捨て犬
虎ノブユキ
捨て犬
その日は珍しく残業もなく、定時にあがれた。
とりわけ同僚達と飲みに行くということもなく、電車に乗り、とりあえず家路についた…。
私は家の最寄りの駅でいつも通り降りた。
真冬なのにまだ少し明るい。
このまま真っすぐ家に帰ったら、夕飯の支度をしている妻に嫌な顔をされる。
一ヵ月後に高校受験を控えている息子が塾から帰宅するまでの二時間、妻と二人っきりにもなってしまう。
夕飯の支度をする妻の後ろで、私はソファに座りテレビを見る。そして、とりわけ悪いこともしていないのに何故かイライラしてくる妻の様子を察知し、テレビの音量を下げたり、やたらとトイレに行ったりする。
無論、「何か手伝おうか?」なんて、そんな出過ぎた真似をするほど私はバカではない。
バカでもなければ利口でもない私の稼ぎはたかが知れていて、物価高の影響もあり、景気と家計と夫婦仲の冷え込みは連鎖していく。
自分の部屋でもあったら顔を合わせる時間も減り、妻の機嫌もこれほどには悪くならないのだろう。と、思ったりもしたが、そもそもそんな広い家に住めるステータスだったら、二時間くらい一緒の空間にいる私と妻は、共に平和に過ごせるだろう。
いや、やはりそんなステータスであっても、そこは調子に乗らず、自分の部屋でじっと息を潜め、二時間経つのを待ち、妻のパーソナルスペースの確保に尽力しよう。
それが真の平和への第一歩だ。
元々妻の性格はキツめだったし、私は鈍くさい。そのくらいの方がバランスが取れて夫婦仲はうまくいく、ということにして、今までおそらく、そんな調子で、私はその、真の平和を追い求めてきた…。
駅の改札を出ると、すぐ目の前はパチンコ屋だ。私は平和のために、そのパチンコ屋で時間を潰そうと思った。が、軍資金は一ヶ月分の昼飯代と小遣い、一万五千円の残り、二千円程だ。これっぽっちで勝負するほどの勇気もないし、そもそももし私にそんな勇気があれば、最初っからまっすぐ家に帰っているだろう。
私はそんな救いようのない自問自答を繰り返し、パチンコ屋を通り過ぎ、商店街を進んだ。どこかの店に入るでもなく、何かの誘惑に駆られるでもなく、只々歩いた。
そして私は、いつもの路地の、いつもの公園に差し掛かった。
と、小さく薄暗い公園の入り口、石柱の袂に、ぼんやりと街灯に照らされたダンボールがある。
近づいてみると、その中には、子犬がいた…。
…今どき捨て犬なんて。
白に茶色の斑の、たぶん雑種だろう。その子犬は怯えるように震えていて、首輪から伸びる紐は街灯の足に括られていた。
私は視線だけ子犬に残しながら、その場を通り過ぎた。すると子犬もダンボールから身を乗り出し、私に向かって鼻をぴくぴくさせ、喉をクゥンクゥンと鳴らし、救いを求める様な視線を向けた。ダンボールには、『この子を育てて下さい。おねがいします』と書かれている。住宅街だ、誰かがすぐに餌でも与えるだろう。そして飼い主もすぐに見つかるだろう。それか、誰かがsnsで協力者を募るだろう。または、誰かが動物愛護団体にでも連絡をするだろう。
誰かが、誰かが…。
振り返ると、遠くの方で子犬はまだ、私の方を見ていた。
私はその視線に気づかないふりをして、家路についた…。
家の前にたどり着いたのは、やはりいつもより二時間ほど早かった。
いざ玄関を開けようとすると、恐怖感が湧いてくる。丁度いい、あの子犬が気になっていたので、先ほどの公園まで戻ろう…。
時間を潰す歩き方をしたので、公園まで三十分程かかった。
…まだ、子犬はそこにいた。
誰かが置いていったのだろう。ダンボールから出ている子犬は食べ終わった餌の缶詰の内側をペロペロと舐めている。そして、餌の余韻を楽しむ様に自分の口の周りを舐め、私に向かって嬉しそうにしっぽを振った。
…私じゃない、礼はいらないよ。
誰かがこの捨て犬を気にしている。
私は少し安心して、「がんばれよ」と心の中でエールを送り、その場を去ることにした。
やはり飼う事は出来ない。申し訳ない、私の立場も分かってくれ。
振り返ると、子犬はまだ私に向かってしっぽを振っていた…。
いつもより一時間ほど早い帰宅だ。
もはやそうなる事を予想していたかの様に、私は玄関の扉を開けることなく、再びあの公園に向かった。
二十分ほど歩き、公園に近づくと、向こうから息子が歩いて来るのが見えた。息子はスマホを見ながら歩いていて、私には気づいていない。私はなぜか咄嗟に身を隠し、息子の様子を窺った。
そしていよいよあの捨て犬の前を息子が通ることになる。子犬が息子を目で追っている様にも見えた。相変らずスマホを見ている息子は、とうとうその子犬に気づくことなく、その場を歩き去ってしまった。
息子が見えなくなるのを確認して、私は子犬のもとに向かった。
子犬は赤いマフラーの様な物で包まれていた。元々タオルのような物は敷いてあったが、この寒空の下だ、誰かが置いていったのだろう。空の缶詰はそのまま置いてあったので、また別の誰かだろう。
子犬はマフラーから出した鼻先をヒクヒクさせ、あくびをして、マフラーにもぐり込んだ。
私はまるで子犬に里親が見つかったかの様に安心し、その場をあとにした。
それでも尚、うしろ髪を引かれるのは、情が移ってしまったからなのだろうか。
人が捨て犬に出くわすということは、こういうことなのだろう…。
思いに更けながら歩き、いつもより十五分ほど早い帰宅となった。
子犬への想いは夕飯の食卓まで持ち越された。
食卓の間を取り持つためにいつもつけられているテレビの内容も、まったく入ってこない。
息子がボソボソと口を開いた。
「第一志望の帝南高校。たぶんムリだよ」
私に向かって言っているのではないが、もちろん動揺した。
スマホをいじりながら箸で肉じゃがをつまむ息子に、妻は冷静に言った。
「なんで? 西川高校からじゃ行ける大学なんてたかが知れてるんでしょ」
息子はスマホをいじりながら答えた。
「別にいいよ。やりたい事もないし」
しばらくして妻は、一瞬私を見て、息子に向かってこう言った。
「ま、とにかくがんばってね」
普通こういうとき父親は、モチベーションを上げる策を講じたり、精神論を談じたりする。無論、私にそんな権限はない…。
何事もなかったかの様に妻が言った。
「パートの時間、もっと増やそうと思って」
これは私に言っている。
「あ、ああ、そうなの」
普通こういうとき夫は、「家事がおろそかになる」などと、男特有の価値観で反対するか、家計の補填の申し出に居たたまれなくなったりするのだが、このパターンは、そのどちらでもない。
そう、ついにきたのだ…。
…半年ほど前の事だ。
輸入雑貨屋でパートをし、夕方六時には帰宅していた妻が、週に二回ほど私が帰宅しても家にいないという事が起こり始めた。
一人で弁当を食べていた息子が言う。
「おかあさん残業だって」
…残業? 最初は少し疑問に感じたが、すぐに慣れていった。
妻の働く店は家の最寄の駅の反対側にあった。
その日はたまたま、その妻の店の隣の本屋に用があった。今、家に妻がいなければ残業している頃だろう、と思いながら仕事で必要な本を買い、駅の反対側へと向かう道を歩いていた。飲食店の立ち並ぶ通り、そこで私は見てしまった。男と腕を組み、楽しそうに歩く妻を。私は思わず立ち止まり、身を隠した。そして二人はそのまま、居酒屋に入った。
知り合いに見られたらどおするんだ、と思ったが、それを気にしないのも、また妻らしい…。
男は雑貨屋の店長だった…。
「大学行くならお金も掛かるし、パートの時間増やすね」
「…申し訳ない」
それ以上、何も言えなかった。
パートの時間を増やす理由が不倫であっても、本当に学費のためでも、もはや何も言えなかった…。
いつからこんな家族になったのか…。
…犬が居たら。
もし、あの子犬がこの家に来たら、かわいいペットの成長の話題で毎日の食卓も楽しいだろう。息子も感情豊かになり、やりたいことも見つかるかもしれない。犬に愛情を注ぐ家族はひとつになり、お互いを思いやり、妻の目も覚め、不倫なんて当然やめるだろう。
…私は小さく言った。
「…犬」
妻と息子が私を見る。
「犬、飼おうか…」
妻はきょとんしていたが、すぐにスマホをいじり始めた息子が言った
「公園にいたやつ?」
…全身の力が抜けた。
気づいていたのだ。息子は捨て犬に気づいていて、何事もなかったかの様に歩き去ったのだ。
「ペットは飼わない」
妻のその一言で、この話は終わった。
その日はなかなか寝付けなかった。
子犬を見捨てたことから始まり、今までの私の人生を思い返すと、まあ情けなくて居たたまれなくなる。都合の悪いことは見て見ぬふりをすること。事なかれ主義で責任を負うのが恐く、重要な決断は何一つできないこと。自分が何をしたいのか、自分が何を思っているのか、しっかりと、ちゃんと目の前の人に伝えないこと。妻が浮気するのも、息子が冷めているのも、全て私の、そのずるくて卑怯な性格のせいだ。
…気がつくと私は上着をはおり、サンダルを履き、家を出ていた。
…きっと何かが変わるはずだ。
本当はその日、会社が終わると同僚たちは飲みに行った。自分は誘われなかった。その事実さえ見て見ぬふりをした。
もうやめよう。あの子犬のように生きよう。満腹の喜びや温もりの幸せを小さい体で精いっぱい表現し、自分の置かれた立場がどうであろうと、只々ひたむきに生きる、あの子犬のように生きよう。そして、そんな正々堂々とした自分を息子に見せよう。妻とも真正面から向き合おう。もう逃げることはやめ、本当の自分をさらけ出そう。子犬に家族関係を修復してもらうのではなく、私が、私自身が家族を幸せにしよう。あの子犬のように、自ら、自分自身の力で。
私は走っていた…。
公園についた頃にはもう日が変わっていた。
街灯の下に、小さな女の子とその母親らしき女性が立っている。女の子の腕の中には子犬がいて、母親らしき女性がその子犬を優しく撫でている。女の子は嬉しそうで、何度も何度も子犬に頬をすりよせていた。
母親らしき女性が近づく私に気付き、言った。
「あ、もしかしてこの子の飼い主さんですか?」
「いえ」と答えたが、それならそれで怪しい人なので、すぐに付け加えた。
「夕方その子犬を見て、ちょっと心配になって様子を見にきてしまいました」
「…そうですか。缶詰を置かれた方ですか?」
「あ、いえ」
…結局私は、何もしていない。
「この娘がぜったい飼うんだって。主人は反対して、マフラーだけ置いてこいって言ったんですけど、帰ってからもずっと泣いてて、ついに主人が折れまして…」
よほど泣いたのだろう。子犬を抱く女の子の目の周りは赤く腫れていた。
子犬は気持ちよさそうに眠っている。
私は頭を下げ、子犬と共に帰っていく親子を見送った。
…またか。また、何もしなかった。
面倒なことを避け、傷つかぬよう、責任が及ばぬよう、ただ、只々時間が経つのを、静かにじっと、ずっと待ってきた。ずっと、ずうっとそうしてきた。
今もそうだ…。
私はひとり、街灯の下に立っている。
少し前に似たような光景を見た。
…私は捨てられているのか。
ふと、あの子犬を思い出した。
私はこれから先、あの子犬のように生きていけるのだろうか。
あの捨て犬のように、他の誰でもない、自分、になれるのだろうか。
寒空の下、私はそんなことを思いながら立ち尽くしていた。
そして、サンダルで出てきたことを少し後悔している。
捨て犬 虎ノブユキ @kemushikun
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