、人が行き交う街の中。

 フウマも見覚えのある宮之台駅前の歩道を、黒柴犬の四郎右衛門しろえもんが走っていく。

「待てこら、この、待ちやがれー!!」

「待てと言われて、待つわけがなかろう」

 四郎右衛門は、すぐ後ろを走るフウマをちらりと見た。

「どれ、少しばかり試してみようかの」

 そう言うと、近くにあったポリバケツを後ろ足でけり倒した。

 派手な音がして、歩道に倒れた青い大きなバケツが、フウマの目の前に転がり出た。

 フウマは一息に飛び越えるとポリバケツをさっと引き起こして、再び走り出した。

「こらー!いきなりあんなもん倒したらあぶねえだろ」

「すまんすまん、どうやら足が当たっちまったようじゃ」

「すまんですむか!」

 四郎右衛門は街中を逃げながら、フウマが走りにくいよう障害物を置いてみせた。

 川を飛び越え、生け垣の中を突き抜け、人ごみの中を駆け抜けた。

 しかし、フウマは四郎右衛門の作る障害物を次々と避けて、少しずつ四郎右衛門との距離を縮めていく。

「ふうむ。あなどれんやつじゃのう。今まで修行をせなんだのにこの身のこなし、本物じゃわい」

「この野郎、いい加減待ちやがれー!」

 フウマが手を振り回して叫んだ。その手に巻物が握られているのを見て、四郎右衛門は目を細めた。

「そういえばお前さん、巻物は使わんのかのう」

 フウマの目線がさっと巻物に走った。

「お前さんが思っとるとおり、それは忍術が収められた巻物じゃがのう。使えるもんなら使ってみい」

「言ったな、後悔するなよ」

 四郎右衛門に言われ、フウマは巻物を握った。この際得体えたいのしれない巻物だろうと知ったことか。カッカしたフウマは、四郎右衛門に巻物を向けた。

「あの犬捕まえる術、出ろ!」

 フウマが叫んだ瞬間、どろんという音がして、足元から煙が吹き上がった。

「しめた!本当に出た」

 フウマは足を止めて、煙が消えていくのを待った。この煙が消えたとき、きっと目の前に自分が出した何らかの忍術に捕らえられた四郎右衛門が転がっているに違いない。

 さてどんな顔をしてやろうか、と思っていると、目の前を漂っていた煙がサーッと引いて、

「な、なんだこりゃー!」

 街の中を走っていたはずのフウマは、スタート地点の広場に立っていた。


 8


「ふざけんな!なんでだよ」

 フウマは手に持っていた巻物を地面に叩き付けて怒った。

 巻物は芝生の上を跳ねると、広場のすみっこへと転がっていく。すると、巻物が転がっていく先、ビルの影でできた暗がりの中に一人の少年がぼうっと立っていた。

 足先に巻物が当たったことで少年がこちらを振り向いて、やあ、と声を上げた。

「フウマくんだ。こんなところでなにしてるの」

「あれ、コニシキじゃないか。お前こんなところで何してんだよ」

 呼びかけられたフウマが気の抜けた声を上げると、巻物を拾い上げた少年が近づいてきた。

 フウマより頭一つ抜けた背の高さを持つ少年は、横幅はフウマの倍はあった。まるまる太った顔が、フウマの姿を見つけて笑顔に変わる。

 巻物に張り付いていた芝生を丁寧に一本ずつ取り除くはじめた少年は、名前を小西こにし桐生きりゅうといった。学校では、名前の「こにし・きりゅう」から、コニシキなどというあだ名で呼ばれている。

「何って、もちろん、忍者の試験を……あっ」

 コニシキは途中まで言いかけると、大変なことを口走ってしまったという顔で、大きな手を口に当てた。

「心配すんなって。おれも同じだよ」

 フウマはコニシキのとなりに立つと、背中を叩いた。

 フウマより背は頭一つ分、横には倍もありそうなコニシキは、胆の大きさについては、フウマの方がコニシキの2倍、3倍はありそうだった。

 きれいになった巻物を確かめるように眺めると、コニシキはまるまると太った顔に人なつこい笑顔を浮かべて、フウマに巻物を差し出した。

「はい、落とし物。だめだよ、気をつけなきゃ」

「いらねえよ。忍術が使える巻物だって聞いてたのに、てんで使い物にならなかった」

「そうなの?」

 フウマがどうしても巻物を受け取らなさそうだったので、コニシキは巻物を手にしていた。

 「……っていうか、まさかフウマくんも忍者だっただなんてなあ。同じクラスなのに、ぼく全然気が付かなかったよ」

「お前が気が付かなくったって仕方ないぜ。おれも忍者になれって言われたのは、つい15分くらい前のことだからな」

 フウマは鼻を鳴らした。

「ええっ、じゃあ忍者になれって言われて、いきなり選抜試験に出てるってこと?すごく緊張してない?」

「ぜんぜん。むかっ腹が立っててそれどころじゃないぜ。頭の中、どうやってあの犬捕まえてやろうかってことばっかりだ」

 コニシキは小さい目を思いきり丸くした。

「やっぱりフウマくんはすごいなあ。ぼくなんて、この試験を受けるの今日で6回目なんだよ。なのにほら、今も手が震えちゃうくらい緊張しちゃって」

「ふうん。じゃあ、お前ってずっと忍者の修行みたいなことしてるってこと?」

「うん。うちは江戸時代より前くらいから続く忍者の家系だから、もっと小さいときから忍者になるように色々教えられてるんだよ」

「じゃあ、忍術にも詳しいってこと?」

「ええと、たぶん。うちの家、忍術が得意な家系だから、他の人よりはちょっと詳しいかも」

 へえ、とフウマは感心したような声を上げた。

 宮之台市立第一小学校でフウマと同じクラスに通うコニシキは、いつものんびりしていて何をするにも決まってワンテンポ遅れるようなやつだ。普段の様子を見ているフウマからしたら、コニシキが忍者候補だなんて、とても信じられなかった。

「お前、あの犬捕まえた?」

「四郎右衛門さま?もう全然だめ。さっきまで分身のおひとりがこの広場にいたから、チャンスだと思って一生懸命追いかけたの。でも、追いかけてる間にどこかいなくなっちゃって、どうしようかと思って考えてたんだよ」

「じゃあ、おれと一緒だ。犬に巻物使ってみろって言われて、巻物使ったら広場ここに戻ってきちまったんだ。くそ、まだ腹立つぜ、あのじいさん犬」

 フウマはまだコニシキの手の中にある巻物をつついた。

「コニシキ、なんだよそいつ。きっと不良品だぜ、その巻物。何が起きるか分からねえもの」

「そうなのかなあ」

 コニシキは手の中でしばらく巻物を転がしていたが、やがてフウマの方を見た。

「ええとね、これ、“わりの術”が使えるよ」

「代わり身の術?」

「そう。これを持っていて、たとえば……フウマくん、ちょっとぼくのこと殴ってみてよ」

 えっ、とフウマは眉をしかめた。

「やだよ。できるわけないだろ」

「いいからいいから。ぼくとケンカしてると思って、思い切り殴ってみて」

「普段ケンカなんかしないだろうお前は……じゃあ、ちゃんと避けろよ!」

 フウマは右手で握りこぶしを作ると、思い切り振りかぶってコニシキの肩めがけて突き出した。

 フウマのパンチは腹に当たる代わりに、何か硬いものにぶつかって、ガツン!という音がした。

「いっ……!痛ってえー!!」

 たまらず右手をさすって自分が殴ったものを見ると、コンクリートブロックがごとり、と重たい音を立てて転がった。

「こんな感じで、自分の身を守るときに使う術だよ」

 いつの間にか少しはなれたところに動いたコニシキが近づいた。

「あとは……あのさ、フウマくんは四郎右衛門様を追いかけてる途中に術を使ったら、ここまで戻ってきちゃったんだよね?」

「そうだけど」

「忍術を使う前に、この辺でなにかに触らなかった?」

 フウマはああ、と手を打った。

「そういえば、たしかさっき、あの犬に石投げた」

「し、四郎右衛門様に石を!?フウマくん、それはさすがに」

 コニシキは目を白黒させた。

「でも外しちまったから、たぶんその辺に落ちてると思うぜ」

「ふうん。じゃあ、フウマくんはきっとその石と入れ替わっちゃったんだ」

 フウマが見返すと、コニシキは巻物をフウマの見えるように持ってみせた。

「“代わり身の術”は、自分が触ったものと場所を入れ替わる事もできるんだよ」

「ごめんコニシキ。お前の言ってる意味がよく分からない」

 コニシキは左手でフウマの肩をさわった。

「今、ぼくはフウマくんに触ったよね。じゃあ、見ててね」

 コニシキは、手の中で巻物をくるりと回すと、一声叫んだ。

「代わり身の術!」

 コニシキの声が消えるかどうかというところでどろんと音がして、フウマとコニシキが煙に包まれた。

 煙は現れたときと同じように一瞬で消えると、ふたりはお互いがいた場所と入れ替わっていた。

「はい、こんな感じ。分かった?」

「うわっ! ……今、コニシキがいた場所と代わったのか!?」

「そういうこと。でも、ほとんどの忍者は、代わり身の術って言ったら、さっきみたいに攻撃されたとき、身を守るための術だって思ってるんじゃないかな」

 フウマはコニシキの顔をじろじろと見た。

「コニシキ。お前、じつは超すごいやつなんだな。これが何の巻物かあっさり見破ったし、そんなにできるやつだって知らなかったぜ」

 とたんにコニシキはおどおどし始めた。

「そ、そんなことないよー。ぼくはほら、ばあちゃんが忍者だったから、忍術の使い方なんかも習ってただけだからさ」

 コニシキが困り果てたような表情をしたので、おまんじゅうみたいな顔にシワができた。

「それに、ぼく今回で選抜試験を受けるの6回目なんだよ。毎回、緊張して変なところで失敗しちゃって、そろそろ合格できるように頑張りなさいってばあちゃんに言われるんだけど、どうしてもだめなんだ。走っても追いつけないし、忍術でどうにかしようとしたって、出そうとする前に四郎右衛門様がどこかに逃げていっちゃうもの。きっと今回も不合格だよ」

 コニシキは大きい体をすっかり小さくして言った。

「試験、あきらめるのか?」

 フウマはコニシキにそう尋ねた。一方で、頭の中はものすごい勢いで回転し始めていた。

 代わり身の術。

 こいつを上手く使えば、四郎右衛門を捕まえられるかもしれない。

 そう考えると、得体のしれなかった巻物が急に頼もしく感じられるようになってきた。

「そりゃあ、あきらめたくないよ。でも、ぼくだけじゃあ追いつけっこないんだもの」

「それだよ。お前だけじゃだめだ」

「えっ?」

 フウマはコニシキの肩を引き寄せると、耳もとにささやいた。

「おれだけでもあの犬にからかわれて終わりだ。おれとお前で、あの犬ジジイを捕まえちまおうぜ」

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